幻の湖
マントや上着を脱ぎ、肌着のみになり、湖に飛び込んだ。
水の中は暗かった。顔の前に、水草のようなものが絡みつき、不快で邪魔だった。
払っても、払っても、水草の群れは途切れない。
こうまで、視界が悪いとは思わなかった。泳ぎは得意だ。しかし、藻のせいで、思うように先に進めない。息が苦しくなってきた。
これは、現実の湖なのだろうか。昨日までは確かになかった、でも、私もタクト・タタも湖を確かに目視していて、フィロは消えてしまっている。
息が苦しくなってきた。怖い。しかし、上に上がってしまったら、次はこの深さまで、潜れるか。目の前の藻を払った。もう少し。何か、手がかりはないか。
その時、赤い光が見えた。その色には見覚えがある。
水晶血丹だ。宿主の危機を察知した時のみ、赤い光を放つ。その血のような色は、大嫌いだった。弟の血を吸って、その色を出しているのかと思うと、いつも腹立たしかった。
しかし、今、その血のような赤い色は、主人の、フィロの居場所を指し示してくれていた。
フィロの手をとり、フィロの自由を奪っている水草をナイフで断ち切った。
解放されたフィロを引き上げ、上に、地上に向かって、泳ぎ出す。もっと、眩しい光に向かって。
フィロの体を水面に押し上げ、私自身も顔を出した。タクト・タタがすかさず私とフィロを抱き上
げてくれて、地面の上に寝かせてくれた。
「おい! 大丈夫か!」
激しく咳き込み、ようやく、息がつけたことに安堵するも、フィロは意識を失ったままだ。
「フィロ、起きろ!」
フィロの頬を叩くと、フィロは激しく咳き込んだ。
無事に地上に上がれた。戻ってこられた。私もフィロも死ななくてすんだ。それに対する安堵から、涙がぼとぼと落ちた。
「死ぬかと思った」
鼻水も出てきたが、目の前にいるのはフィロとこの人しかいないし、まあ、いいか。涙と鼻水を布で乱暴にぬぐった。
タクト・タタは私とフィロを何やら恐ろしげな表情で見つめている。無事に帰ってきたんだから、もう少し嬉しそうな顔をすればいいのに。タクト・タタは口を何度かぱくぱくさせ、ようやく声を出した。
「おい、お前……どういうことだ?」
「どういうことって?」
「……お前ら、何で濡れてない?」
「はい?」
この人は何を言っているんだろう。私もフィロもさっきまで、溺れかけていたんだから。髪や体に触れてみる。乾いていた。私もフィロも。服も体も濡れてない。どういうことだ。あの水の中の息苦しさは嘘だったのだろうか。
「どういうことです?」
ぞっと鳥肌が立った。自分の腕で体をぎゅっと抱きしめる。タクト・タタは少し冷静さを取り戻したようにほっとため息をついた。
「まあ、何にせよ、とにかく、二人とも無事に帰ってきてよかった」
状況がよくつかめていない様子のフィロは私とタクト・タタを交互に見つめた。
「どうしてタクト・タタがここにいるの?」
「おめえが具合悪いっていうから、ついてきたんだよ」
「そっか、ありがとう。やっぱり、タクト・タタも俺のこと好きなんだね」
「ちげえって」
「俺は友達になりたいって思ってる」
さんざん心配させたくせに、当のフィロはこんなのんきなことを言ってる。ふいにフィロの頭を見ると、何か緑色の粉のようなものが付着しているのに気づいた。
「ねえ、頭に変なのついてる。藻かな?」
フィロの頭についていた緑色の物体をとり、じっと見詰めた。さきほど、水の中で見た光景が思い浮かぶ。やはり、あれは藻だと思う。まるで、水の中を支配していたような―
売薬手帖で見たことがあった。その項を開かずとも、内容は頭に入っている。
「……あの藻、こんなところで見られるなんて」
息はまだ苦しかったが、心臓が高鳴っているのは、溺れ死にしかけたからだけではない。
「もう、一回見てみたい」
顔を見ずとも分かる。タクト・タタは明らかにぎょっとしていた。
「はあ? あんた、今、死にかけただろ」
「死にかけたから、これから、死なない対策ができるんじゃないですか」
呆れ果てた顔のタクト・タタに綱を渡した。
「持っててください」
「待てって! 現実の水の中ならまだしも……誰かの罠かもしれねえぞ」
綱を渡して、私は迷わず飛び込んだ。現実に存在しない、幻の湖の中へ。
湖の中は、意外に澄んでいる。先刻は、自分の動揺が水の粘りけと濁りを感じさせられていたのだと気づく。つまり、私の恐怖と不安で自分で自分の首をしめていたということだ。水の中でなければ舌打ちをしていただろう。
稚魚の群れや水草の群生がはっきりと目視できた。これは幻想の湖の景色なのだろうか。だとしたら、非常に優秀な幻だ。いつも、水にもぐっている時の息苦しさや圧と全く変らない。頭上では、太陽がきらきらと輝いている。
さらに深く潜ると、目当ての藻が見えた。触れようと、手を伸ばした。その途端、目の前で緑色が弾けた。
水の中で、周りを見渡した。水草の他に視界を悪くさせていた原因は、この深緑色の藻だったのだと気づいた。藻が顔にまとわりつく。まぶたに藻がぶつかり、思わず目を閉じた。
「・・・・・・もう、やめてって、何度も・・・・・言って・・・・・・のに」
知ってる声だ。ずっと、探し続けていた声。どうして、ここに。
「止めても・・・・・・無駄だ」
こちらは知らない声だ。若くはない男の声。
まぶたの裏に、夢か幻か分からない光景が浮かぶ。若い女が悲壮な表情で、壮年の男の腕を掴んでいる。
「父さん、あんな植物に手、出すなんて」
「あれをもっと研究すれば、もっと……」
「許せない・・・・・・こんなの薬売りじゃない」
視界に光が満ちた。
同じ女の人の声がする。さっきとは全然違う穏やかな声色。緑色の人形に「ルチカ」「フィロ」とささやきかけて、人形の頭の上に手を置く。私は、緑色の人形の頭に刃を立てて、横にびっと裂いた。ちりじちに散った緑の塊の一部を掴み、捕りだした袋の中に入れる。長居は無用だ。私は地上の陽光に向かって、泳ぎだした。
息が限界だった。藻を振り払い、地上を目指した。
水面から顔を出した私をタクト・タタがひっぱりあげてくれた。やはり、体は乾いている。さきほどまで確かに感じていた息苦しさや水圧が嘘みたいだ。けど、そんなことよりも、もっと重大なことが私の頭の中を占めていた。
「おい、何なんだよ」
「・・・・・・さん」
「え?」
「・・・・・・お母さん」
「採れました」
私が藻の入った袋を差し出すとフィロは目を輝かせ、タクト・タタは呆れたような表情をみせた。
「大体の謎が解けました。これ、預かっていてくださいね」
袋を手に、タクト・タタはぽかんとしている。
「フィロ、行くぞ!」
私はぼうっとしているフィロの手をつかんで、まっすぐ井戸のほうへと向かった。
「フィロ、行ける?」
「うん、何とか」
私はフィロを両腕で抱きかかえ、井戸のへりに上った。
タクト・タタが慌てて、私に駆け寄る。
「おい、お前ら、何してるんだよ!」
「大丈夫です、水位は十分にあるから」
そう言って、私はフィロを抱きかかえたまま、井戸の中に飛び込んだ。