仮の名前と本当の名前
食事の後、くつろいだ様子のちびルチカがぼそっと呟いた。
「どうして、弟は言葉を話さないのかなあ」
「ずっとそう?」
「うん」
「あのさ、この街に来る前のこととか覚えてる?」
「知らない。気が付いたら、この家に弟といた」
「そっか」
「それ以外のことで思い出したこととかある?」
「分かんない。自分の名前が『ルチカ』で弟の名前が『フィロ』ってことは『知ってた』。それ以外のこては何も分かんない」
つまり、ちびルチカは、ちびフィロを最初から疑いもなく、『弟』だと認識していた。
ちびルチカは気落ちした様子で呟いた。
「私の知らないところで、どこかでケガをして、頭を打ったとか。どこかで、大きな病気をしたとか」
その可能性は考えて、ここに訪ねた最初の日に二人を診てみたが、大きなたんこぶや傷のようなものは確認できなかった。それがどこかでケガをした可能性がないとは言えないけれど、どこか痕跡のようなものがあれば見つけ出してあげたかった。
「大丈夫。焦らなくていいよ。思いだせることがあるならゆっくりで」
ちびルチカの服に染みがついていたので、彼女の許可をとって洗濯をすることにした。
二人の衣服はつくりは悪くはないが、いかんせんぼろぼろで、しかも体の大きさに合っていない。もっと小さい頃の服をそのまま無理に着ている、そんな感じだ。もっと成長したら、さすがに新調すべきだろう。
そんなことを考えていると、服の懐の中から小さな巾着が落ちた。中身はひし形の銀色と思われる薄い板で、同じものが二つそろっている。大きさといい、おそらく耳飾りだろう。
「これ耳飾りだよね?」
「分かんない。耳になんてつけたことないもん、だけど綺麗でしょ?」
私の感覚ではこれを綺麗とはなかなか言い難い。耳飾りと思われるものは、ところどころ黒い錆びが浮いていて、銀色の部分が大分浸食されている。
ちびルチカに耳飾りを磨いてもいいかと聞くと、あっさり了承してくれたので、油をつけた布で磨いてみた。錆びは簡単にとれ、ほどなく美しい銀色の光が黒い錆びの下からちらちらと見え始める。
すると、銀色の輝きの中に明らかに錆びではない黒色が混じっていた。磨き続けると、これは字であると気がついた。
「『ミロル』」
耳飾りに掘られた字は、確かにそう読めた。気になって、ちびフィロの服も調べさせてほしいと頼むと、同じものをちびフィロも持っていた。それを磨き上げると「『カロン』」と読めた。
耳飾りを見せると、ちびルチカはぽかんとしていた。
「この『ミロル」があなたの本当の名前かもしれない」
ちびルチカは黙っている。隣国には男女問わず生まれた時に、子供の名前を刻んだ耳飾りをつくる風習があると聞いたことがある。二人がそれぞれ持っていたのはおそらく、それだろう。
「ただ、この耳飾りは違う人間の持ち物が二人の荷に紛れ込んだ可能性もあることはある」
「そうだったら、悲しいな。お守りみたいにしてたから」
それまで黙っていたちびルチカがぽつり、と呟いた。
「そうだよね」
「でも、他の人のものだったら、返さなきゃね。生まれた時につくってもらったものだったら、宝物のはずだし」
「私はあなたたちのものの可能性のほうが高いと思う」
「じゃあ、今まで思い込んできた『ルチカ』って名前は間違ってるの?」
「それは私が決められることじゃないから」
ちびルチカは顎に手をあてて、小さく呻っている。おかしな話だよな。自分の名前をどの名前にするかなんて、自分が決めることじゃないはずなのに。
こんなことで悩ませるなんて、馬鹿げてる。何か言うべき言葉を探しあぐねているうちに、ちびルチカは口を開いた。
「二人とも同じ名前っていうのは、不便だね。私のことは、『ミロル』って呼んでいいよ」
「あなたはそれで、いいの? 『ルチカ』って名前は大事な記憶でしょ」」
「仕方ないよ。それに……」
「それに?」
「自信がなくなってきた。だって、私たち、二人と一緒の名前なんておかしいもん」
そうだった、二人と出会ったことで、私とフィロは混乱したと思っていたけれど、ちびルチカとちびフィロはもっと混乱していたんだ。気がついてやれなかった。
「ルチカもフィロも私たちの名前、呼びにくそうだしね」
「カロン」
ちびルチカは唐突にちびフィロをその名で呼んだ。『カロン』と呼ばれたちびフィロは一瞬、ぽかんとした。
「あんたのこと、これから『カロン』って呼んでいい?」
ちびフィロはほんの少し小首をかしげた。
「いやがってはいないみたいね。あの子は『カロン』、私は『ミロル』でいいよ」
「……ごめん」
「何で謝るのさ。あくまで、ル―と区別するための仮の名前する。それに……『ミロル』って名前で呼ばれたら、もしかしたら、何か思い出せることもあるかもしれないし」
「……分かった」
「じゃあ、呼んでみて」
有無を言わさない口調で、ちびルチカは言った。濁りのないまっすぐな瞳で私を見る。出逢った時の心許なく揺らぐ、虚ろな瞳はここにはなかった。
「ミロル」
「ルチカ、よろしく」
ミロルはふっとほどけたように笑った。
翌朝、フィロに留守番を頼み、朝市に出かけた。市場の屋台は時間帯によって、品物がぐんと変る。
朝はおかゆや雑炊が人気らしく、出勤前と思われる人々がいたるところで座りこんで食べていた。パンを浸したおかゆみたいなものもあって、どうやら焼き立てのパンを甘いミルクのようなものに浸して食べるらしく、食欲をそそった。
近くの大きな湖でとれた魚やエビなどの魚介類が新鮮で美味しそうだった。どれにしようかな。私はどれも食べたいんだけど、それでは財布がもたないからな。迷ったあげくに、きじ肉とうずら肉の串焼きと白いふわふわの肉まんじゅうと砂糖漬けの赤い宝石のように光るつぶつぶの果実が上に乗ったふわふわの四角いお菓子のようなものを買った。かぶらないものを選んだつもりだ。どれかひとつでも気に入るといいんだけど。
「ただいま」
ちびルチカ、もといミロルは私の匂いをくんくんと嗅いできた。
「獣の匂いがするね」
「ああ、きじとうずらの肉ね」
「何それ?」
「食べてみる?」
ミロルはさらに私にくっついて、くんくんと匂いを嗅いだ。あの家にあったのは、匂いのしない食べ物ばかりだ。串焼きの匂いは強烈だろう。
「いらないなら、私が食べる」
「え?」
「他にも肉のおまんじゅうとか、お菓子とか買ってきたけど、食べろとは言わないよ。まあ、一緒に食べてくれたらうれしいけど」
買ってきたものをお皿の上に並べた。ミロルとカロンはお皿の上の食べ物をじっと見つめて、微動だにしない。迷っているな。迷ってくれただけで、買ってきたかいはあった。
「どうぞ」
ミロルは串焼きを受け取った。甘辛いたれと香辛料がかかった串焼きは、ぴりっとした香ばしい匂いを発し続けている。ミロルは串焼きに口を近づけた。おそるおそる未知のものを受け入れていいのか確かめるように。とうとう口に入れて、咀嚼し始める。眉間に皺を寄せていた表情がだんだんとぱあっと明るくなっていく。
「おいしい」
「よかった」
「こんなに美味しいものが外の世界にはあるんだね」
「屋台には他にもいっぱい食べ物があるんだよ」
「本当?」
「おいしいもの、もっと一緒に食べよう」
「うん、みんなと一緒だったら、もっとおいしい」
カロンは、夢中で串焼きにかぶりついている。「美味しい」そう言ってくれることを期待したけれど、カロンは一言も発しない。だけど、食べ終わった後、私とフィロを見て、歯を見せて、にっと笑ってくれた。食事は満足してくれたみたいで嬉しい。
「二人とも元気は元気なんだよね。でも、カロンがしゃべらないことがやっぱり、気になるな」
「カロンはミロルと違う薬を飲まされたかもね」
フィロの言葉にはっとなった。そうなると、ますます対処が難しくなるじゃないか。
「私たちの知識じゃどうもしてられないね」
「時間が経って、薬の効果が薄れることもあるんじゃない?」
もし、そうなったら、あの子たちの精神さえ安定していれば、二人が外に出られる可能性生まれるかもしれない。私は少し興奮して、フィロの肩を揺さぶった。
「薬で頭に靄がかかったみたいない感じになってるのかな。それで、ふとした時に、靄が晴れたりするだったら、薬の効き目が切れたら、一気に記憶が戻る可能性だってあるよね」
「記憶が戻ったら、しんどいこと、いっぱいあるかもよ?」
はっとした。フィロの言葉ではなく、フィロの表情に。光をひたすらに吸い込んでしまいそうな穴ぼこのような暗い目をしていて、私はただ、たじろいだ。
「このままのほうが幸せなのかな?」
「・・・・・・そう、かもね」
嫌な記憶をなかったことにできたら。そんなことは考えても無駄だと分かってる。でも、それは私とフィロの場合だ。もし、あの子たちは過去、私とフィロが思っていたのと同じような、いやそれ以上の苦しい記憶を持っていたのがとしたら、それを本人の意思関係なく思い出させるなんて、ひどく傲慢な振る舞いのような気がする。
ロニが目を細めて、カロンに頭をぐりぐりと押しつけている。カロンは戸惑いながらも、やがて、ロニの匂いをくんくん嗅いで、両手でロニの体を包み込んだ。その様子をミロルが目を細めて、見つめている。
「かわいいね」
「かわいくすれば、ご飯もらえると思ってるからね」
「ふふ」
この子の笑顔を初めて見ることができた。
「この家から出たいって思わない?」
「私たち、変だよね。自分の名前も分からないし」
「変じゃないし、それを恥ずかしく思う必要なんてない」
「そういうふうに言ってくれない人と・・・・・・外で、ルーとフィロ以外の人と会うのね?」
「ちょっと外に出て歩くだけなんだから、そんなこと思われないよ」
「ううん、変って思われる。殺される」
「どうして殺されるって思うの?」
「知らない、そんなの。たまに変な夢を見る……おかしい奴は来るなって、石をぶつけられるの」
「怖い夢だね、でも夢は夢だよ。そんな夢、現実では何もできやしないから」
背中に汗が伝った。大丈夫。声は震えていない。
ミロルは下を向いた。けれど、全身で聞いてくれているのが分かった。
「うん、外に出るの嫌だったら、出なくていい」
「本当ね?」
「どこにいても、私たちが守る」
ミロルがつがみついてきた。私は抱きしめた。私とミロルは同じくらいの背丈であることに気づいた。この子のことは何も知らないけれど、年下だと思う。この子が望むなら、私はこの子の仮の姉になる。カロンが不思議そうに私たちを見つめているのが何だかおかしかった。