病気の馬の治療
馬は元気がなく、発汗があり、前掻き(前足で地面を叩くこと)を繰り返しており、時折、自らの腹部を見る行為が見られる。ゆとりのある馬がよくする口遊びなどの特徴は見られない。
「飼料は食べてますか?」
「いや、ほとんど手をつけない。夜も馬舎で転倒したりしてさ、ひやっとしたぜ」
馬の目は、通常、穏やかな丸い目をしている。しかし、この馬は目が三角形に歪んでいる。これこそ、痛みに耐えている証拠だ。
「あの、あなた、この街に来てから、この馬を安く買い取ったって言ってましたね」
「ああ」
「この馬を買った業者のところに案内くれますか?」
その馬舎には、他に十頭の馬がいた。ぱっと見ただけでも、どの馬も元気がない。
馬主の中年男性が胡散臭そうな目で私たちを見た。
「いったい、何事だ?」
「この馬たちの糞を調べてもらってもいいでしょうか?」
「何なんだ、あんたたちは?」
「薬売りだよ。俺のこと、覚えてるか? あんたから馬を買った客だけど」
「あんた……今更、何の用だ?」
「買った馬の調子が悪くてさ。安心しろよ。金を返せなんて言わない。だけど、この馬は病気だ。しかも、見たところ、他の馬も同じように元気がない。その原因を知りたい」
「調べさせていただいてもいいですか。もちろん、お代なんか請求しません。調べるだけです」」
「……勝手にしろよ」
馬主の男性の男性はいかにも迷惑そうであったが、馬房の中を案内してくれた。
極少量の馬の糞便をすくいとり、それを薄い板の上に乗せ極少量の水で溶かす。そして、カバンの中から拡大鏡を取り出し、倍率を調整して、鏡をのぞいた。
「やっぱり」
そこには、虫の卵が映っていた。フィロにも確認してもらい、やはりフィロとの意見も一致していた。
「寄生虫じゃないでしょうか? これは簡易な検査方法なので、精度はあまり高くはありませんが」
糞便の中にいた寄生虫の卵がやがて常温で孵り、その幼虫が馬たちの飼料の中に紛れ込む。馬は何も知らずに飼料を食べ、寄生虫を経口摂取してしまう。そして、その幼虫が馬の胃や腸の中で成虫となり、その成虫が馬の体内を暴れまわり、痛みを引き起こす。
馬房の馬を一頭ずつ見て回る。馬の年齢もさまざまで症状の程度の違いはあったが、ほぼすべての馬にタクト・タタが買った馬と同じ症状が見てとれた。
「治るのか?」
「経口摂取できる虫下しがあります。できたら、この馬房の馬たち。寄生虫がいると確認できた馬から虫下しの薬を飲ませたいんですけど」
「それで本当に治るんだな」
「治ると信じています」
「任せた、金は払う」
そう言って、馬主の男性は私たちの手伝いをしてくれた。虫下しの薬は家畜用の練り薬で、そのまま口に入れようとすると、拒絶される可能性があるので、りんごに穴を空けて、その中に薬を仕込んで、そのりんごを食べさせた。他の馬たちに薬を与えている間に、タクト・タタの馬にも排便があったので、同じように調べたら、やはり寄生虫だった。
すべての馬に薬を与え終わると、馬主の男性が料金を払おうとしてくれたが、治ったと確認できてからでいいと断った。
「このまま、この馬、私たちがあずかります」
無事に薬入りのりんごを食べたタクト・タタの馬をなでながら、言った。
「すまねえな、何から何まで」
フィロは馬とタクト・タタを交互に見ながら、つぶやいた。
「薬売りにひどい目に遭わされたの?」
「いや、馬の命を救われたんなら、嫌いとはもう、言わねえ」
答えになっていない。うまくはぐらかされてしまった。
「正直、助かった。ありがとう」
「ここで、さよならはしたくなかったんだ」
タクト・タタは困ったなと言わんばかりに頭をぽりぽり掻いた。
「恩義を感じてんのなら、そんなもんいらねえぞ」
「恩義じゃないよ。タクト・タタと仲良くなりたい」
タクト・タタは今度こそ、固まってしまった。私も彼ほどではないが、ぎょっとした。
本当にあの人見知りで、ハリネズミのように全身を尖らせていたフィロだろうか。でも、前のフィロに戻った、そんな気もする。以前の誰に対しても、明るくて優しかったフィロに戻ってくれたら。普段封印していた願望が胸にふつふつ湧いてきた。
「俺のこと、嫌いだったらしょうがないけど、考えておいて」
フィロはタクト・タタをまっすぐじっと見詰め、タクト・タタはどう返せば分からない、といった具合にもごもご言いながら、宿に帰っていった。
「タクト、薬売りが嫌いだなんて意外だったな」
フィロはタクト・タタの後ろ姿を見つめて、名残惜しそうにしている。
タクト・タタは、薬売りと何か因縁めいたものでもあるのだろうか。そういえば、私とフィロは薬売りという生き物は、母しか知らない。母の話から、会ったことのない祖父は勿論、薬売りとは誇り高い人々だと教えられて育った。他の薬売りはどんな人たちなのかな。それでも、薬売りは目の前の苦しんでいる人たちに理不尽な真似はしないはずだ。私もフィロもそう信じてる。
「ずいぶん、あの人には積極的じゃん。いつもの人見知りはどこ行ったよ?」
「俺って、人見知りだったっけ?」
「……頼むよ、自覚はしておくれよ」
「知らなかった、じゃあ、今度からは頑張る」
こんな殊勝なことを言うようになるとは。姉としては弟の成長を喜ぶべき場面だが、フィロのこの明るさは成長というよりも変質にしか見えなくて、ひどいとは思うがどうにもこうにもきなくさいのだ。
「どこかで頭でもぶつけた?」
「なんでさ?」
「ううん、なんでもない」
『来るもの拒まず、去る者追わず』母から教わった人付き合いの精神の極意のひとつだ。
私たちは人とさよならする時はこれきりかもしれない、そういう一抹のさみしさのようなものが胸をよぎる。
実際、再来すると約束した場所に行くと、親切にしてくれた人がすでに亡くなっていたり、その地をすでに去った後であったり、そういうことは少なからずある。
この果てしなく広大な世界で、また会いたいと思っていた人と再会できる。それは、神様からの贈り物のような奇跡なのかもしれない。
「どうして会いたいと思ったの?」
「あの人、力になってくれそうだから」
「どうしてよ? フィロにはお姉ちゃんがいるでしょ」
「ルーはちょっと危なっかしいからなあ」
「お前が言うな」
「えへへ」
何だか、ごまかされそうだったので、私はフィロの肩を両手で掴んだ。
「フィロは私を頼りなさい」
「じゃあ、ルーも俺を頼るんだよ」
肩を掴まれたフィロが小さい子に言い聞かせるような喋り方をするものだから、思わず笑ってしまった。
「あの人は俺たちが二人とも困った時に力になってくれるよ」
「ふうん」
半信半疑というか、ほぼ信じていない状態で相槌を打ってしまった。のちに、フィロのこの言葉の意味を思い知らされることになるのだが。
「私、この街、何だか嫌な感じがするんだ。用が済んだら、さっさと離れようよ」
「やだ。せっかく来たんだから、色々調べようよ。沙漠の植物とかさ」
一瞬、揺らいだ。沙漠の強烈な太陽と地で育った植物とはどんなものだろう。確かに面白そうなんだよな。この機会を逃したら、なかなか来られそうもないし。そう思ったいたら、フィロがにこにこしながら、私の顔を覗き込んでいる。私はここは引くものか、と声を荒らげた。
「必要以上に怖い目に逢うのはもう、たくさん。慎重さがない人間が一番早く、死ぬんだからね」
「ル―の不安は漠然としてて、具体性がないから言う事を聞く気にはなれないね」
「分からずやめ。こういう時は、姉の私の言うことを優先させるべきだろう」
「ルーより、俺のが頭、いいし。冷静だし」
むっとした。事実だろうが何だろうが、そこは年長者を立てるべきだろう。
「お黙り。そうだとしても、私のほうが判断能力がある」
フィロは不服そうに頬を膨らませた。