4、始まりは政略婚約であっても
「アレックス」
「シンシア」
名を呼ぶと、応ずるように呼び返してくれた。
少し照れて、笑う。つられて、私も笑む。
「さあアレックス。庭を散歩しに行きましょう」
「はい」
とても大きな人なのに、私が歩き始めると、後ろから嬉しそうについてくる。大型犬? いいえ、まるで子犬のようね。
庭に出ると風が吹き、バラの香りが飛んできた。大きく息を吸う。ほんの少し前、この庭を眺めて憂いていたのが嘘のようだ。
なにがなんだか分からないうちに、事が運び、未だ実感がわかない。
横をむけば、背の高い男性がいる。黒髪に琥珀色の瞳という、黙っていればしっとりとした男性だ。目があい笑むと、とても柔らかい。
婚約破棄を受け取った矢先、太った人でも、成金でも、老人でもない、優し気な美青年が真横に立つとは思わなかった。地方に行くこともなく、ここで暮らせるとまで約束してくれる人……。
二人とも同じ政略結婚だ。恋焦がれて好きになったわけじゃない。選ばれた相手でも、良いところはある。
エリックならば、男らしさや精悍さ。男性的な話題を、サービス精神をもって話してくれる。その姿は真っ直ぐで好感がもてた。
アレックスなら、優しさや思いやりかしら。婚約破棄をうけとったばかりの私に謝罪から始まり、婚約理由も公爵家全体を見回しての提案だ。受け身の私とは違い、周囲を配慮しての判断。父のことも、母のことも、私のこともないがしろにしない。
この人が、公爵家の当主になってよかった。父が喜ぶ姿を見れば、彼の人となりを見て譲ったのかもしれない。二人は妙に通じ合っていた。
「いい風だわ」
流されても悪くないかもしれない。
横を見れば、黒髪を風に遊ばせる青年がバラを眺めている。
「本当に、いい匂いだ。色も香りも、美しいお庭ですね」
「子どもの頃からずっと私の遊び場です」
石畳で舗装された小道を進む。左右には多種類のバラが植えられている。赤いバラはもちろん、黄色やピンク、白。白からピンクまたは赤へ流れるように色が変わる花を咲かすバラもある。
「小さい頃から遊んでいたのよ。私はあまり外には出してもらえなかったの」
「外とおっしゃいますと……」
「家庭教師がいればいいでしょうと母は言うの。それだけではないわ。お茶会や夜会、舞踏会……、公爵家に産まれておいて無縁というのもおかしいわよね。もう十八歳になるのに……」
花嫁修業と称して家にいるようにすすめられてきた。おかしな男性につかまらないようにと母なりの配慮だったのかもしれない。息苦しさはあるものの、そんな日常が普通すぎて、疑問に思う間もなく年を重ねた。
「大切にされていたのでしょうね」
「どうかしら……。母はとても心配性よ。夜は遅いからダメ、舞踏会はまだ早い。社交界は婚約者が決まってから……。
ああ、でも、婚約者が決まっても、なかなか出してはもらえなかったわ」
エリックとの婚約が決まり、舞踏会へ彼と一緒に行けると思った矢先での婚約破棄だ。
「……外に出られたいですか」
「そうね……、街も出たことがあまりないの」
「一緒に、行きましょうね」
「連れて行ってくれるの?」
「ええ。一緒に、行きましょう」
その一言だけで、新しい扉が開くようであった。
「うれしいわ」
アレックスは微笑する。
「今回の件で、あなたが傷ついていないとは思っていません。結果、振り回されて大変だったのはあなたです」
「そう……かしら」
「あなたとは長い時間を過ごしたいと思っています。ゆっくりでいいので……、あの……、親しんでいけたらいいなと思っています」
照れながら、言葉を選ぶ。
祖父の葬儀や、その後の相続でのやり取りを遠目で見ていた印象とだいぶ違う。こんなに麗しい人なのに、私が男性に不慣れである以上に、女性に対して不慣れな感じがする。
「そうね」
私は、目を閉じた。風が吹いて、髪が流れる。手で髪を肩に抑え、再び目を開けた。
「ゆっくり、馴染んでいければいいですね」
私が笑むと、アレックスは息をのみ、二人しばらく、バラの香りに包まれ、見つめ合った。
テラス席でお茶の用意ができたと執事がやってきた。
私たちは、はっとして、互いに少し照れてしまう。
執事に導かれて、テラス席に向かった。
紅茶とお菓子が用意されている。すでに胸がいっぱいで、甘いものは控えたいぐらいだわ。
「少し大切な話をさせてください」
アレックスがまじめな顔で切り出す。
先ほどまでの、弱弱しい声音ではなく、きりりとした男性の物言いに、私の背筋がピンと伸びる。
「まずは住まいです。
あなたは私の屋敷に越してきていただきたい。こちらは、異母兄とあなたの母がこれからも住んでいただきます。よって、いつでも戻ろうと思えば戻れます」
あまりの条件の良さに私は驚く。
「異論などありません。こちらからお願いしたいぐらいの好条件です」
「というのも、私は父の遺品の整理もありまして、なかなか屋敷を移れないのです。正式に婚約してから、共に住まう方がいいでしょうけど、あなたも十八歳になり、婚姻可能な年齢に達します。
異母兄も、そう遠くないうちに正式に婚約し、きちんとした関係を公にしてほしいと望んでいます。私も同じ思いです」
あまりの気の早さに、面食らう。
「まあ、そんなに急がれるんですか」
「と、言いますのも、私の年齢が高く、独身でいると色々勘繰られてしまうのです」
「おいくつなんですか」
「今年で、二十八になります」
私は再び驚く。今日は驚くこと、何度目かと思うほどだわ。
「……、ごめんなさい。私、もっとお若いかと思っていました」
確かに彼の年齢まで、婚約者もなく配偶者もなければいらぬ噂も一つや二つ立つだろう。
「今までは父の影に隠れて過ごしていましたが、今後矢面に立つ以上、パートナーの存在は不可欠なのです」
探している暇も余裕もなく、私に白羽の矢が立ったのね。
「婚約準備と引っ越しを同時に行っていただく上に、もう一つあなたにお願いがあるのです」
「なんでしょう」
「異母兄とも相談しました。あなたはこれから社交界などへ、公爵夫人として出ていくには、あまりに世間知らずです。
異母兄が公爵となれば、あなたはそれほど目立つことなく過ごせたでしょう。
しかし、私が公爵である以上、夫人として付き合いが生じてまいります」
「その通りですね」
「あなたの日常を見聞きした限り、公の場に出る機会も友人も少なく、今後に不安を感じます。よって、私たちは、あなたに提案したいのです」
「はい」
「編入試験を受け、最終学年のみ、貴族の子弟が通う貴族学園に通っていただき、せめても同い年の貴族の子弟との交流をもっていただきたいのです」
驚くこと何度目か。今日に限っては数えることも難しい。
「えー……っと。
まず、婚約準備と引っ越し、それに、試験勉強もしてほしいと……そうおっしゃるのですか」
アレックスの事務的な頷きが、すべての答えだった。
のほほんとしていた私の周辺が急に騒がしくなるのね。
「……わかりました。公爵様のご期待に沿えるよう、最善を尽くしますわ」
今日一日で、婚約破棄から転じて、プロポーズ、政略婚約の見通しから正式な婚約の手続きに結婚。ひいては、まだ年齢がいけるからと、貴族学園への編入試験受験。はては引っ越しまで決まるなんて、なんということでしょう。
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