39、婚約者は惑いを振り切り手を伸ばす
「……婚約指輪……」
編入試験を終えて、街のお店にアレックスと訪ね、デザイン、素材、宝石を、彼と一緒に、好みを伝えながら、自分の意志で選んだ品だ。
忘れていたわけじゃない。気にかけている余裕はなかったけど……。
小箱を片手にのせ、もう片方の手で蓋を開く。細く丸みを帯びたプラチナのリングに、四角くカットされたエメラルドがきらりと光る。四隅をとめた端はバラの装飾があしらわれている。
私は、その輝きにほうっと息をつく。
「選んだとおりだわ」
ふわあとうれしくなった。
「本当は、もう出来上がっていて、ずいぶん前に受け取りに行っていたんです」
「渡しそびれていたの?」
「考えあぐねていました」
なにを考えることがあるのでしょう。私は首をかしいだ。
指輪を見て、私の警戒心はすっかり溶けてしまっていた。
「あなたを本当に妻として迎え入れられるかということにです。私は、五歳のあなたを知っています。シンシアのイメージは、私の中ではずっと五歳の幼女でした。
ですので、私の方が、その、申し訳ないのですが……」
出会った時の照れた表情を見せる。しばらくご無沙汰していた反応に、やっと合点がいった。
「あなたにとって私は、五歳の女の子のままだったのね」
それは照れくさいかもしれないわね。たとえ今は十八歳間近でも、幼児のイメージを背負ったまま告白し、結婚を申し込んでいたとしたら……。
「そうなんですよ。今のあなたを見つめればいいのに、どうしてもまだ、五歳のあなたが脳裏をよぎってしまって……、情けなく、恥ずかしい話なんですけどね……。罪悪感が先立ちました」
恥ずかしがりながら口元に拳を寄せるアレックス。少し斜め下を見つめ、頬を赤らめる。出会った初日に見た印象そのままだ。
幼女のイメージが残っていれば、キスをしても、抱擁されても、そのぬくもりが、家族の温かみを帯びており、恋人のような感覚になりえなかったわけである。
でも……、バラの香りたつ庭で、抱き合い、キスしたときは違ったわ。
「私の面影に、五歳の女の子を重ねたのは昔でしょう。今は違うわよね」
「はい。今のあなたは、美しく、成長した、一人の女性です」
私の問いに、改めて向き直るアレックスは、真剣な男性の顔をしてた。
私は彼に、スケッチブックの上に鍵を乗せて差し出した。
「ごめんなさい。遺品から一つ持ち出してしまいました。勝手なことをして申し訳ありません。お返しします。
そして、この寝室を繋ぐ鍵です。今後は、アレックスが持っていてください」
差し出す鍵とスケッチブックを彼は黙って受け取った。スケッチブックを小脇に抱え、寝衣の胸ポケットに鍵を入れた。
蓋を開いたリングが入った小箱を両の手のひらにのせて、差し出す。
「婚約指輪です。どうぞ、受け取ってください」
私は小さな小箱を両手の指先を添えて、持ち上げる。軽いものなのに、とても重く感じた。
両手で包み込み、胸元へ寄せる。
四角くカットされたエメラルドが私の手元に届いた。アレックスと一緒に、私が選んだ指輪。
「……うれしい」
言葉はそれしか出なかった。
今日一日、本当に、私はよく頑張った。ダンスパーティーに出て、最後に入場し、みんなの前でダンスを披露した。エリックと過去を分かち合い、決別し、終わり次第屋敷に戻った。父に会い、私の秘密を受け止め、すべてを受け入れアレックスを迎えに行った。
アレックスへの気持ちを、やっと、やっと、包み隠さず、伝えられた。
そして、今、ここにいる。アレックスの寝室だ。
この屋敷についた時、一線を画すように、閉じられた扉を私は開いた。
じんわりとぬくもりに浸る。心ゆくまで、胸から全身に広がる彼のやさしさを堪能する。
「ねえ、アレックス」
胸がいっぱいで、彼を見上げる。
「私は、これから、どうしましょう」
アレックスは瞠目し、口元に拳を寄せて、右上を見上げた。しばらく、唸ってから、視線を落とす。
私の横に立ち、肩に手を回した。少し押すようにして、「どうぞ」と言う。
押されれば、歩みはじめ、私はゆっくりと彼のベッドへと導かれる。
ああ、そうか。
今日は、あそこで寝るの?
肩に手をかけていたアレックスの気配が薄れる。横を見ると、サイドテーブルにスケッチブックと鍵を置く彼がいた。振り向けば、目が合う。私の手にしていた指輪が入った小箱へと彼が手を伸ばし、つまみ上げれば、蓋をして、スケッチブックと鍵の横に並べて置いた。
素早い人。
きょとんと見つめて、彼の所作を待つ。
どう動いたらいいのか、わからない。
アレックスが私の肩をちょんと押し、ぐるっと回して、両肩をポンと叩けば、私はベッドサイドにストンと座った。
両手をベッドにつけて、右に左に見渡してから、足元から、彼を見上げる。
目を丸くして見つめると、アレックスは苦笑する。
「困ったね」
意味わからずに佇む私のすぐ横に彼が座る。
「私のせい?」
左右にアレックスは首をふる。
「やっぱり、どこか面影があるんですよ」
「五歳の私?」
言いにくそうに口元に手を当てて、天井に視線を一瞬流したのが答えだ。
「いやだわ!」
私は叫ばずにはいられなかった。
「私の恋敵が、いつまでも五歳の私なんてないわ。ねえ、アレックス。それはひどいわ」
アレックスは片手で私の手をぎゅっと握った。
もう片方の手の甲を額に押し当てる。
「思い出になんてかなわないわ。進んで、前を向いて、一緒の時間を過ごして、新しい思い出を作って、塗り替えないと、ちっとも前に進まないわ」
精一杯、今の私が背伸びした。私はアレックスより子どもだ。年齢差は埋まらない。彼が、こたえてくれなければ、私はずっとすすめない。
「ねえ、アレックス。私、ここにきてから、いっぱい頑張ったでしょ、ねえ……」
アレックスが手の甲に額を押し当てたまま、私に視線を流した。
「……大人になったね……」
今まで聞いたことのないような、アレックスのかすれた声に私は痺れた。
息をのむ。ベッドの上に両足をあげ、ベッドの奥にゆっくりと、私は身をさげてゆく。
手をつないだままのアレックスが追ってくる。手を離さないで、身をひねり、私に迫る。
頬に手が伸びて、撫でられる。目を閉じると、指先は髪をいじり、親指が私の下唇をなぞった。体に手を回され、ベッドの上に寝かされたと思うと、唇がふさがれて、私は息苦しくも、彼のするままに任せた。
唇が離れても目をつぶったままだった。彼の手が私をなぞる。どうしていいかわらかない。
「……本当は、あのドレスを脱がしたかったな……」
よく分からないつぶやきが聞こえても、私にはもう答えようがなかった。
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