38、鍵と婚約指輪
バラの香りに包まれて、見つめ合う。涼やかな風がスカートを揺らす。
「あなたと異母兄弟なのかと疑っていたの。違うなら、言ってくれればいいのに」
「私から告げられないことも多かったんですよ」
アレックスが苦笑する。
「お父様の秘密も、お母様の秘密もあるものね。二人に了承も得ずに、勝手に暴露できないわね」
アレックスの琥珀色の瞳は優し気だ。
「幼い頃の、あなたを呼んでいた名も思い出したわ。ねえ、アル」
「先ほど、呼ばれてビックリしましたよ」
「ねえ、アレックス。私は、どんな話が出てきても、あなたの元へ帰るつもりだったのよ。まさか私が父の娘ではないなんて思わなかったけど……」
みるみるアレックスの両眼が見開かれる。
「俺の元に……」
信じられないとでも言いたいのかしら? この人は、私の手をとって歩きながら、どこを見て歩いていたのかしらね。
笑ってしまうわ。
「ねえ、アレックス。あなたは私がエリックを選ぶとでも思っていたのかしら」
「……シンシアが望むなら、それも仕方ないとは思っていました……」
「母のこともあるものね。昔の私なら、母の意向を無視できなかったかもしれないわ」
私は、アレックスの背に腕を回した。彼の胸にすり寄って、頬ずりする。
「好きよ。大好き。あなたのおかげで冒険できたの。私を包み込んで押し出してくれた。私は、そんなあなたがいい。現実を受け止めることができるように、私の手を引いて歩いてくれたのは、アレックスでしょう。
あなたがどんな人で、私をどう思っていて、どんな風に大切にしてくれようとしてくれているか。全部、分かっているわ」
私の背にアレックスの手が伸びた。半分ほど露になった背を撫でる。頭部に彼の頬が寄せられ、吐息がかかる。
力強く私を包む。あたたかい。ほっとする。この人がいい。私を包んでくれる。
背を撫でてくれていた手が肩に触れる。
片耳に彼の口が寄せられ、耳に唇が触れた。
息遣いが近い。
肩を這う手が、ドレスの袖の内側に滑り込んできた。
もう片方の腕が私の腰にまわるとぐっと力がこもった。彼の背に回した私の腕が跳ねる。身がふっと浮いた。
「アレックス」
彼の腕に手を添える。
耳のそばに触れていた顔が離れていた。
目の前に、黒髪を揺らすアレックス。
ほほ笑んでいる。急に私は照れくさくなる。頬がかあと熱くなった。
彼の顔がゆっくりと近づき、私は目を閉じた。
夜空の下で、長い長いキスをした。
彼の顔が離れれば、ぼんやりと私は彼を見上げ、どうしていいか分からないまま、体中が熱くなるばかりだった。
そんな姿を見られたくなくて、腕に添えて手に力を込め、彼の胸にもう一度頬を寄せた。
「シンシア、愛してます」
頭上からささやかれれば、身がしびれる。
「あなたを、本当に、心から、愛してます」
体中が火照り、溶けてしまいそうだった。
「ねえ、アレックス。私、今日、あなたの寝室へ、鍵を返しに行くわ」
呆けたまま、私は呟いていた。
しばらく抱き合って、バラが咲き誇る庭を後にした。
母と父が、屋敷の玄関まできてくれる。
「いつでも、帰ってきてね。待っているわ」
母はそう言って、送り出してくれた。
すべてを私が知っても、母は母だし、私は私だ。
アレックスが乗ってきた馬車で、私たちの屋敷へと帰る。
人前でダンスを踊ったこと、アレックスを探して屋敷を闊歩し汗をかいたこと。馬車の中で、アレックスに話すことはたくさんあった。
屋敷に戻るなり、庭を素足で歩き、足裏も汚れている私は、体の汗をすべて流したいと湯殿へと向かった。
身を清め、自室へと戻る。寝衣を纏い、ベッドの枕下へ忍ばせたスケッチブックと枕元のサイドテーブルにのせていた鍵を手にした。
アレックスは、寝室に戻っているかしら、今、扉を開けたら、彼がいなくて、私は彼の寝室で待つことになるかしら。
誰もいないと分かったら、扉を閉じて、戻りましょう。
私は鍵をかけた寝室の扉の前に立つ。ノックした方が良いのかしら、それとも、前触れなくあけてしまう?
こちらから鍵を開くドアノブのつまみに手をかけ、ひねる。かちゃりと鍵が開く音がした。
私はノブを回し、ゆっくりと扉を開いた。
「アレックス、いるの」
きぃぃときしむ音を立てて、私は扉を押し開く。
アレックスが立ってた。寝衣を着て、手には何かを握っている。
「アレックス」
もう一度呼ぶとはっとこちらを向いた。手にしていた何かをさっと隠した。
「アレックス、鍵を返しに来たのよ」
そう言って立ち止まった。これ以上近づくことが何となくためらわれた。
「シンシア」
アレックスも緊張した面持ちだ。
庭で会った時より、私は緊張している。私は、ここでどうふるまえばいいか、分からない。
アレックスがゆっくりと歩み寄ってくる。背後には大きなベッド。本当なら、私が、彼のそばに行くべきだったろうか。
「怖がらないで」
近づいた彼の手が伸びて、私の頬に触れた。
「怖がらないで」
二度呟き、額にキスを落とす。
「鍵を返しに来たの。あと、遺品から持ち出してしまった、スケッチブックも持ってきたわ。二つとも、あなたに返そうと思ったの」
私はアレックスの琥珀色の瞳を、瞬きを忘れるほどしっかりと凝視する。恐れる必要がないのに、私はどこかで、怖いと思っているようだった。口内が渇き、指先がふるえそうだ。
「私も、渡しそびれていた物を……あなたに……」
そう言って、差し出したのは、先ほど隠そうとした何かだった。
「これは?」
アレックスの手の内にすっぽりと包まれた小箱だった。
「婚約指輪です」