34、婚約者の思惑②
ホーキンス家に訪ねるとテラス席へと通された。外にいる四人を侍女が迎えに行き、執事が出してくれた紅茶を飲みながら、待つ。
廊下に人影が見え、シンシアが男性の手を取り、歩いてくる。二人を迎えるため俺は立ち上がった。あの男は誰だと目じりに力がこもる。一瞬の表情は二人には見えなかっただろう。
元婚約者である伯爵子息エリックに連れられてきたシンシアは、彼の手から俺に渡される。
さすが将来有望と目されている青年だけあって、立場もわきまえているし、憎らしいほど丁寧だった。学園の中での関係はどうあれ、婚約者の公爵たる俺の前では猫を被り、美しい礼を返してくる。
シンシアに弟でも産まれていれば、彼女の結婚相手として申し分ない男である。
「楽しかったかい、シンシア」余裕なふりをして笑いかければ、「はい、楽しゅうございました」と緊張した面持ちで彼女も返す。
彼女が友人たちをたてる言葉には嘘偽りはない。シンシアに良い友人ができることは喜ばしい。それこそ、俺や父が望んでいたことだ。
「シャーリーも、ニコラスも、もちろんエリックも。とても、素晴らしい友人です」
まっすぐに見つめてくるシンシアの表情も視線も真剣で、偽りないことを主張する。
無表情の元婚約者と言葉を交わせば、真面目で立場もわきまえている好青年。俺も寛容に応じた。
それだけで十分に分かる。
元婚約者のエリックは、俺の婚約者であるシンシアにいまだ好意を寄せている。立場をわきまえ、友人というポジションにいながら、本心を隠し、彼女の隣にいる。
婚約者は俺だ。君にはもう出る幕はないんだよ。そんな感情が湧いて出た。余裕をもって返せば、そんなことは分かっていると丁寧な礼を返す。
よくできた元婚約者だ。
帰宅する馬車内で、彼女はいかに彼が友人であるかと言葉を重ねる。その上で、一緒に出掛けたり、エスコートを頼みたいと言う。
俺は彼女のすべてを肯定した。
シンシアが彼を友達だと言えば、そう認める。彼女がしたいことは、したいようにさせてあげる。
学園生活を楽しんでほしい。
籠の鳥だったシンシアに自由を味わってほしい。
幼い頃の明るい彼女の面影が見たい。
友人らしい友人一人いない彼女に友達ができたことを、喜び分かち合いたい。
保護者のように見守ろうと俺は彼女を屋敷に招き入れた。当初決めたとおりに振る舞って、ドツボに落ちたのは俺だった。
『これからは恋人のように……』
言うだけ言って、自覚が足りなかった。
元婚約者と親しくして面白くない。そんな悪感情を、初めて自覚した。
当初の予定と、ふって湧いてきた感情の狭間で振る舞い方に惑う。彼女が飛び出した世界を後押しした後悔はない。元の世界へ引き戻したいとも思わない。
元婚約者のエリックとの学園周辺散策もダンスパーティーのエスコートも了承した。彼女にとって彼はどんな存在なのか。
婚約者は俺である。あれは元婚約者だ。
現実をつきつけ、囲うこともできただろう。そんなことはしたくなかった。
これは彼女の問題ではなく、俺の問題だ。俺が彼女とどのような関係を築きたいか。
一年という猶予期間を持って徐々にはぐくんでいけばいいと思っていた。急かされたのは、元婚約者のせいかもしれない。良い兄という仮面が剥がれ落ちた。
ほんの数週間で成長したシンシアは、羽化直前のパンパンに張りつめた蛹のようだ。
今の君は何を選び取る?
俺を選ぶか、彼を選ぶか。
遺品整理の時、シンシアが手にかけていた絵画の中に、俺と母、それに父が描かれた小さな絵画があった。隠さなかったのは俺だ。
学園周辺を散策し、迎えに行けば、元婚約者の手を引き走ってくる。嬉々と走り寄る彼女の表情と、慌てる元婚約者の表情の違いに苦笑した。幼少期の彼女と俺の面影を見た。
エスコートの依頼をする彼女は、俺が断らないと確信を持っていた。胸を張り、後ろめたいことはなにもないと堂々と要求する。
馬車に乗れば、俺さえ騙したと迫ってきた。言い訳もできない迫力に面食らい、彼女から視線をそらす。強くなったと喜ばしい反面、今後が少し怖いと感じた。
活き活きとするシンシアはまぶしい。ダンスパーティーが近づくにつれ彼女の嬉々とした表情を見る時間が増えた。
仕上がったドレスを試着した彼女は、どこの国の姫だろうかといえるほど、美しかった。真珠のアクセサリーを合わせるように店主に耳打ちしておき、正解だった。
シンシアは十八になる立派な女性に成長していた。俺の中の彼女は目の前にドレスを着た、透き通る羽をふるふると震わし広げようとしている、羽化したての蝶のようであった。
すでに幼女のイメージは崩れ去っていた。
週末のダンスパーティーを明後日に控えた夜。
シンシアの寝室に渡る扉を俺は初めて開いた。
驚く彼女に、寝室を繋ぐ鍵を渡した。
翌日、実家に戻りたいと早速言われた時はショックを受けたものの、彼女の意図は、真実を知りたいと分かりほっとした。
最終決断を迫った。
婚約を正式に発表していないのは本当だ。幼女のイメージが残るなかで、先延ばしできることは、極力延ばしていた。身内でのことだから、あえて公にしなくても問題はないと踏んだ。
まさか、これほど早く俺の気が変わるとは思わなかった。
元婚約者が彼女の隣に立ち、むける眼差しの優し気なこと。
俺の婚約者たるシンシアをそんな目で見ることに……、認めたくはないが、嫉妬した。
彼女が彼を良い友人と称しても、彼が向ける意識の差異は明確だった。
こんな嫉妬心から自覚させられるなどとは思わなかった……。無自覚な感情を意識すれば、ただのつまらない男一人いるだけだ。
活き活きと羽化していく彼女のまぶしさに、消えかけていた幼女のイメージなど、あっという間に塗り替えられた。
公爵家には事情がある。
そのすべてを知って、彼女は選べばいい。願わくば、俺を選んでほしい。
「アレックス、アレックス」
父の呼び声が聞こえ、俺は目覚めた。転寝をしていたらしい。
「珍しいな。こんなところで、寝入るなんて……」
見上げれば、父が立っていた。
「……昨日、眠れなかったもので……」
「心配事か、珍しいな……」
ここは、父が暮らす代々の公爵が住まう屋敷であり、バラ園を眺める特等席たるテラス席である。
執事が出してくれた紅茶が冷め切ってしまうほど、腕を組んで、座ったまま寝ていたらしい。
「シンシアが戻るのは夜だ。マーガレットにも、すべてを伝える了承を得た。お前のことも含めて、すべてを知ることになるが、かまわないか」
「問題なんてありませんよ。俺は今は彼女の婚約者ですが、彼女が望むなら、元婚約者の胸に飛び込んでも構わないと暗黙のメッセージは伝えてます」
「そうか……。しかし、あの子はマーガレットではない」
「ええ……、ですので、すべてを知って、自分で選ぶようにと、突き放しました」