33、婚約者の思惑①
今でこそ貴族との付き合いも深まり、仕事柄、私と称する機会が増えたものの、俺と称する方が未だ馴染む。俺こと、アレックス・ベッキンセイルにとって、この名は第二の名であり、最初の名はアル・ウォーカーという。
侍女の母イライザ・ウォーカーと公爵子息ブライアン・ベッキンセイルの間に俺は産まれた。
不貞の子ではない。父と母は長年の恋人であり、二人仲睦まじい関係は祖父公認となっていた。そのために、なかなか婚約者が定まらず、祖父の頭を悩ませていたことは否めない。母を妾としても、本妻は迎えるべきだという祖父の意向も今はよくわかる。
使用人の子でありながら、初孫ということもあり、祖父は俺を可愛がってくれた。
月日は流れ、いよいよ諸事情あり、父も本妻を迎え入れた。それが今の夫人、マーガレット・ベッキンセイル。シンシアの母である。元々、父と母の関係を理解していた夫人との関係は良好だった。
俺とシンシアは彼女が五歳まで一緒に暮らしていた。それこそ、母と一緒に乳飲み子の頃から世話をしていたのだ。
母似のシンシアは可愛らしく。歩き始めた頃から、俺の後ろを追うようになり、膝に乗せ、本を読んであげたり、庭を一緒に駆けまわったりした。
同年代の友達が作れない環境の彼女にとって、俺は遊び相手だった。その頃の俺は使用人の子として、屋敷の下働きをしていた。
夫人と父の間に男児が生まれれば、その子に爵位を継がせる。これが公爵家の思惑だった。
いずれは父へと爵位を譲渡する予定もあり、祖父がもう一つの屋敷へと隠居することを決めた時、初孫の将来を案じ、平民でも不自由なく暮らせるようにと俺と母を連れ出した。父も十五になる息子を屋敷の使用人として終わらせることを不憫に思っての判断だった。その際、父の息子では外聞も悪いと、祖父の息子と名乗るように言われ、名も改めさせられた。
俺がアレックス・ベッキンセイルと名乗るようになったのはこの時からだ。
俺は、祖父のもとで学園に通い、卒業後に事業を起こし、ひとかどの地位を得た。平民としては十分な教育を与えてくれた。本来はそれだけで満足だった。
公爵家の誤算は、夫人と父の間に、男児が生まれなかったことだ。
祖父は死の間際に案じたのだろう。公爵家の男児が後継ぎとして定まっていないことを……。
父と俺は、まさか亡くなる間際に祖父があのような遺言を残しているとも思わず、判明したときは、互いに顔を見合わせ、愕然とした。
俺が爵位の譲渡を受ければ、父の立場はなくなる。事業は営めたものの、公爵として議会に出席し、政治に参加するには俺は及び腰だった。父の後ろ盾が欲しかった。
シンシアを婚約者にするのは苦肉の策だ。幸い、介護と事業で忙しかった俺に清算しなくてはいけない恋人関係もなかった。
祖父が亡くなる直前の父としては、シンシアとエリックを結婚させ、父が後押しし社会的な地位を築かせたら、俺が公爵家の直系であることを明かし、俺自身か、俺の息子を二人の養子にして、爵位の譲渡をもくろんでいた。
おそらく、祖父にはそれが回りくどく見え、命尽きる前、もしくは命と引き換えにしても、唯一の直系である俺に爵位を譲渡したかったのだろう。初孫への思い入れが強すぎだと苦笑せずにはいられない。
問題は、伯爵令息エリック・エヴァンスだ。父が後継となることで、育てるはずだった優秀な若者の未来に暗雲が垂れ込めた。立場を失った父に、彼を押し上げる力はない。
このような事態になったことを伯爵へ伝え、優秀なエリックの将来も見据え、先方より婚約破棄を行ってもらうように依頼した。
これが今回の婚約破棄のあらましである。
シンシアとエリックが想いあっている可能性もある。その際は、違うやり方を考えようと相続の手続きをしながら父と語り合った。
葬儀を終え、相続が始まり、伯爵から子息へ婚約破棄を申し伝えても、彼が公爵家に乗り込んでくることなどもせず、事は思惑通り進んでくれた。
問題は、俺の中のシンシアのイメージが五歳の女の子のままであることだった。幼女の印象を振り切り、彼女を一人の女性として、俺は愛せるのか……。幼子の頃を知る故の悩みにさいなまれた。
彼女に寝所を共にしないと最初に告げたのは、俺の心構えが一因だ。
シンシアはきれいな女性に成長していた。時折、遠目から姿は見ていたし、葬儀の際も同席してたが、慌ただしく気にかける余裕はなかった。
婚約破棄の書状が届き、父が住まう屋敷に、シンシアの婚約をすすめる話をしに行き、突如彼女が現れ、顔を合わせた時の、なんと気恥ずかしかったことか。
彼女が覚えているとも思えず、懐かしむのは俺ばかりである。あの愛らしい童女がしっかりと成長していたものの、妻として抱けるかと言えば、その時はまだ、罪悪感が先立った。
時間が欲しいと思った。彼女を受け入れる心の準備を欲した。十三年という歳月を埋め、俺の中の五歳の幼女が、現実のシンシアの姿へと成長する時間が欲しかった。
屋敷から出たことのないまま公爵夫人になることを心配する父に学園編入をすすめたのは、彼女のためばかりではなかったのだ。
結婚を引き延ばす理由が欲しかった。
学園にエリックが在籍していることは知っていた。シンシアと接触するかどうかは分からなかった。正直、どちらでもいいと思っていた。
俺の中の彼女はよく笑う女の子で、庭をかける闊達な娘だった。泣いたと思えば、笑う。嫌いと言えば、好きという。どっちなんだと、小さな幼女にやきもきさせられて、嘆息した記憶もある。
再会したシンシアは、受け身な大人しい女性になっていた。好奇心の強い明るい少女はどこにいったのだろう?
父は夫人に遠慮して、彼女の教育には口を出せなかったと言っていた。本来なら、学園に通っていてもおかしくはない年齢でありながら、籠の鳥のように広い屋敷で育ってしまった少女がいた。
『楽しんでおいで』と学園に押し出した。昔の面影が彼女の中に少しでも蘇ればいいと思った。
友達ができたと喜び勇んで帰り、話をしてくれたシンシアの表情に、昔の面影が蘇る。懐かしく、目を細めずにはいられなかった。
イメージの五歳童女も成長していく。目の前のシンシアと重なりあの子も大きくなったと感慨深かった。抱きしめれば、開花直前の膨らみかけたつぼみのように柔らかかった。
親愛の情をもってキスをする。
彼女は家族であり、妹のような存在だ。
学園へ編入し、婚約指輪を用意し、学園生活を楽しむ豊かな表情を見せるシンシアは好きだ。
それがどういう意味の好きであるか、俺自身計りかねていた。まだ一年は猶予があるとのんびり構えてもいた。
女友達でも男友達でも、学園で気心の知れた友人ができることは喜ばしいことだ。
そう穏やかにとらえていた俺の心を、ざわめかせたきっかけは、彼女が友人宅へと遊びに行った時だった。
シンシアに友達ができたことを喜ぶべきなのにもやもやした。女友達の他に、その子の婚約者とその婚約者の友人が来るという。気にすることではない。そのはずなのに、屋敷の自室で、ウロウロせずにいられなかった。
『アレックスがいて……、その……、他の男性と仲良くするのは、どうなのでしょうか』
緊張した様子で、シンシアは不安げにうつむいた。
後ろめたさを感じている? 後ろめたさを感じるような男がいるということだろうか。
時間が経てば経つほど気になり、黙って屋敷で待っていられず、俺は彼女を迎えに行った。
本日から最終話まで毎日投稿になります。