30、実家へ帰ってみたものの
シャーリーがランチを食べ終え、珈琲を飲みながら話し出す。
「ねえ、シンシア。ダンスパーティーの入場には伝統的に順序があるのよ」
「順序?」
「最終学年の会場への入場は最後なのよ」
私は紅茶が入ったティーカップに手を添える。
「私たちは、最後に入場するから、間違って最初に入ってはいけませんよ、ってことかしら?」
「それもあるんだけど、大切な暗黙の了解があってね。
まず新入生が全員会場入りし、在校生が学年順に入場していくの。
新入生歓迎が主たるテーマなんだけど、学園で一番華やかなイベントだから、最終学年に華を持たせてくれるのよ。
その入場順が、身分が低い人からなのよ」
「珍しく身分ごとなのね」
学園では特に身分を気にする日常がなかったので、意外だった。
「ちゃんと聞いとけよ、シンシア」
エリックがすかさず横やりを入れてきた。なにをそんなに重々しい声で脅すような語気なのかしら。
「商家の平民、次に地方の貴族、最後に私たち王都に住む貴族という順番になることが一般的なの。問題はここから、今学年には王族の姫様も王子様もいらっしゃらないの」
「あら、残念ね」
王家の方ですもの、そうそういるとは限らないわね。
「……だからね。公爵家のシンシアが、最後に入場することになるわよ」
「えっ……」
シャーリーに指摘されるまで、とんと気づかない私もまぬけね。王族がいないなら、次いで身分の高い貴族である公爵家所縁の私が最後になる。身分順に入ると言われた時点で気づくべきだったわ。
「じゃあ、私とエリックが、最後に入場するの」
「そうよ。そして、最後に入場する二人はね、最初にダンスを披露するの」
「まあ……」
「毎年、当たり前の伝統だから、誰も言わないけど、みんなそのつもりだと思うわ」
隣に座るエリックを見上げた。
なにとばかりに睨まれた。
私は、ふふっと笑い返す。
「よろしくお願いしますね。エリック」
「驚かないのかよ」
「驚かないわ」
「……出会った頃の面影もないぐらい肝がすわっているのな」
エリックがにやりとする。
「その方がいい」
一体何がいいのかしら。わからないわ。
私も不躾になったかもしれないけど、エリックも遠慮がなくなり、お互い様な気がする。
エリックと時間まで校内を見て回り、夕刻になる。
迎えにきた馬車に乗り込み、二か月ぶりになる実家へと向かった。
走る馬車の窓から、アレックスと暮らす屋敷が見えた。
アレックスがまだ白紙に戻すことができると言った。
エリックの存在を気にしているのかしら。
私がエリックを好きだとでも、アレックスは思っているのかしら。
好きと言えば、二人とも好きよ。
友達として気安く付き合うことを了承したのはアレックスだわ。
それとも、私とアレックスの関係を知ってなお、どうするかを考えていいということなのかしら。
私に選択権を与える。自分を選ばなくてもいいとでも彼は言うのかしら。アレックスにとって、私はその程度なの。
それとも、私を想って、選択権を与えたの。
この状況で、何を選びとることが最善なのでしょう。
通り過ぎ、懐かしい屋敷の前で馬車がとまった。
おりれば、そびえる屋敷がとても大きく見えた。
この屋敷で暮らしていた頃の私は、与えられるままに享受して生きればよかった。自分で選ぶなんてありえなかった。母の意向に沿い、父の望むまま受け取る。
アレックスの手元で、変わってしまった私を、父や母はどう思うのだろうか。そこで私は、ちゃんと、確かめて、決めることができるのかしら。
母が玄関に出てきた。
目が潤んでいる。駆け寄ってきて、目じりをぬぐう。
「……元気だった……」
「元気よ。とても、元気だったわ」
満面の笑みを浮かべると、母もまた泣きそうな目をしたまま、ほほ笑んだ。
自室はそのまま残されていた。クローゼットには残してきた衣類がしまわれている。まるでいつでも戻ってきていいと考えていたかのようね。
部屋に違和感を覚える。
とても綺麗で、整っていて、与えられる物は一つひとつが見定められた品々だ。
大事にされていたし、不自由なく暮らしていたのはよくわかる。
自由を知ってしまっては籠の鳥には戻れないのね。
私は、もっと早くに学園に通うことができたのだとアレックスが言っていた。その真意はなに?
どうして私は自由ではなかったのかしら。他の人が当たり前に享受してきたことを得られないままでいたのかしら。
こんなことさえ疑問にも思わないで、ここで暮らしてきた過去が遠く感じるわ。
自室を出た。
この屋敷で一番好きなテラス席へと向かう。バラの花が咲き誇る庭を一望できる場所だ。
ガラスに手を添えて、暗がりに溶け込むバラの木々を懐かしむ。
背後に人影がうつり、母であるとすぐに分かった。
振り向いて、向き合う。テーブルをはさんで、対峙する。
「お母様……」
「シンシア」
沈黙が流れる。なにを言い出せばいいかわからない。母の感情は重く、私は振り払えず、じっとして、感じないようにしながら、息をひそめて受容してきた。
この人に、学園でのことを話しても、喜んでもらえない気がする。アレックスのように、私の話をなんでも喜んでくれる人ではない。
お母様の望むままそばにいた。この屋敷しか知らなかったから、それしか生きるすべを持たなかった。
ねえ、この、鎖から、私を解放したのは、誰?
「……ねえ、お母様。私、今、学園に通っているのよ。ご存じですか?」
母の反応が見たかった。
「聞いてます。公爵家所縁の令嬢なら、そのような学園に行かずとも、学ぶことも嫁ぎ先もあるというのに……」
「そうですね。家庭教師の方には色々教えてもらい、とても役に立ちました」
アレックスの課題をこなせたのも、母が与えた教師の質が高かったからだろう。
母が独自に選んだ教育も決して間違いではない。受験勉強を乗り越えられたのは、母が提供してくれた教育が土台にある。
「それは良かったわ。学園に行かずともちゃんと身につけられるものでしょう。帰っていらっしゃい。公爵との婚約もまだ正式に発表まではされていません。今はまだ引き返せます」
「友達もできたのよ」
「……そうなの……」
「とても親切で、博識で、礼儀正しいお友達よ」
「……」
母の表情が陰る。友達ができたことは喜んでくれないのね。
「学園の周辺を散策したり、お友達のお屋敷にも遊びに行きました」
「……そう」
「このお屋敷にいては、できない経験を積むことができたの」
「……」
「喜んではくれないのね」
沈黙が重い。
「この屋敷で暮らしていたら、年に数回しか外出しなかったわ。でも、今は毎日出かけています。学園に行き、お友達に会い、遊びに行きます。
ねえ、お母様。私の人生で、今までに乗った馬車の回数を、この二か月間馬車に乗っただけでゆうに超えてしまっているのよ」
母がさっと青ざめる。
「……シンシア……、あなたは馬車に乗って、学園に通っているのですか……」
「あたりまえではないですか」
なにを言い出すのだろう。
「馬車にものりますし、授業では乗馬もあるそうなので、お友達のお屋敷で馬にのせてもらうこともありましたわ」
「馬車に……、馬にも、乗ったというのですか……」
母が急にふらりとした。足元がふらつき、テーブルの上に両手をついた。
「お母様!」
机に回り込んで、倒れこむ母に駆け寄る。
そのまま、崩れ落ちるように、床に母は倒れこんだ。
「誰か、誰かきてちょうだい!」
私は、母の背に手をかけて、大声で叫んでいた。