29、実家へ帰らせていただきます
彼と婚約が成立し、婚姻すれば、必然的に寝所を共にすることになる。嫁げば、どこの家だって、跡取りになる子どもを望む。
そもそもね、そもそもよね。子どもを望む前に、しなきゃいけないことがあるのよね。
頭を抱えた。この屋敷に入った時は、薄々理解していたのよ。寝所はないものとされて、すっかり忘れていただけで……。
ねえ、アレックスと夫婦になれる?
私はベットの下へ投げ入れたスケッチブックを手を伸ばして探し出した。
このまま、私は、知ってしまった秘密を抱えて、彼を受け入れられる?
彼の父が誰なのか。祖父でなかったら、私の父?
同じ父を持つ異母兄妹という疑いを持ったまま、彼との関係を維持する後ろめたさに、私は耐えられる?
私は目の前にアレックスが残した鍵をつかみ、ベッドから立ち上がった。転びそうになる勢いで彼が出入りした扉へ行き、鍵をしめた。
だめだ。
だめだ、だめだ。
このまま、疑問符がちらついたまま私に彼を受け入れられない。
せめて聞きたい。母はアレックスの婚約に難色を示し、父は喜んでいる。父は私とアレックスの関係を知ってなお、喜んでいたの?
その真意を確かめないで、どうして、彼を受け入れられようか……。
私だけが何も知らないんだ。
アレックスと彼の母、私の父が描かれた絵があった以上、彼は知っているはず。祖父が彼を後継に指名する遺言を残している意図もそうなれば納得できない? 父がすんなりと譲った理由もそこにある可能性が考えられない?
憶測のまま、受け入れらないわ。
知りたい。
その上で、どうして私と彼を婚約者に希望したのか、聞きたいわ。
父と母に会いに行こう。会って、確かめて、本当のことを知って、どうするの。
私には選択権はないはずよ。アレックスと父が合意すれば、私にはどうしようもないはずなの。
でも、知りたい。
せめて知ることができたら決心がつく。きっとこの鍵を渡すことができる。
私の手元に残った鍵とスケッチブックをしっかりと握りしめた。
翌朝、朝食の時間帯に私はアレックスにお願いした。
「父と母の元に帰ってもよろしいでしょうか」
さすがのアレックスも、昨日の夜の件もあってか、手にしていたカトラリーをお行儀悪く取り落とし、一瞬ポカンとした表情を見せた。
「また戻ってくるつもりです」
昨日の今日での、実家に帰らせていただきます宣言を、完全拒否のように受け止めてしまったのだとしたら申し訳ないわ。
「アレックスの問題ではなく、私の気持ちの問題です。そうね、家に忘れ物をしたので、取りに帰りたいのだと思ってください」
「忘れものですか……」
グラスに入った水で喉を潤したアレックスがいつもの寛容な笑顔に戻る。
「いつ戻りたいという希望はありますか」
「今日です」
「明日のダンスパーティーは……」
「実家から行きます」
「……わかりました。ドレスも今日中にあちらの屋敷へ運んでおきますね」
「ありがとうございます。今日学園の帰りに実家へとまっすぐ行きますが、それも許してくれますね」
アレックスはため息をつき、柔らかく笑み、表情を引き締める。
「ねえ、シンシア。実は、私たちの婚約は、まだ公にはしておりません。内々ですすめている話のままにしていました。現状はいつ立ち消えさせても対処できるようになっております」
「婚約を成立させてないですって! あれだけ、きちんとプロポーズまがいのことを言っておきながらですか!」
アレックスは私の形相にも驚く様子もない。
「シンシア。あなたの思うままに、結論を出してもらってかまわないと理解しておいてください」
アレックスの告白に、私の方が面食らう。
私が父と母に確かめに行く内容も把握しているというの。していてもおかしくないね。察するぐらいは簡単そうな人だわ。
母のことも。
父のことも。
アレックスのことも。
亡くなった祖父のことも。
私はきっと誰一人としての真意を知らずにここまで来たのだ。
アレックスは私に突きつけているみたい。知って、自ら結論を出せと……。
「まるで、最終決断を迫られているようですわ」
「最終決断を迫っているのです」
普段の穏やかな朝食の空気感が、氷室のように冷え冷えとする。
初めてだわ。アレックスと私の間に、こんな緊迫感が流れるなんて。
「あなたはもう子どもではありません。私もやっとあなたを子どもとして見れなくなってきた」
「子ども……ね」
アレックスにとって、私は幼子の印象を引きずる子どもだったということかしら。
「今までは、私の方が怖気づいていたのです。過去と今を重ね見ることはやめました。今、目の前にいるあなた自身を私は、あなたとして、見ています」
清々しい朝の陽ざしと鳥のさえずりを背景に私とアレックスがにらみ合った。
互いに、仕事着や学生服に着替え、玄関にとめた馬車に乗り込んだ。
普段は朗らかな会話を交わす朝の馬車内でさえ、陰鬱とした緊張感が漂う。美しい黒髪が揺れ、琥珀色の瞳は瞼の奥に潜む。
一昔前の私なら、きっと耐えられなかっただろう。
アレックスが沈黙したなら、右往左往し、私が悪かったろうかと杞憂を巡らしていたに違いない。
黙する彼をも見据える私の心は穏やかだ。
「アレックス。私は受け入れたいの。しっかりと、すべてを、私の意志で」
見開かれた無感情な瞳に、私は満面の笑みを浮かべた。
「私は、強いわ」
おりた馬車が走り去るのも見送らない。まっすぐに学園の門を目指す。
教室で、シャーリーとニコラス、エリックと合流した。
明日はダンスパーティーをひかえ、学園全体が色めき立っている。そこここで準備が着々とすすんでいく。
午前の授業が終われば、準備のある学園生は残り、明日の準備や最終確認にいそしんでいる。
私はそんな準備さえも物珍しく眺めてしまう。
「楽しそうね」
「お祭りの準備だからな」
「エリック、普通なら、準備のない学園生は帰るものかしら」
「普通はな、でも珍しいんだろ。一緒にまわってやるよ」
「うん」
私はエリックと校内を歩きながら、準備の様子を見学する。私にとっては最初で最後。二度と味わうことはない。
昼時になり、エリックが「そろそろ、食堂へ行かないか」と言った。
「こんなに早くに?」
通常なら食堂は夕方近くまでひらいている。時間があるなら、混雑する昼時は回避するはず……。
「今日は明日の準備のため、昼過ぎにはクローズするんだよ」
「あら、それは大変ね」
お腹が空いてしまったあとでは遅いのね。
「まずは閉まる前に食堂に行かないと! 食べてからでも見学はできるものね」
私の反応に、エリックがやれやれと嘆息した。
帰宅した学園生も多く、食堂はまばらだった。先にきていたシャーリーとニコラスの姿を見つけ、声をかけた。