24、スケッチブックに描かれた婚約者
「シンシア」
アレックスに名を呼ばれ、しゃがんだまま、はっと顔を上げた。
「私は隣の部屋に行きます。一緒に行きますか、ここでまだ見ていますか」
「ここにいます」
スケッチブックをアレックスの視界から隠すように床に押し付けて、答えた。
「もう少し、絵画を見たいです」
アレックスは私の答えに笑顔を返し部屋を後にした。
私は、恐る恐るスケッチブックを開く。
一枚目は黒く柔らかい曲線で描かれた人物画だ。陰影もくっきりと、若かりし頃の穏やかな表情をしたアレックスが描かれている。スケッチから漂う雰囲気は今と変わらない。
二枚目はアレックスと女性。彼と顔立ちが似ているから、彼の母かもしれない。すわる女性とその椅子に手をかけてまっすぐに前を見つめる彼が描かれていた。
カタンと絵画が倒れた。私が絵の位置を変え、傾けすぎたせいだろう。スケッチブックを閉じて膝へ置く。倒れた絵画に手をかけて起こす。前の絵に重ねようとした時だった。中くらいの絵画と絵画の間に、本当に小さな額に入れていない絵が隠されていた。
私は、倒れた絵をもう一度ゆっくりと床に置きなおす。
中くらいの絵画の木枠のなかにすっぽりと隠されるように収まった小さな絵に触れる。倒すように傾け、手に取る。背面を見据え息をのむ。
なにが描かれているの?
恐れながら、ひっくり返した。
アレックスと黒髪に琥珀色の瞳まで同じ彼の母が、さっきのスケッチブックに描かれていた姿そのままに色彩豊かに描かれていた。
描かれていたのは二人だけではなかった。横にもう一人男性がいた。その姿に私は目を疑った。
どうして、アレックスと彼の母と、私の父が一緒に並んで描かれているの?
スケッチブックには、アレックスと彼の母しか描かれていなかった。その二人の姿に、付け足すように父の立ち姿が描かれている。
私にとって近寄りがたい存在の祖父であっても、顔はわかる。アレックスに祖父の面影はない。彼に祖父の面影がないということは、祖父に似ている父の面影もない。
凍り付いた私は、絵画をゆっくりと元の位置に戻す。
膝にのせていたスケッチブックをもう一度開く。一枚目は若い頃のアレックス。二枚目は彼と彼の母。
では三枚目は……。
私は、震える指で、紙をめくる。
アレックスがいた。柔らかく穏やかないつもの表情を軽く下に向けている。その視線の先に、膝に座らせた幼子がいる。本を開き、伏せた目が見つめる童女へ、読み聞かせている一場面。童女は私だ。
一枚の紙に二人は二つの姿で描かれていた。
右側には、アレックスの膝に座る私が本を読んでもらっている。
左側には、両手を伸ばしたアレックスに飛び込んでいく私。二人の上半身が描かれていた。
私はばんとスケッチブックを閉じた。全身が震える。
私とアレックスの関係は……。
頭をふった。それ以上は考えることさえ、怖くなった。頭がぐるんぐるんと回り、ふらふらして倒れそう。
床に置いた絵画を元に戻そうと伸ばした手の動きもおぼつかない。
きれいに戻さないと、触ったとばれないように、ちゃんと、ちゃんと戻さないと……。気持ちは急くのに、思うように手を動かせない。
スケッチブックは手放せなかった。胸に抱いて、立ち上がる。絵画までは持ち出せないと、後ずさる。
アレックスに訝られるかもしれないのに、私は何も考えられず、自室へと引き返していた。
部屋に、スケッチブックを、持ち帰ってしまった。
私は、アレックスを知っている。
記憶のなかでは、髪色も瞳の色も覚えていなくとも、柔らかいブランケットに抱かれるような、やさしさとあたたかな感触を私にいまだ思い起こさせる。
記憶はあいまいで、使用人の息子が母と一緒に働いているのだと思っていた。彼がどんな存在かなんて考えたこともなかった。
五歳ぐらいだと記憶する。幼い私は、少し泣き、忘れた。侍女や執事は入れ替わることがあると大人になるにつれ理解した。彼もまたそんな入れ替わりのなかで母と共にやめていったのだと思っていた。
そうして、私は母と共に歩む日々を繰り返した。
アレックスと私は……。
幼いころ一緒にいた。
アレックスの父親は、本当に祖父だったの? 考えることも、答えを出すこともためらわれる。
どこかの王族のように、それは許されることなの。アレックスと父の親し気な会話こそ本当の姿であったと言えたの。なぜ、彼は私に訪れた婚約破棄と同時に自身の婚約を申し出たの。わからないわ。本当に、なにもわからない。
逃げ込んだ部屋のソファーでスケッチブックに残された三枚の絵を何度も何度も見返した。
トントンと扉のノック音が響く。アレックスかもしれない。
私は周囲を見渡した。スケッチブックを隠せる場所が思いつかない。あの周到なアレックスだ。どこに隠しても見つかるような気がした。
どうしたらいいの。
寝所へ続く扉が目に入った。あの部屋だけは、アレックスは立ち入らない。私たちは互いに寝所は常に別にしている。
足音を立てないように、寝所の扉に近づき、ノブに手をかけた。
トントンと再び扉のノック音が響く。私は、急いで、寝所の扉を音を鳴らさないようにひらく。
入室したら急いだ。走って、寝床の枕の下にスケッチブックをしまいこむ。ほっとして、顔をあげると、もう一つの扉が目に入る。寝所には、なぜか向かい合うようにふたつ扉が備えられているのだ。
トントンと三度目のノック音が響く。もう待たせられない。私は急いで、部屋に戻った。
「シンシア、いませんか」
アレックスの声がした。
勢いよく、廊下につながる扉を開く。
「お待たせしてごめんなさい」
私の必死の勢いに、目を丸くするアレックス。その顔を見て、ちくりと胸が痛む。
「転寝をしておりました」
私は嘘をついていた。