10、教室で元婚約者と再会す
編入学の朝を迎えた。私は、自室で制服に着替える。
鏡の前に立てば、いつもの私と少し違う。ドレスより動きやすい制服を着ていると、心まで軽くなるようだった。
髪は流し、左右を少しつまんで、後頭部でバレッタでとめている。簡素にまとめ、なにかあっても自分でできるようにしてもらった。侍女も執事もいない。自分で対応しなくてはいけない状況が初めてで不安を感じるとともに、わくわくもする。
新しい世界が開かれる予感に胸が高鳴る。
扉のノック音がして、「どうぞ」と伝えると、アレックスが入ってきた。
私はぱっと表情を明るくし、彼に駆け寄る。アレックスは私が明るく振る舞うことをとても喜んでくれる人だ。
母のように、おしとやかに清楚に、お行儀よくと口うるさくはない。場をわきまえれば、彼は母が示した私でも、明るく跳ねまわる私でも、同等に喜んでくれる。
「アレックス。どうかしら」
彼の前で制服姿を見せるのは、合格通知が届いた直後に着てみせて以来である。
「似合っていますよ」
彼に褒めらると嬉しくなる。自然と笑みがこぼれる。そんな私の表情に彼も破顔する。
腕を伸ばして、アレックスの首へ手を回す。彼が私の腰に手を回し、私はよせられ、互いの体が触れあうほど近づくと、彼の片手が私の前髪をあげる。露になった額に柔らかいキスをくれた。
アレックスと私は、この一か月と少しの間にほんの少しだけ距離が縮まっていた。
「今日から、朝は一緒に出ましょうね。学園にあなたを送ってから、私は仕事へ行きます」
こうして、私はアレックスと一緒に馬車に乗り、まずは学園へと向かうのだった。
馬車から降りる時、アレックスは心配そうな表情を見せる。
「……少し、過保護なんですけど、私はあなたが心配です」
申し訳なさげに落とした瞼から流れるまつ毛が長い。
「もう子供ではないと分かっているんですけどね……」
口元に拳を寄せ、出会った頃のような照れを顔に出す。
いまだにそんな表情を見せてしまうアレックスに笑ってしまう。
「大丈夫ですよ。一人でも行けます。子どもではないのです。心配しすぎです」
アレックスも苦笑する。
「そうですよね。もう、子どもではないのですから……」
私は馬車から降りて、彼をのせたまま走り去る馬車を見送った。
振り向けば、学園の正門である。大きく豪華な門には左右に番人が立っている。私の制服をちらりと見て、会釈する。私もおずおずと会釈し返した。
門をこえて入る馬車もある。貴族の学園生を乗せているのだろう。馬車をとめる場所もあり、そこで止まった馬車から同じ制服を着た女子や男子がおりてくる。
私は学園の入口へと向かう。
とても大きな入り口で、階段も幅広い。
こんな大きな建物を私は生まれて初めてみた。
思わず、身をのけぞってしまう。
「すごいわ」
一か月と少し前まで生きていた世界の狭さを痛感する。一歩を踏み出し、導いてくれたアレックスに心から感謝したい気持ちになる。
もう、屋敷だけの世界にはかえれないわ。
「まずは先生のいらっしゃる職員室へ行くのよね」
編入生の私は、通常の生徒のようにすぐに教室へは向かわない。
入ってからまごついてしまう。左右に前に廊下が続き、どこへすすんだらいいかわからない。まごまごしていたら、声がかかった。
「迷っているの? 新入生」
はっと振り向くと、長身の男性が立っていた。
「いえ、職員室へ向かおうと思いまして……」
「ああ。それなら、右の廊下をまっすぐ行くとすぐだよ」
私はしめされた廊下を見つめる。
「こっちですね。行ってみます。ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げて、去る。彼は気安く手を振った。
職員室へ着いた私は、公爵家からの編入生であること、いずれは公爵夫人と目されていることを踏まえてか、応接室に通された。学園長と担任と挨拶し、教室へ向かうように言われる。
待たされた応接室の扉が叩かれ、きいと誰かがはいってきた。同じ制服を着た女子生徒だった。
先生に紹介された彼女の名はシャーリー・ホーキンス。私の同級生であり、学年一の成績を誇る優秀な女性だそうだ。彼女に案内してもらい教室へ向かうように言われた。
「はじめまして。シンシア・ベッキンセイルと申します」
私は、初めての同級生との邂逅にドキドキしながら、立ち上がり、深々と礼をした。
「シャーリー・ホーキンスです」
シャーリーは快活な笑顔で名乗る。
「教室まで案内しますね」
「はい、よろしくお願いします」
シャーリーは小柄だ。彼女の頭部は私の目線にある。赤毛の髪色と、精彩を放つ黒目が印象的だ。立ち姿も凛とし、実際の身長より彼女を大きく見せる。
彼女と共に応接室を後にした。歩き始めると話しかけてくる。
「今時、珍しいですね。編入なんて、最終学年ですよ」
応接室をでたからか、口調が砕けている。見た目も活発だが、言葉遣いも元気がよく、驚いてしまった。
「珍しいですか」
「ええ。もう進路も決めかけているもの」
「公爵様に一年だけこの学園で学ぶように言われたのです」
「婚約者の」
「ご存じなんですか」
「有名よ。ベッキンセイル公爵家のお家騒動」
「ああ……やっぱり……」
私は両手で頬を寄せ、困ってしまう。
「お家騒動があっただけでなく、いずれは公爵令嬢と思われていた一人娘は婚約破棄から転じて、公爵自身との婚約だもの」
先を歩いていたシャーリーが立ち止まり、振り向く。
私をじっと見つめて言った。
「ちょっと驚くわ」
「そんなに……有名なんですか」
まっすぐな彼女の態度に、私の方は縮こまる。
「うーん……」
シャーリーは頭をかく。
「貴族で、あれぐらいの問題はある時はあると思うのよ。そうじゃなくて……、まあ、いいわ。こんなところで、説明することじゃないし、ひとまず教室へ行きましょう」
学園は広かった。シャーリーと一緒に歩かなければ、道に迷っていたかもしれない。長い廊下を歩きながら、通り過ぎる教室の入り口を示し、「ここは音楽室」「ここは図書室」などと、ついでに教えてくれた。
たどり着いた扉の前で、「ここが教室よ」とシャーリーは扉を開く。
彼女に連れられて教室をのぞく。
同じ制服を着た男女が何人もいた。同い年の人がこんなにいるなんて、初めて見た。
アレックスが世間知らずと評しても、口で言われている時は実感がない。こうやって、新しい扉を開くたびに、気づかされる。ああ、本当に、私はなにも知らなかったんだと……。
教室は半円を描くように座席が並んでいた。階段状になっており、真ん中に通路もある。入り口は教室後方にあり、まっすぐ前を見ると教壇がある。シャーリーは、全体を見渡して、入ってきた入り口からみて反対側に向かう。
「ニコラス」
歩きながら、シャーリーが誰かの名を呼ぶ。その声に応じ、真ん中最後尾に座っている男性が顔をあげた。
見覚えがある。私に職員室を教えてくれた男性だ。まさかこんなところで会うなんて……。
ニコラスと呼ばれた男性は、誰かと談笑しており、その背を向けている人物の髪色に心臓が飛び出るかと思った。
背も見覚えがある。庭先を歩くとき、少し後ろを見上げて追った。
鳥肌が立ち、冷や汗があふれそうだ。会話をしていたニコラスの視線に合わせ、背を向けていた男性も、流れるように振り向く。
真っ先に目が合った。
互いに瞠目し、同時に名を呼んでいた。
「シンシア」
「エリック」
呆然と共に見つめ合った。