1、あっけない婚約破棄は一枚の書状にて
婚約破棄が一枚の書状なんて……なんと、あっけない……。
正式な通達だけあって、丁寧に封蝋までされていた。数回しか会ったことがない伯爵家のご令息とも、しっかりとこれで縁が切れた。
「公爵家のご令嬢という約束された箔がなくなりましたら、あっけないものですね」
屋敷のテラス席から、あたたかな陽光が照らす庭に視線を流す。赤やピンクのバラが咲き誇っている。彼方には森が見え、山脈があり、白い雲が漂う青空が広がる。
私はシンシア。公爵家の一人娘シンシア・ベッキンセイル。
父からわたされた一枚の書状を手にしている。半年前に始まったお家騒動により、いつかはくると覚悟していた。
重々しい文字が記される、縁を装飾された書状を握る手に力がこもる。形を伴い見せつけられると、想像していたより、ずんと重い。
書かれている内容は簡単。
私、ことシンシア・ベッキンセイルへ、伯爵令息エリック・エヴァンスとの婚約を破棄を申し渡す。
長々と書かれた文面の要点は、これのみである。
元婚約者の伯爵令息エリック・エヴァンスは精悍な男性だった。金髪碧眼で、初めてお目にかかった時は息をのんだ。
地位や家格、公爵家の将来を優先しそうな父にしては、見目だけは夢のような相手を選んでくれたと思った。
このテラス席にも彼は一度だけお忍びで遊びに来てくれている。会話は、学園生活や遠乗り、狩り、所属する騎士団での訓練という男性的な話題ばかりだった。頷くだけの私に、饒舌な彼は『すいません、つまらない話ばかりで……』と照れながら謙遜する。その姿は、男性に向けるにはおこがましくも、かわいらしいと思った。初めて聞く私には新鮮な内容だったので『そんなことはございません』と、笑って返した。
紳士的で無理なく好意を寄せられ、私は彼と会うことが楽しくもあり、彼に好かれ、彼を好きになろうと努めていた。
家同士の貴族の婚約に、ほんの少し私情を混ぜてしまった私が悪いのだ。
気持ちが糸をなくした風船のように漂う。愛するように努めていただけに、やはり、どことなく、私は寂しい。
父母が選んだ伯爵家の彼に不満はなかった。談笑すれば楽しくもあり、箱入りの私には彼のどんな話も新鮮に感じられた。
ため息交じりに現状を受け止める。
私は間もなく十八歳になる。これから婚約者を新たに探すには難儀な年齢になっていた。どこぞの辺境の領主か、血筋だけでも箔付けたい成金貴族の子息あたりが候補にあがるのだろうか。年齢が高い方や、後妻という可能性もあるかもしれない。
婚約とは家と家の約束であり、そこに個人の自由意思が介在するのは稀である。伯爵家のご令息とご縁をいただいたのも、彼が次男であり、ゆくゆくは私または、生まれる子息に爵位の譲渡を父がもくろんでいたと推測できる。
それも現状は叶わない。父の未来設計は崩れた。
どんな嫁ぎ先が待っていようとも、恋と言うには小さすぎるひとかけらの思い出をエリックは私に贈ってくれた。握りしめる星屑のような輝きを伴う彼と過ごした時間を私は感謝せずにはいられない。
胸に秘め、目を閉じる。
ありがとう。
唇だけで謝礼を述べて、私はゆっくりと瞼を開く。
現状、公爵家の生まれだが公爵令嬢ではない。私の未来は、父と現当主が握っている。
「これから、どうなるものかしら……」
屋敷のテラスで、のんきに紅茶をすすりながら、独り言ちる。選択権を持たない私は待つしかない。
「シンシア、シンシア……どこにいるの」
パタパタという絨毯を踏む乾いた足音と、母の焦りを帯びた声がこだまする。ティーカップをテーブルにもどし、なにを慌てているのだろうと振り向いた。
「お母様、どうされたのですか」
息を切らしてまで走ってきた母が、テーブルにドンと両手をついた。勢いでカチャンと陶器が跳ねる。
いつもならお行儀に口うるさい母が、髪を振り乱し慌てている。その異様さに身を反り返し、私は母を見上げた。
「公爵様が、お越しになられたのです」
「公爵様が?」
私はきょとんと童子のように目が点になる。
公爵様と母が言うのは、祖父から爵位を譲り受けた父の異母弟である。
「それが私となにか関係ございますか」
「大ありです。あなたの婚約が正式に破棄されたことを受けていらしたのですから!」
「まあ、なんとお早い」
「それで……、はあ……」
息を切らす母に、侍女がぬるい紅茶が入ったティーカップを差し出した。受け取った母は、注がれた紅茶半分飲み切り、テーブルにカップを置いた。
「あなたの婚約についての申し出なのです」
「それも、また、ずいぶんとお早いことですね……」
「悠長な話題ではないのよ。シンシア」
「公爵家の当主である方が、私に……どこぞへの嫁ぎ先を紹介にこられたということでしょう」
なにを慌てているのか察しがつかない。いずれはそのような話を持ち出してくるのは分かっていたことだ。
「早いか遅いかの違いではないのですか」
母が目をらんらんと開き私を見据える。感情が伝わり気が急いてくる。落ち着きたくて、母を見据えながら、私は紅茶を口に含む。
「違うわ、シンシア」
母は頭を大きく振った。
「公爵様ご自身が、あなたを婚約者として、ひいては公爵夫人として迎え入れられたいとおっしゃるのです」
「えっ……」
言葉を失った。
私は一瞬硬直し、ぶっと吹き出す。
「噴飯ものね。いったいどんな冗談かしら」
笑う私をよそに、母は額に手を当てて、頭を左右に振る。
「提案にも筋が通っているのよ。お父様も真剣に耳を傾けているわ」
「なん……、ですって……」
愕然として、私はティーカップを取り落としてしまった。テーブルにカチャンと転がり、傾いた拍子に残された液体がこぼれ散った。
「あなたを連れてくるように言われたのよ。執事でもやればいいと思うでしょうけど、事がことだから、私が迎えにきたのよ、シンシア」
どこまで私は翻弄されるのだろう。
泣きたくなる気持ちを抑え、母をなだめるように笑む。
「婚約破棄が届いた次に、新たな婚約話なんて、なんと慌ただしいことでしょう」
声だけ平静を装いながら、かき乱される内心を悟られまいと、ため息をついた。