第五話 千歳
今から二年と五ヶ月前。千歳の暮らす街で、大々的に成人式が執り行われたその日の晩に、母は交通事故に遭った。
夜遅く、警察から事故の一報を受けて、父は取る物も取りあえず出掛けて行った。家に残された百と千歳は居ても立っても居られずに、一晩中、居間と玄関とを何度も往復した。その後、夜明け近くに、父が青ざめた顔をして帰宅した。
「お父さん、お母さんは?」
玄関の上がりがまちに腰を下ろし、背中を丸めて靴を脱いでいる父に、息せき切って百が訊ねた。父はわずかに振り返り、不安げな面持ちの百と千歳を充血した双眸で一瞥すると、無言で首を横に振った。
「お母さんは大丈夫なんだよね? 今どこにいるの? 病院?」
唇を噛み締めて何も答えようとしない父に、百が苛立たしげに質問を浴びせかけた。父は、一瞬何か言いたそうに口を動かしたが、すぐに苦しそうに顔を歪めてドアの方に向き直った。小さくすぼめた両肩がかすかに震えていた。
「ねえ、お父さん! お母さんはどうしたの」
百が語気を荒げ、父のコートの背中を両手で掴んだ。父は逃れるように、膝に顔を埋め、両腕で頭を抱えた。
「……ねえ、お父さんってば、黙ってないで教えてよ」
その背中を、百が泣きながら強く揺さ振った。力任せに前後に揺するたび、百が零した大粒の涙が、灰色のコートに点々と斑に染みを作った。父の口からくぐもった嗚咽が漏れた。
千歳は状況が飲み込めず、薄暗い玄関に、ただ呆然と立ち尽くしていた。
それから三日後、母の通夜が行われた。斎場の職員に案内されて足を踏み入れた遺族の控え室の上座には、白い木製の柩が安置されていた。それが、事故後、初めて目にした母の姿だった。
「近付くんじゃない!」
柩に駆け寄る百と千歳を、父が一喝した。尋常でない父の怒声に、千歳はびくりと身を縮めた。
父の指示で、父と百と千歳の三人は控え室の下座に腰を下ろした。小規模な祭儀にも使用される縦長の和室の下座には、座卓と座布団が置かれていた。座卓の上には急須や湯飲みなどが用意されていたが、誰も手を付けようとはしなかった。父は力なく項垂れ、百は泣き腫らした目でぼんやりと宙を眺めていた。千歳は自分の膝頭に視線を落とし、体を小さくして息を殺していた。
待合ロビーを挟んで控え室と対面に位置する祭儀式場では、忙しなく、通夜の準備が行われていた。人々の話し声や足音、台車のキャスターが床を転がる音が引きも切らずに聞こえてきた。
控え室の引き戸が遠慮がちに小さくノックされた。父が返事をすると、戸がわずかに開き、斎場の職員が顔を覗かせた。職員が式の打ち合わせをしたいと言うので、父は腰を上げてその後について行った。
戸が閉まり、父の足音が遠ざかると、それまで虚ろな様子で座っていた百がのろのろと立ち上がった。両腕をだらりと下ろし、足を引き摺るようにして上座へと歩を進めた。一歩、また一歩と足を踏み出すたびに、ずっ、ずっ、と畳が乾いた摩擦音を立てた。ほどなくして柩の傍らに辿り着くと、しばらくの間、白い桐の大きな箱をじっと見下ろしていたが、やがて、箱の上部の脇に立て膝を突いた。
「お姉ちゃん、なにしてるの? ダメだよ、お父さんに叱られるよ」
父の剣幕を思い出し、千歳は慌てて止めた。けれども百は、千歳の声などまるで聞こえていないかのように、柩の小窓に付いた取っ手に手を伸ばした。
「ダメだって!」
千歳は腰を浮かせて叫んだ。百が、躊躇うことなく観音開きの小窓を開けた。そうして、柩に覆い被さって中を覗き込んだ。
途端、百が絹を裂くような悲鳴を上げた。叫びながら、両手で髪を毟り取らんばかりの勢いで鷲掴みにすると、頭を激しく左右に振った。百の膝が、遠目にも分かるほどがくがくとわななき、立っていることもままならない様子で、やがて大きな音を立てて柩の上に崩れ落ちた。
すぐに悲鳴を聞きつけ、父と斎場の職員が控え室に飛び込んで来た。柩の上に倒れ込んで慟哭する百を、父が後ろから羽交い締めにした。しかし、半狂乱になって暴れるその力は物凄く、職員も手伝って、大人の男二人がかりで柩から引き剥がすのがやっとだった。
「とりあえず、別室へ」
職員が百の右腕を押さえながら声を張り上げた。父が左腕を掴んで頷いた。百は両脇を抱えられて別室へ連れて行かれた。
静まり返った控え室に、千歳は一人残された。突然の騒動になすすべもなく、身動き一つとれないでいたが、やおら腰を上げ、そろりそろりと柩に歩み寄った。そして、開けっ放しの小窓から恐る恐る中を見た。
「……おか……あさん?」
柩の中は空だった。
箱庭のプレイ中に負った額の傷の処置もすみ、千歳が病室のベッドで休んでいると、しばらくして屋久が訪ねて来た。
屋久は、折り畳み椅子を広げてベッドの横に腰を下ろすと、一通り傷の具合を尋ねてから、
「千歳君、箱庭で何があったんだい」
単刀直入に切り出した。
「……ロボットが、急に姉に襲いかかって……」
千歳は顔を伏せ、言葉を選びながら慎重に答えた。屋久が無言で相槌を打つ。
「それで、姉を助けようとしたら、姉の棍棒が僕の頭に当たって……」
そこで言葉を切って、千歳は口を噤んだ。これ以上は喋らないほうがいい、そう判断したからだ。
屋久が、膝に置いた手を組んで前のめりになった。
「じゃあ、そのロボットはバーチャル空間では誰の役を与えられていたんだい? 君たちのお母さんを死に追いやった加害者集団のうちの誰かだとは思うんだが」
百を襲ったのはスガノだ。百がスガノを執拗に攻め、スガノが暴走した。
千歳は最近まで、百がスガノを集中攻撃するのは、スガノが加害車両唯一の生存者であり、確執のある相手ゆえ、殊更憎しみが深いからだと思っていた。
確かに、箱庭をプレイするようになった当初の百は、怒りや憎しみに身を任せ、加害者たちを無差別に殴り付けていただけだった。それがいつの頃からか、時折、スガノ一人を異常なまでに攻撃するようになっていた。それは、スガノ自身に物理的な攻撃を加えるだけでなく、他の加害者たちをスガノの眼前で嬲り殺しにしたり、当人の手に掛けさせたりと、精神的に追い詰めるような陰湿なものだった。
時を同じくして、百は千歳にプレイ中の行動を指図するようにもなった。千歳は百の命令に服従した。命令に従っている最中、千歳はいつも、百の纏わり付くような視線を感じていた。一挙手一投足にいたるまでまるで観察されているようで、まるでモルモットにでもなった気分だった。千歳がモルモットなら、百はさながら研究者だ。
そう思って逆に百の行動を観察してみると、比喩でも何でもなく、百は本当に実験しているのだと確信するに到った。理性を失っているかのように振る舞いながら、その実、しごく冷静に実験と観察を繰り返している。
「あの時のことは、あまりよく憶えてません。とっさのことだったし、相手の顔を確認する余裕なんてありませんでした」
千歳は白を切った。百が実験の結果、何を得て、何を企んでいるのか、見当は付いていた。けれど、それを屋久に知られてはならない。知られてしまえば、千歳の計画も頓挫してしまう。
「なあ、千歳君。次回から箱庭でのプレイは一人ずつにしたほうがいいんじゃないか」
千歳が黙り込んでいると、屋久が切り出した。その提案に千歳は動揺し、
「……一緒じゃなきゃ意味がないんです」
と、思わず口走った。
「それはどういうこと? 何故、一緒でなければ意味がないんだい」
屋久が目を光らせた。千歳は忌々しげに顔を顰めた。
「そもそも、二人一緒にプレイしようと言い出したのはどっちなんだい。お姉さん? それとも君?」
二人一緒に、と言ったのは百だった。千歳に拒否権などない。母が亡くなってからというもの、千歳は百の言いなりだった。
それは、母が事故に遭った原因が自分にあるという負い目からくるものもあるが、なにより、百が恐ろしかったからだ。
母の葬儀がすんで数日経ったある夜、百が千歳の枕元に立っていた。窓から射し込む月明かりに照らされ青白く浮かび上がったその顔は、能面のように無表情で、虚ろに開かれた両目は、水の涸れた深い井戸の底のように暗かった。
見下ろされ、金縛りにかかったように硬直していると、百がおもむろに両腕を上げた。その右手には、生前、母が愛用していた剃刀が握られていた。月の光りを鈍く映した鋭い刃が、ゆっくりと動いた。千歳は反射的に目を瞑った。
ややあって、あんたのせいよ、と呟く声に、目を開けた。その瞬間、千歳の顔面に生温い液体が降り注いだ。粘り気のある液体がぼたぼたと顔にかかるたび、錆のような臭いが鼻を衝いた。目に入る液体を両手で拭いながら、千歳は目を凝らした。百が剃刀で左腕を切っているのが見えた。千歳は悲鳴を上げた。その口の中にも、百の血が零れ落ちた。
以来、百は自傷行為を繰り返すようになった。それはいつも必ず千歳の目の前で、千歳を責め立てながら、切り口を見せ付けるようにして行われた。顔を背けると、なじり、直視するまで何度も手首を切った。
「君たちの意思は尊重したいけど、そうもいってられないよ。このまま続けるのは危険だ」
屋久が強い口調で告げた。
千歳は後悔の念に駆られた。別々にプレイすることになれば、百の計画は頓挫してしまう。それはすなわち、百の企みに乗じた千歳の計画も無になるということだ。百と千歳とは、望む結末は違えども利害は一致している。ならば、監視役が不審を感じる前にさっさと行動を起こすべきだった。
けれども諦めるのはまだ早い。屋久は事態の全容を把握しているわけではない。あれこれ探りを入れているのがその証拠だ。
その時、ドアがノックされ、常盤が百を伴って病室へ入って来た。百が駆け寄り、千歳の体にしがみ付く。
「千歳、ごめんね、ごめんね」
千歳の肩に顔を押し付けて、百が泣きながら謝罪した。しかし、その悲痛な声とは裏腹に、千歳の肩が濡れることはなかった。
百が千歳の背中に腕を回し、きつく抱きしめた。千歳はなされるがままで考えていた。
――姉さん、もう猶予はないよ。邪魔が入る前に、早く計画を実行してよ。隠さなくても、姉さんが僕を殺そうとしていることは知っているんだ。
姉さん、早く僕を楽にさせてよ。自分で自分を責めるのも、他人に責められるのも、もう疲れたんだ。
姉さん、早く僕を殺してよ。そして姉さんも、責められ続ける苦しみを味わえばいい。僕が味わい続けた苦しみを、今度は姉さんが味わえばいいんだ……。
千歳は、百の華奢な背中を無言で撫でた。