第四話 百
「あ、ノート買うの忘れてた」
居間のソファーに寝転がり、テレビを見ていた千歳が、突然、大声を出して跳ね起きた。百が夕食の片付けを手伝っていた時のことだ。
「千歳って、ほんとに忘れっぽいよね」
食卓のカセットコンロの上の土鍋を流しに運びながら、百は呆れた口調で言った。すると千歳は、頬を膨らませてソファーから立ち上がり、ドアの方へと歩いて行った。
「どこに行くの?」
対面式のキッチンの奥から、母が食器を洗う手を止めて尋ねた。
「コンビニ。ノート買ってくる」
「もう遅いから明日にしなさい」
「明日じゃだめ。今、必要なの」
千歳が不機嫌そうに答える。
「そんなこと言って、本当はたんに買い食いしたいだけなんじゃないの」
百がにやにやと笑ってからかうと、千歳はドアノブに手をかけたまま振り返って、百を睨んだ。
「じゃあ、お姉ちゃんが買ってきてよ」
「いやよ、どうして私が千歳の使い走りなんてしなくちゃならないの?」
「百は駄目よ。女の子がこんな時間に出歩いたりしちゃ危ないわ」
母が眉根を寄せる。
「こんな凶暴な女、襲うヤツなんていないよ」
「誰が凶暴な女なのよ。生意気なことばっかり言ってると殴るわよ」
「ほら、凶暴じゃん」
百と千歳が言い争っていると、母が小さく溜息をついた。
「もう、しょうがないわね。お母さんが買いに行くから、喧嘩しないの」
「ちょっと、お母さん。自分で買いに行かせなよ」
エプロンで手を拭き、食器棚の抽斗から財布を取り出す母に、百は不満気に唇を尖らせた。母は少し困ったように微笑むと、エプロンを外し、食卓の椅子の背もたれに掛けた。
「すぐに戻って来るから。百、悪いんだけど、後片付けお願いね」
そう言い残し、母が車の鍵を持って部屋を出て行く。
「お母さん、千歳に甘すぎだよ」
軽い音を立てて閉まるドアに向かって、百は呟いた。
目が覚めて、最初に見えたのは無機質な白い天井だった。
「百ちゃん、大丈夫?」
次に目にしたのは見知った女の顔。形の良い眉を顰め、心配そうに百の顔を覗き込んでいる。後ろで結わえた長い黒髪が、肩口からさらさらと落ちて百の頬に触れた。
「常盤さん、千歳は?」
ベッドに半身を起こしながら百は尋ねた。
「大丈夫よ、心配いらないわ。今、診療所で治療を受けているところ。もう少し休んでから一緒に行きましょう」
と言って、常盤が微笑む。
――また、失敗したんだ。
百は落胆し、掛け布団の上に広げた自身の両の掌をじっと見つめた。両手に違和感を覚える。中途半端に開いた手には、まったく力が入らない。無理に握り締めようとすると、指の関節が痛いような、痺れているような、不快感と焦燥感のない交ぜになった嫌な気分になった。
思いどおりにならないその両手に、小刻みに震えるその指先に、千歳の側頭部を殴った瞬間の感触が残っている。
「ねえ、百ちゃん。箱庭の中で一体何があったの?」
常盤が遠慮がちに尋ねた。
「分かりません。いつものようにプレイしていたら相手が急に襲いかかって来て。それで千歳が私を庇って、……それなのに私、……何てことを……」
途切れ途切れに言って、百は両手で顔を覆った。
「ロボットがあなたを襲おうとしたの?」
常盤の質問に百は返事をしなかった。もう一度、どうなの、と訊かれ、百は覆っていた手を外して常盤を見上げた。常盤が訝しげな表情で百を見ている。
「そうです。ロボットが私を襲おうとしました」
「それはおかしいわね。箱庭のロボットはプレイヤーに危害を加えないようにプログラムされているのよ」
「そんなこと私に言われても……」
百は困惑したふうを装って、内心を探ろうと覗き込む常盤の視線から逃れた。
「これで五回目よね。何故あなたのプレイ時に限って不具合が生じるのかしら。何か心当たりはない?」
「いえ、特には」
「引き金になるような行動があるのじゃないかしら」
「分かりません」
「あなたを襲ったのは誰?」
常盤が矢継ぎ早に問いかける。しかし、百が表情を無くし、一点を睨みつけると、常盤は途端に黙った。
常盤は自分自身が、犯罪被害者等に対する二次被害の加害者になることを極端に恐れているようだった。故に施設の利用者に接するさい、細心の注意を払っていることが傍目にも見てとれた。しかしそれは時として、必要以上に人の顔色を窺い、腫れ物に触るような態度として表れ、正直なところ百は不快に感じていた。
だが、今はそれに感謝している。百が殻に籠もったふりをすると、案の定、常盤は追及するのを止めた。
百を襲ったスガノは、箱庭のバグだ。それを常盤に知られてはならない。知られてしまえば、百の計画は頓挫してしまう。
バグの存在に気付いたの随分と前のことだ。箱庭をプレイするようになった当初は、単純に、加害者たちが憎くて堪らなく、理性を無くして盲滅法に殴り付けていただけだった。中でも、加害車両唯一の生存者、スガノに対してはその傾向が強かった。
スガノはただ一人の生存者でありながら、母の通夜にも葬式にも墓参りにも来なかった。葬式がすんだ数日後、代わりに、スガノの父親の経営する会社の顧問弁護士を名乗る男が現れた。男は、厚みのある香典袋を放り投げるようにして仏壇に供え、父に示談を持ちかけた。父は香典を突き返し、男を追い返した。それきり、スガノから何の音沙汰もない。
母を死に追いやっておきながら、当人は謝罪することなくのうのうと生きている。その事実が赦しがたく、百はプレイ中、スガノを執拗に攻めた。
するとある日、スガノに異変が起こった。人型ロボットはプレイヤーに危害をおよぼさない、との説明を受けていたので、スガノが突然、反撃してきた時は驚いた。けれどすぐに、これは好機だと思った。
それからは、観察を目的としてスガノに攻撃を加えるようになった。どういう状況下においてスガノは暴走するのか、またそれはどの程度のものなのか。百は、千歳にも監視役にも覚られぬよう、ある程度間隔を空けて実験を繰り返した。
そうして今では、バグの発生条件を完全に把握していた。後は、スガノの暴走に乗じて、計画を遂行するだけだ。
「ああ、ごめんなさい。百ちゃんのことを責めているわけじゃないの。ただ、あなたの話しが事実ならシステムの修復が必要だと思って」
百が感情を遮断し、無表情でじっと口を噤んでいると、常盤が躊躇いがちに手を伸ばしてきた。その指先が百の肩口に触れる寸前、百は常盤を見上げた。
「千歳に訊いてください。ロボットの異変に気が付いのは弟の方が先でしたから。私は、弟の叫び声で初めて気付いたんです」
極力、普段と変わらぬ態度でそう告げると、常盤は安堵したように頬を緩めた。そうして、そうするわ、と頷きながら腕時計に目を落とし、百を診療所に誘った。
常盤と共に診療所に向かう途中、施設の建物を出た所で、一人の中年女性が声をかけてきた。それは百も、箱庭の待合室で何度か見かけた顔だった。常盤が立ち止まったので、百も少し離れて足を止めた。
「常盤さん、今まで色々とありがとうございました。おかげさまで、もうすっかり立ち直ることができました」
そう言って、女性は深々とお辞儀をした。常盤の頬の形が変わり、斜め後ろの百の位置からでも、常盤が顔を綻ばせたのが分かった。
「こちらこそ、お力になれて嬉しいです。これから、旦那様の故郷に引っ越されるんでしたよね。出発はいつ頃ですか」
「ええ、来週末にでも。主人の故郷はのんびりとした所ですから、私もこれからはそこで、心静かに暮らしたいと思っております」
白髪まじりの後れ毛を撫で上げながら、女性は痩せた面に微かに笑みを浮かべた。常盤は目を細め、女性の門出を喜んだ。
しかし、女性の言葉が本心ではないことを百は知っていた。女性は立ち直ったのではない、諦めたのだ。
箱庭は、自分の望む世界を与えてくれる。百も初めの内は、何遍殺しても飽き足りない、憎くて堪らない加害者を、心置きなく何度でも殺せることに狂喜した。しかしそれは裏を返せば、何ら望みが叶えられていないことに他ならない。憎むべき相手は何度殺そうが、プレイごとにリセットされ、寸分違わぬ姿で眼前に現れる。
そのたびに現実を突き付けられる。箱庭も所詮は紛い物にすぎないのだと。紛い物の世界で紛い物の加害者相手に報復したところで、何の解決にもなりはしない。一時の高揚感や達成感などすぐに慣れてしまう。回数を重ねるごとに満足できなくなる。結局、どう足掻いたところで現実は変わらない。失ったものは戻らない。絶望し、諦める。底無しの虚無感だけが残る。
同じ境遇だからこそ分かる。女性は縋ることにさえ疲れたのだ。常盤には、故郷に帰ると告げているが、この後、女性のとるであろう行動は大よそ見当がつく。
百の視線に気付いた女性は、小さく息を呑み、ぎくしゃくと顔を背けた。常盤が怪訝な表情で百を振り返る。百はそれを無視して、診療所へ向かって一人で歩き出した。
診療所の玄関で百は常盤を待った。しばらくして、中年女性と別れの挨拶をすませた常盤が、急ぎ足でやって来た。常盤と合流し、百は再び常盤の後に付いて病室へと歩を進めた。
診察室の隣の病室のドアを開けると、ベッドの上に千歳の姿があった。額に大きなガーゼが貼り付けられている。百は駆け寄り、千歳にしがみ付いた。
「千歳、ごめんね、ごめんね」
そう、何度も謝罪した。そして、謝りながら百は考えていた。
――私はあの中年女とは違う。境遇は同じでも、私にはなすべきことある。私が本当に復讐すべき相手は、スガノでもスガノの弁護士でも、とっくの昔に死んでしまった加害者たちでもない。今、目の前にいる弟だ。
バグがスガノだったのはこれ以上ない幸運だった。私にチャンスを与えてくれた。今回は失敗してしまったが、スガノの暴走に乗じて弟を殺す、という絶好の機会を……。
百は、その生身の存在を確かめるように、千歳の体をきつく抱きしめた。