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箱庭  作者: 名野創平
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第二話  箱庭(1)

花井百はないももに関する報告

 五月二十七日 午後二時零分

 花井百、花井千歳、両名【箱庭】プレイ開始。

 午後二時五十七分

 花井百、錯乱。花井千歳を棍棒で殴打し負傷させる。プレイ中錯乱状態に陥ること計五回。

 いずれも原因不明。早急に原因の究明および解決に努める』


 窓辺の事務机で報告書の作成をしていた常盤ときわは、ノートパソコンの液晶画面から視線を上げて窓の外を眺めた。

 瑞々しい若葉の緑が眩しい新緑の庭。大樹の根元に設置された木製のベンチで木漏れ日を浴びながら読書をする老人や、短く刈られた芝生に車座になって閑談する人々の姿が見える。木々のざわめき、鳥の囀り。風に運ばれ、断片的に聞こえる人々の話し声。

 一見穏やかな光景だが、この庭に集う人々の心中を慮ると常盤は胸が痛んだ。

 彼らは皆、犯罪や事故の被害者およびその近親者だ。車座で閑談しているのは自助会のメンバー、読書をしているのは交通事故で孫を亡くした遺族。常盤が勤務するここ『犯罪被害者支援施設』は、被害者等の精神的被害の軽減、回復を目的として創設された。

 加害者に甘く被害者に厳しいこの国の現状において、犯罪被害者等は社会から顧みられることなく孤立することが多い。彼らはやり場のない感情に苛まれこの施設の門戸を叩く。

「……ん」

 微かな呻き声に常盤は視線を室内に戻した。パソコンをスタンバイの状態にしてから壁際のベッドへ向かう。簡素なパイプベッドの枕元に立ち、真っ白なシーツの上に横たわる少女の寝顔を見下ろした。

 窓から射し込むやわらかな陽射しに照らされた肌は白磁のように滑らかで、卵形の輪郭を艶やかな緑の黒髪が縁取っている。

「……お母さん」

 少女の赤みを帯びた小さな唇から苦しげな声が漏れた。眉間に皺を寄せ、長い睫毛の隙間から涙が滲む。常盤は指を伸ばして涙を拭った。少女の瞼がゆっくりと開く。

「百ちゃん、大丈夫?」

 常盤が呼びかけると少女は数回瞬きをした。少女の名前は花井百、この施設の利用者の一人だ。

「常盤さん、千歳は?」

 ベッドに半身を起こしながら百が尋ねた。

「大丈夫よ、心配いらないわ。今、診療所で治療を受けているところ。もう少し休んでから一緒に行きましょう」

「はい」

 常盤が微笑みかけると、百は一言返してすぐに視線を落とし、掛け布団の上に広げた自身の両掌をじっと見つめた。蝋のように白い指先が小刻みに震えている。先刻の【箱庭】での出来事を思い出しているのだろうか。

 この施設で【箱庭】と呼称される箱庭は、一般的に知られている心理療法の一種、箱庭療法の箱庭とは異なる。この施設における箱庭とは、バーチャルリアリティ技術と人型ロボットを用いて精神的被害の軽減、回復を可能とした装置のことだ。

 当然のことながら、実社会において加害者に対する報復は認められていない。しかしそれは被害者等には到底、納得しかねることだ。現実世界で報復が違法であるというのならば、違法ではない世界を創ればよい。そうして構築された装置がこの箱庭だった。

 百はその箱庭をプレイ中に突然錯乱し、同時にプレイしていた弟の千歳を負傷させた。

「ねえ、百ちゃん。箱庭の中で一体何があったの?」

 バーチャル空間での出来事は入出力装置を装着しているプレイヤーにしか分からない。

「分かりません。いつものようにプレイしていたら相手が急に襲いかかって来て。それで千歳が私を庇って、……それなのに私、……何てことを……」

 青ざめた顔を両手で覆って、百は頭を左右に振った。

 外部の人間はプレイヤーの行動からバーチャル空間での出来事を推測するしかない。今から一時間ほど前、百と千歳の姉弟は、常盤と同僚の屋久やくの監視下で六体のロボットを相手に大立ち回りを演じていた。

 確かに百が証言するように、百が千歳を殴打する直前ロボットの一体が百に向かって動いたようにも見えた。しかし、箱庭で使用している人型ロボットは、プレイヤーの脳波に反応し、プレイヤーのイメージどおりに動く傀儡でしかない。結局、その動作の意味するところは外部の人間には知りようがない。

「ロボットがあなたを襲おうとしたの?」

 常盤は質問した。百は顔を覆ったまますぐには返事をしなかった。百の、俯いて露わになった首筋はたやすく折れてしまいそうに細く、箱庭でみせる残虐性との乖離に常盤は一抹の不安を覚えた。

 箱庭のプレイヤーはバーチャル空間で対峙する加害者がコンピュータの作り出した仮想の存在であると理解している。それでも、いざ憎むべき対象が目の前に現れれば平常心ではいられない。激しい憎悪のために非人道的な行いをする者も少なくない。けれどもそれは、抑圧された感情の発露の場として作られた空間内での所業であり、それを咎めるつもりなど毛頭ない。むしろそうすることによって多少なりとも精神的被害の軽減、回復に繋がるのであれば、理性などかなぐり捨てて気がすむまで暴れればよいのだ。

 しかし、箱庭内での百の振る舞いは他のプレイヤーとは異質に思える。自我が未発達な子供ゆえ装置に過剰適応しているのか、それとも思春期の少女特有の残酷さがそうさせるのか。いずれにせよ、実害のないうちはあえて看過してきたが、現実に怪我人がでている以上このまま見過ごすわけにはいかない。

「どうなの?」

 常盤はもう一度訊ねた。

「そうです。ロボットが私を襲おうとしました」

 ややあって、覆っていた手を外して百が常盤を見上げた。その黒目がちの瞳に浮かぶ感情の変化を見逃さないように注意しながら、常盤は疑問を口にする。

「それはおかしいわね。箱庭のロボットはプレイヤーに危害を加えないようにプログラムされているのよ」

 そもそも箱庭に使用しているロボットは人工知能を搭載してはいない。意思を持ち、反撃するなどありえないはずだ。 

「そんなこと私に言われても……」

 百が困惑する。

「これで五回目よね。何故あなたのプレイ時に限って不具合が生じるのかしら。何か心当たりはない?」

「いえ、特には」

「引き金になるような行動があるのじゃないかしら」

「分かりません」

「あなたを襲ったのは誰?」

 常盤の矢継ぎ早な問いかけに、百は拒絶するように激しく頭を振ると、突然ぴたりと電池の切れた玩具のように停止した。そうして一点を見つめたまま凍りついたように固まった。

 百は母親の死後、自傷行為を繰り返し、見かねた父親に連れられてこの施設にやって来た。初対面の百はその容姿とあいまってさながら壊れた人形のようだった。ほとんど瞬きをしない虚ろな双眸。深い洞穴の底のように暗い瞳は、いくら話しかけても何の反応も返さず、その細い手首に巻かれた白い包帯に触れた時でさえ微動だにしなかった。

 あれから二年。全快には程遠いが、それでもいくらかは回復の兆しを見せていた。それを、詰問まがいな真似をして逆行させてしまった。常盤は自責の念に駆られた。

「ああ、ごめんなさい。百ちゃんのことを責めているわけじゃないの。ただ、あなたの話しが事実ならシステムの修復が必要だと思って」

 百は常盤を見ようとはしなかった。口を真一文字に結び、悲しみとも怒りとも判断のしかねる表情で正面を見据えていた。

「百ちゃん?」

 言い知れぬ不安に襲われ、常盤は百の肩に手を伸ばした。その指先が触れる寸前、百が常盤を見上げた。

「千歳に訊いてください。ロボットの異変に気が付いのは弟の方が先でしたから。私は、弟の叫び声で初めて気付いたんです」

「ええ、そうね。そうするわ」

 普段と変わらぬ百の態度に常盤は安堵し、腕時計の文字盤に視線を落とした。四時二十六分。

「もう治療もすんでいる頃ね。診療所へ行きましょうか」

「はい」

 常盤と百は連れ立って部屋を出た。

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