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箱庭  作者: 名野創平
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第一話  路地裏

「……たっ、助けてくれ!」

 男が弛んだ頬をぶるぶると震わせて懇願する。腫れ上がった瞼の隙間から溢れた涙と鼻血混じりの鼻水が、ガチガチと歯の根が合わない口の中へと流れ込んで行く。

「頼む……金なら出すから」

 夜の繁華街。街の喧騒が遠くに聞こえる路地裏で、男は上着の内ポケットから分厚い革の財布を取り出して目の前の若者たちに差し出した。しかし男を囲む五人の男女のうち誰一人としてそれを受け取る者はいなかった。各々金属バットを手に、男を袋小路に追い詰める。

 男は折れてだらりと伸びた左足を引き摺りながら、息も絶え絶え後ろに逃げた。後退り、雑居ビルの壁に背中が触れた刹那、集団の中央にいた茶髪の男が、男の腹にバットを振り下ろした。ぐぅ、とひしゃげた蛙のような声を上げ、男が胃の内容物をコンクリートの地面に吐き散らした。胃酸特有の臭いが、飲食店から出された残飯の饐えた臭いと一緒くたになって狭い路地裏に充満する。

 前のめりに崩れ落ちる男の背中に再びバットが振り下ろされた。背骨が鈍い音をたてる。男は吐瀉物の上に顔面から落ちた。硬い地面にくの字になり、腹を押さえて悶絶する。

「痛い?」

 茶髪の男の背後から女の声が訊ねた。若者たちの間をすり抜けて一人の少女が男の側に歩み寄る。

 少女を見上げる男の顔は苦痛に歪み、ポマードで後ろに撫で付けた髪は乱れていた。毛束のへばり付いた額にびっしりと脂汗が浮いている。腫れた右瞼のぱっくりと開いた傷口から溢れる鮮血が、頬から顎を伝い、仕立ての良い背広に大きな染みを作る。

「無様ね。でも、自業自得よ」

 少女は手にしたバットで男の胸元を小突いた。高い金属音が響く。少女はバットの先端をずらして音の出所を探し、男の背広の襟のバッジを睥睨した。十六弁のひまわりの花とその中心部に秤を配した特徴的な意匠。

「ひまわりは正義と自由、秤は公正と平等、……だったかしら?」

 少女は小首を傾げながら男の傍らにしゃがみ、その襟元に手を伸ばした。男が、ひっ、と喉を鳴らして身を縮める。少女は冷笑を浮かべ、

「どれもあなたに似つかわしくないわね」

 そう言って、金メッキが剥げて銀色になった弁護士バッジを毟り取ると吐瀉物の中に叩き付けた。飛沫が男の顔にかかる。

「ねえ、スガノさん」

 少女が振り返り、集団の右端に立ち尽くしている小柄な女を見やった。名指しされた女が顔を強張らせる。

「そろそろ止めを刺してあげたら」

 少女が顎をしゃくって指図する。スガノは何度も首を左右に振った。そのたびに緩く波打った薄茶色の髪が、華奢な両肩の周りで弧を描いた。

「どうして? あなたが雇った弁護士さんじゃない。いつまでも痛い思いをさせておくのも可哀相よ。さっさと逝かせてあげるのも優しさじゃないのかしら」

「……違うわ」

「違うって何が? 生殺しのままがいいの? 嫌だ、虫も殺さないような顔して結構恐いのね」

 少女がくすり、と笑った。見る間にスガノの顔面は蒼白になり、大きな瞳は涙に潤んだ。なおも激しく頭を振ってスガノが金切り声を上げる。

「違うの。私が頼んだんじゃない。パパが勝手に……」

「ふぅん、パパねえ」

 少女に揶揄されスガノの頬に朱が差す。

「じゃあ、仕方がないわね」

 少女は立ち上がり、おもむろにバットを振りかぶると茶髪の男の脳天目掛けて振り下ろした。骨の砕ける嫌な音がして、男の頭から噴水のように血が噴き出す。長身がゆっくりと後方に傾き、砂埃を舞い上げて大の字に倒れた。地面に叩き付けられた後頭部が一度弾み、とろりと粘り気のある血液が頭の周囲に放射状に広がってゆく。

 スガノが甲高い悲鳴を上げた。

「あなたが悪いのよ、ぐずぐずしてるから」

 頬に付いた返り血を拭いながら少女が言った。スガノの顔が恐怖に歪む。上品な色味の紅をひいた唇がわななき、見開いた双眸からぼろぼろと大粒の涙が零れた。

「ほら、早く」

 微笑みながら少女が詰め寄る。スガノは浅く早い呼吸で喘ぎ、よろめきながら後退した。少女がさらに一歩間合いを詰める。スガノは後ろへ逃げ、しかし、足を縺れさせてその場に尻餅をついた。過呼吸の発作を起こし、白いブラウスの胸元を鷲掴みにしてもがく。

 少女はその様をしばらくの間冷徹な表情で眺めていたが、やがて、ふいと横を向いて集団の反対端に声をかけた。

「ハタダさん、ヤマギシさんを殺してよ」

 ハタダと呼ばれたショートヘアの女と、その隣りのヤマギシと呼ばれた太った男が同時にびくりと肩を震わせた。ハタダはスガノ同様、首を横に振って拒否した。少女は肩をすくめ、

千歳ちとせ

 と、路地裏の入口に向かって声をかけた。一人の少年が姿を現し、少女の隣に並ぶ。

「このままじゃ埒が明かないわ。ちょっと手伝って」

 少女はバットを地面に投げ捨てて少年に目配せした。少年が黙って頷く。二人はハタダを左右から挟むと、少女が右手首、少年が左手首を掴んだ。それぞれ掴んだ手首をハタダの体の正面で合わせ、バットのグリップの部分を両手で握らせると中段の構えをとらせる。ハタダは腰を退いて抵抗した。しかしそれを二人分の力で捩じ伏せて、少女の合図とともにヤマギシの顔面に一撃を食らわせた。

 ヤマギシが両手で顔を覆い、野太い呻き声を上げて地面に膝をついた。覆った指の間から血が滴り落ちる。二人は拘束から逃れようともがくハタダを引き摺って、伏せた顔を押さえて激痛に悶絶するヤマギシの後頭部を叩き割った。ヤマギシはうつ伏せに倒れ込み、陸に揚げられた魚のようにびくんびくんと数回痙攣して事切れた。

 少女はハタダの手首を離すとヤマギシの側に屈み、その頭髪を掴んで顔を上げさせた。

「ハタダさん、ちょっとは加減してあげなくちゃ。お友達でしょう?」

 鼻の辺りを中心に大きく陥没した血塗れの面をハタダに見せ付けながら、少女はくすくすと笑った。腰を抜かしガタガタと震えるハタダの手から少年がバットを奪い取る。

 少女は先程放ったバットを拾い、地面を引き摺りながらスガノのもとへ向かった。両手で髪を掻き毟り、半狂乱になったスガノの顔を下から覗き込む。

「早くしないと、あなたのお友達をまた一人血祭りにあげなきゃならないわ。ねえ、パパのお友達と自分のお友達どっちが大事?」

 スガノは乱れた髪の隙間から泣き腫らした目で、壁際でぐったりとしている男とへたり込んだハタダとを交互に見た。

「お願い、やめてっ、……いやよ、いや、いや」

 ハタダが髪を振り乱して泣き叫ぶ。スガノはバットを杖代わりによろよろと立ち上がると男の方へと歩を進めた。力の入らない腕で、男が必死に匍匐前進ほふくぜんしんを試みる。その肩口目掛けてスガノがバットを振り下ろした。男は絶叫し、全身埃塗れになりながらのた打ち回った。続けざまに頭部を殴る。女の声とは思えない低くくぐもった奇声を発しながら何度も何度も。錆のような臭いが鼻を衝く。

 スガノの乱心ぶりを横目で見ながら少女が少年に向かって顎をしゃくった。少年はハタダの後頭部を殴打した。少女は茶髪の男の死体の傍らで呆然と立ち尽くしている、短髪に眼鏡の男の横っ面をバットで殴った。男は何の抵抗もみせぬまま横向きに倒れた。地面に落ちた砕けた眼鏡を踏み付けて、少女は倒れた男のもとへ近付く。その時、

「姉さん、危ない!」

 少年が叫んだ。少年の視線の先に、鬼のような形相で少女へ向かって駆けて来るスガノの姿があった。少女がバットを薙ぎ払う。横に振ったその先端が、少女を庇おうと少女とスガノの間に割って入った少年の側頭部をとらえた。

「千歳っ」

 少女が悲鳴を上げた。少年は声もなく倒れた。

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