10月15日-4
その時。
「……まさか…?」
がたがたと震える身体を必死に押さえつけながら、唐突に僕はある事に思い至った。恐怖が限界を超え、脳みそがマヒしてしまったのかもしれない。
僕は不思議と冷静さを取り戻していった。そしてさっきの『違和感』の正体にある仮説を立てた。
…さっきの絵依子のパンチも、その前の蹴りも、本当は当たっていたんじゃないのか。だけど、あの怪物はそれを『受け流して』いるんじゃないのか。そう…例えば当たりそうなところを、今みたいな実体ではなく最初の『影』みたいにしていれば、当たってもそれはまさに雲を掴むようなものだ。ダメージなんてないんじゃないのだろうか…?
…そこから僕は、ヤツの姿を注意深く観察することにした。
「アぉオ・・・おォぉぉぉーーーーッッ!!」
「……くっ……!!!」
ザシュッ・・・・・・ッッ!!
ドンッ・・・・・・!!
…やっぱり思った通りだ。あの怪物はさっきから何度となく絵依子のパンチやキックを食らっているにもかかわらず、まるっきりダメージを受けたように見えない。僕の推測した通り、実体化をコントロール…つまり当たる所を「もや」みたいな状態にして、攻撃を『流して』まともに受けていないのだ。
「そ…そんなの…ありかよ……っ!!」
思わず僕は叫んでしまった。当てても当ててもこれじゃ……どうしようもないじゃないか。インチキじゃないか!
ヤツと違って、そんな真似は出来ないらしい絵依子にとって、この戦いは……どう考えても不利過ぎる!
「はぁ…はぁ…はぁ………っ……!」
……絵依子の呼吸がはっきりと荒くなり始めた。それに合わせる様に、明らかに動きも落ちてきている。さっきまでは完全に躱せていた牙も爪も、じょじょに絵依子の身体を掠めるようになっていた。しかも段々と深く。
かろうじてまだ「ヨロイ」に守られているものの、それを裂かれ、貫かれるのも時間の問題のように思えた。
そんな…そんな事を…!
やらせる訳にはいかない…!!
今、目の前で起きている事が現実なのか夢なのか、もうそんなことはどうでもいい…!
絵依子を助けなくちゃいけないんだ! 僕が!!!!
「…っ! 動いちゃダメっ! じっとしててッッ!!!」
「僕の事なんか気にするなっ! そいつだけ見てろっ!」
聞こえてきた絵依子の制止を振り切って、僕はのろのろと身体を起こし、何か武器になるものはないかと辺りを見回した。
……でも、美術室という場所に、そんなものがそうそう有るはずなど無かった。ホウキで殴りつけたところで、そんなのがあいつに効くともとても思えない。
それでもあきらめずに僕は頭を必死で回転させる。
何か無いのか……何か……!!
そんな時、急に…こつんと何かが足元に当たった。それは……絵依子と怪物の戦いに巻き込まれ、壊され吹っ飛んできた、もはや原型も留めていない椅子やらの気の毒な残骸たちだった。
「……っ…!」
そのうちのひとつを、僕は取り上げた。教室の後ろの棚に固めておいた、放置されていた画材のひとつ。
それは油絵のパレットに付いた絵の具をこそぎ落とし、きれいにするためのナイフ、『パレットナイフ』 だった。
むろんナイフといっても、切ったり刺したりが出来るほどの物ではぜんぜん無い。要するに少し薄めの、ただの金属の板っぺらだ。
それでも僕はこの使い慣れた「武器」を手にした時、何ともいえないほどの力を得た気がした。
僕にとっては、万の援軍にも匹敵するほどの!
視線を戦いの場に戻すと、いつの間にかすっかり防戦一方となっている絵依子に、調子づいた怪物がカサにかかって猛然と攻め立てていた。
ぶんぶんと腕を振り回し、「獲物」を追い詰めようとしているようにさえ見える。さっきまではほとんど互角かそれ以上だったのに、それほどに今の絵依子は疲れ切っているのだと僕は直感した。
ゴシュッ・・・ッ!!!
ズバッッ・・・!!
戦っている絵依子も辛いだろうが、それは見ている僕にしてもそうだ。妹が傷ついていくのを、ただ指をくわえて見ているだけなんて、半ば拷問ですらある。
…でもまだだ…!!
今すぐにも飛び出したい衝動を必死に抑えながら、僕は息を殺して戦況をじっと伺っていた。
「………ッッ!!」
突然、後ろに退ろうとしたらしい絵依子の足がもつれた。とっさにバランスを保とうとしたものの、それを怪物が見逃すはずなんかなかった。
ドゥ・・・・・・ッン!
「あ……ぅッ! し、しまっ……!」
「ヴヴるぅぅぅゥゥ・・・・・・・・・ッッッ!」
一瞬の隙を突かれ、とうとう絵依子が…怪物に押し倒されてしまった…!
上からのしかかられ、両腕をがっちりと爪で押さえられた絵依子は、完全に自由を奪われてしまった。足をばたつかせるものの、まるで効果なんか無い。
怪物がどこか嬉しそうに、組み臥した絵依子を上からねめつけながら、ヴルル・・・と音を発していた。
たぶん今、自分の勝利をこの怪物は微塵も疑っていない。この時が来るのを待ちわびていたんだろう。
だけど、それは僕の待っていた瞬間でもあった…!!!
くい、と頭を持ち上げ、怪物が一気に絵依子の喉元に齧り付こうとした。それが見えた瞬間、僕は怪物に向かって駆け出した…!
もう一度強くパレットナイフを握り締め、僕は…!!
「うぁあああああーーーーーーーーっっっ!!!」
ドスッゥッッ!!!
「ヴルゥぅラぁぁァあァッッッーーーーーーーーーーーッッ!!!!」
全速力で助走をつけ、身体ごとぶつけるようにして、僕は手にしたパレットナイフを突き出し、顔を上げていた怪物の喉元に、根元まで刺し込んでやった…!!
……いくら自在にコントロール出来ると言っても、攻撃する時は腕なり頭なりを実体化させていたのは、これまでの観察で見て取れた。雲を掴むことはできないけれど、逆に雲も、相手を掴むことはできないように、攻撃を無効化できる「もや」みたいな状態では、自分も相手にダメージは与えられないんだろう。
腕は絵依子の肩を抑えるために使われている。それならとどめは牙で、頭の部分を実体化させると、僕は読んだのだ…!!
…そしてその狙いはドンピシャだった。しかもおそらくは僕のことなど怪物はまったくのノーマークだったんだろう。まともに僕の会心の一撃を食らった怪物が、ごろごろのた打ち回りながら絵依子から離れていく。
「や……やった…っ…? はは…、やった……やったぞぉぉっ…っ!!!」
「お…お兄ちゃん……?」
ぽかんとした表情を浮かべながら、絵依子がこっちを見ている。きっと僕の意外な強さに驚き、感動でもしているんだろう。
さっきまでの恐怖と、見事に怪物を倒してのけた興奮が入り混じり、僕は最ッ高にハイな気分で絵依子の側に駆け寄った。
「あっはははっ! 大丈夫かっ! 絵依子っ?!」
「お兄ちゃんのバカぁぁっっっ!!!!!」
…でも、そんな僕の熱狂は、立ち上がった絵依子の凄まじい声にたちまちかき消されてしまった。
「……へ………?」
「へ、じゃないっ!!! なに考えてるのっ!? そんな小っちゃなナイフであいつとやり合うなんて…死ぬ気!?」
「い…いや、そんなつもりは全然…。そ…それにほら、バッチリ上手く行ったろ…?」
「たまたまだよっ! もし外れてたら…どうするつもりだったの?!」
…絵依子の言葉は、氷水でもぶっかけたように僕の心を急速に冷ましていく。確かに外した時の事までは……僕は考えていなかった。
「あ……う…うぅ…。で、でも……」
「お兄ちゃんに死なれたらわたしが困るの! …っ、わたしだけじゃない、お母さんだってあーやだって困るの! 悲しいの!!」
「うぅ…………」
…ものすごい剣幕の絵依子に叱り飛ばされ、僕はしどろもどろに言い訳じみた言葉を口にするしか出来なかった…。
「…っ………」
まだ何か言いたそうな風情の絵依子だったが、急にぷい、と僕から視線をそらした。釣られて僕もその方向を向いた。
そこでは今だごろごろと怪物がのた打ち回ってた。たぶん脳天にまでナイフは達してるだろうにまだ生きてるなんて、信じられない生命力だ…。
……ふと僕の頭にこの「怪物」に対する激しい疑念が、異様な違和感と共に巻き起こった。
…いや、そもそもあいつは………生き物なのか…?
…でも、普通の生き物にあんな事が出来るのか…?
…それに生き物じゃないなら…何だって言うんだ?
とりとめなく頭に疑問が浮かび上がり、さりとて答えなど見つけられずにただ立ち尽くしていると、次第にヤツを見る絵依子の表情が…険しくなっていった。
「……? まさか………」
何かをつぶやきながら、じりじりと絵依子が怪物との距離を詰めていく。その瞬間。
「ヴルぅアあアっッッっッッ! キさマラッ! よクモっッ!!!!!」
突如、バネ仕掛けの人形のように怪物が跳ね起き、そしてそのままの勢いで、完全に日の落ちた夜の空に…窓をぶち破って一気に躍り上がった。
「な………」
「くっ……やっぱりっ……!」
呆然とその様子を見つめていると、続けて怪物が刺さっていたパレットナイフを投げ捨て、喉元を押さえながら奇怪な声を発するのが聞こえてきた。
「きサマッ!! オぼエテおケッ!!! ツギにあッタトき・・・すベテイたダクッッ・・・!!!!」
……怪物は…そう言い捨てると見る見るうちに夜の闇に溶け込んで消えていった。不吉な言葉だけを残して。
「…あ…あいつ…。しゃべれたのか…」
「……驚くとこ、そこ…?」
呆れたような絵依子のツッコミを受けながら、僕はさっきの怪物のセリフを反すうしていた。
…全てを頂く。そんな風に僕には聞こえた。
でも、それが何を意味しているのか、今の僕には想像することも知る術も…無かった。
怪物が割った窓の大穴から、ひゅう、と夜の冷気が教室に入り込んできた。
意外なほどのその空気の冷たさに…今さらながら僕は自分が汗びっしょりである事に気づいた。
そして同時に…その冷たさに、さっきまでの出来事が夢でも幻でも無いのだと……はっきりと僕は思い知らされた。
「……帰ろうか。絵依子」
「ん……」
しばらくしてから小さく僕は絵依子に声を掛けた。かすかに頷くと、妹はぱきぱきと音を立てて『変身』を解き始めた。
見る見るうちに白い「ヨロイ」が、元通りのいつものゴスロリ服に戻っていく。
再び信じられない光景が目の前で繰り広げられ、僕は本気で頭がどうにかなってしまいそうだった。
…そしてそれっきり……僕たちは押し黙ったまま家路についた。