10月15日-3
「…お兄ちゃんどいて!! 早く!!!!」
「……は…? ぇ…えい…こ……?」
僕を縛り付けていた恐怖ごとぶち壊すように、窓を破り、ガラスの破片をぱらぱらと撒き散らしながら教室に飛び込んできたのは…、あの白いゴスロリを身にまとった絵依子だった。
いつの間に着替えてきたのか……いや、それよりも、なんで帰ったはずの絵依子がここにいる……?
「早くっ! どいてお兄ちゃん! そいつ倒せない!」
…耳がどうかしてしまったのか、まったく意味が分からないセリフが絵依子から飛んできたように聞こえた。その鋭さだけが耳の奥に響く。
「ヴ・・・ルルるぅウぅぅ・・・・・・!!」
「…ひ……っ……!!」
……今まで聞いた事のない、明らかに異様な音…、いや…、声が 『影』 から聞こえてきた。
動物とも、人とも違う……、とうてい現実のものとは思えないような、恐ろしい色を帯びた音に…全身が総毛立つ。
とにかく……逃げるしかない!!!!
…どうして絵依子がここにいるのかは判らないけど、あいつの声を耳にしたおかげで、ほんの少しだけ僕は恐怖と混乱から立ち直ることが出来た。
とりあえずは絵依子のいる辺りにまでたどり着こう。そうすれば……この訳の判らない状況から、なんとか逃れられるかもしれない!!
とっさにそう考え、かくかくと震える足に必死に喝を入れ、ゆっくりと僕は後ずさり始めた。
でも、後ろを確認しようと振り返った瞬間、僕は…思わず自分の目を疑った。
…僕の目に飛び込んできたもの。
それは……離れるどころか、ずんずんと大股で 『影』 との距離を詰めていく……絵依子の姿だった。
「お…おまえ…、何してるんだよ…。に…逃げなきゃ…、逃げるんだろ……?」
かすれて何を言ってるのか、自分でも良く判らない声が喉から出た。だから絵依子には届かなかったのかもしれない。
「ぇ……えい…こ……?」
だから僕は…『影』…怪物から僕を隠すようにして、すぐ目の前にまでやってきた妹に、もう一度震える声をかけた。
…でも、返ってきた返事は……今度も僕の想像を絶するものだった。
「じっとしてて、お兄ちゃん。すぐに…倒すから!!」
…何を言ってるのか、僕にはさっぱり理解できない。
今起きてるのは……なんだ?
僕の目の前にいるのは…いったい何だ…? 誰だ…?
こいつは…本当に絵依子……、僕の……妹なのか……?
ふと、白い少女の左腕に、見慣れない大ぶりのブレスレッド…と言うより、なにか形容しがたい物体が取り付けられているのを僕は見た。
すっ、と絵依子が「それ」に右手で触れながら胸の辺りまで持っていく。そして…。
「……『錬装』………!!!」
「……な…、え……?………!!??」
…それは。
…有り得ない……としか言い様のない…光景だった。
絵依子が何か呪文のように発した…、 『レアリタ』 と聞こえたその言葉をきっかけに、あいつの着ていたゴスロリ服が見る見るうちに「変化」していった。
ぱきぱき、と音を立てながらねじれ、折れ、白と黒のワンピースが見た事もない異様なカタチに変化していく様は、まるで夢の中の出来事のようにさえ思える。
もしかしたら僕は…誰かの夢の中にでも放り込まれたのかもしれない。
…やがて、じゃりん、と音を立てて、絵依子が一歩を踏み出した。
「え…絵依………子…?」
僕は思わず妹の名を口にした。
目の前にいる少女は紛れもなく絵依子のはず。
なのにそれが僕には…とてつもなく信じがたい事のようにさえ思えてしまっていた…。
…今やすっかり変わり果て、もはや 『服』 とは到底呼べないシロモノになった白いヨロイ。それはまさしく「鎧」と表現するしかないモノだった。
そして……それをまとう絵依子の表情も雰囲気も、まるっきり普段のあいつとは違って見える。
騎士を描いた西洋絵画のような凛とした佇まい……それでいて何故か儚さのようなものを漂わせた…、まるでどこか遠い幻を見ているような感覚すら僕は覚えた。
「絵依子……」
僕はもう一度妹の名を呼んだ。僕の目の前に突然現れた……不可思議な白い女の子に呼びかけた。
だけど彼女からの返事は…なかった。
「ヴるぅ・・・・・・ルぅゥゥゥヴヴ・・・・・・」
黒い『影』……、いや、さっきまでは影のようにもやもやしていた奴は、今も輪郭こそ薄くぼんやりしているものの、明らかに『怪物』のような姿に変わっていた。 凶悪そうな腕も、そこから生えている爪もちゃんと見える。
その『怪物』が再び唸った。絵依子はそいつと何メートルかの距離を置いて対峙している。
じり、じり、とお互いの出方を伺うように、イーゼルや椅子を間に挟んだまま円を描くように回り……段々とその円の大きさが縮まっていく。
そして……とうとうその均衡が破られた!
破ったのは怪物の方だ。奇怪な雄たけびのようなものを上げながら絵依子にすごいスピードで迫る…!
怪物の攻撃を絵依子がひらりとかわす。でもヤツの攻撃はそれだけでは終わらなかった。矢継ぎ早に何度も飛び掛り、そのたびに黒い爪、そして黒い牙が教室に暗く煌めく。
絵依子もただ攻撃を避けるだけではなく、拳と足で怪物に真っ向から応戦している。
信じられないような動き……まるで踊るような動きで振り下ろされる爪を軽やかにかわしながら、一瞬の隙を突いて怪物の攻撃をパンチで打ち払い、ぐらり、と身体の流れたヤツにすかさず蹴りを見舞った!!
…それは間違いなく怪物の腹のあたりを捉えた。捉えたはずだった。
でも、確実に怪物を捉えたように見えたその攻撃は、たぶん後わずかのところで空振りに終わったようだった。ダメージも何もないように、すかさず怪物が、空振ってバランスを崩した絵依子に反撃の腕を振るう。
ブウゥ・・・・・・ッンンン!!!
「く……ッッ…!!!」
ドガアァッ・・・・・・ッンン!!!
必死の形相でそれを絵依子が受け止める。でも、殴られた衝撃で大きく
後ろに吹っ飛んでしまった!
教室の後ろに固めておいたイーゼルや椅子、デッサン用の石膏製の像が、巻き添えを食ってバラバラになり、その破片のいくつかが僕の頭をこつんと叩いた。
幸い…なのかどうなのか、絵依子はすぐに立ち上がってきた。はぁはぁと多少息が荒くなっているものの、見たところ怪我もしていないし、たいしたダメージを受けてはいないようだった。
……でも……。
「~~~~~~っ…!」
目の前で繰り広げられている異様な光景。それをまだ僕は現実のものと認識する事が出来ない。それほどこの状況は常軌を逸している。何もかもがメチャクチャだ。
…震えながら僕は思わず目を閉じ……祈った。
夢なら…夢なら早く…誰か僕を起こしてくれ!!
…ふいに、しん、と音が止み、静寂が戻った。思わず僕は閉じていた目を開いたが……悪夢は終ってなどいなかった。
さっきと変わらず、未だ「少女と化け物」は静かに対峙を続けていた。
やがて、また、じり、じりとお互いの距離が縮まっていく。
「・・・ヴるぅおぉ・・・・・・っっッっ・・・・・・っ!!!」
またしても均衡を破ったのは怪物の方だった。ふわりとジャンプしたかと思ったら、そのまま大きく口を開けて、空中から絵依子に襲いかかる。
でも、またもひらりとヤツの牙をバックステップで避けると、絵依子の反撃のパンチが今度こそ怪物の頭に当たったように見えた。
「やっ……やったッ?!」
…でも、今度もまた怪物は効いたような素振りを全く見せない。すぐに
絵依子に反撃を腕を振るう。
また空振ったのか…? でも…今のは確実に当たってたように見えたのに。
…何か違和感のようなものが僕の頭に湧き上がる。
……何かが変だ。何か…おかしい………ぞ。