11月8日-7
「……ふぅ。ただいま……」
…バイトを終えて、どうにか家に無事に帰り着いたものの、さすがに今日は
なかなかハードだった。真都と別れてから、結局ギリギリにバイトに入れた
までは良かったけれど、想像以上のお客さんの数に、ほとんど休憩するヒマも
なかったのだ。
まったく、本当に今日は疲れた………。
「おっかえり~、お兄ちゃん!」
「…うん。ただいま」
ぱたぱたと玄関まで絵依子が出迎えてくれた。その顔を見ると、少しだけ
疲れがどこかへ飛んでいくように感じる。
そのままダイニングに向かうと、いつもの出勤スタイルの母さんがいた。
「おかえりなさい。ご飯は…頂いてきたのよね?」
「うん。でも…ちょっと小腹がすいたかな…」
「私たちはもう済ましちゃったけど、少し多めに作っておいたから。また適当に
食べときなさい」
「…ありがと。後で頂くよ」
コンロの上の鍋、そしてこの匂いからすると、今日の我が家のディナーは
クリームシチューのようだ。寒空の帰り道で冷えた体には、実にありがたい。
「…それじゃ行ってくるわね。戸締りちゃんとお願いよ?」
夜も11時を少し回った頃、さっそくシチューを温めていると、ひょい、と
肩にかばんを掛けて母さんが玄関に向かった。毎度のように今日も今から夜勤だ。
「うん、行ってらっしゃい。って…母さん、その格好じゃ寒いと思うよ」
この寒空にいつもの服でスクーターは、いくらなんでも寒すぎる。せめて
コートの一枚ぐらいは上に着ていかないと、風邪を引きかねない。
まぁ、絵依子なら平気かもしれないけど……。
「…あぁ、いいのよ。今日は外科の志摩先生が迎えに来てくれるのよ。結構です
って何回もお断りしたんだけど…」
「……へぇ…?」
「でもなんかスゴイらしいわよ? 志摩先生のクルマ。ポルシェのカレラだか
カノジョラって言うんだって」
「……ふーん…」
…口ではそんなことを言いながらも、母さんの表情はどことなく嬉しそうに
見える。これからいつもの仕事だっていうのに、まるで何か楽しいことが待って
いるとでも言わんばかりだ…。
「帰りはまた朝になるから、朝ごはんはチンして食べなさい。ちゃんと遅刻
せずに学校行くのよ?」
「…しつこいな。いちいち言わなくったって、ちゃんと分かってるよ」
「あんまり夜更かしちゃダメよ。特に絵依子! テレビばっかり見てないで、
さっさと寝る事!」
「ふ…ふぇ。…分かりましたよーだ…」
母さんから軽いカミナリを落とされた絵依子が口を尖らせていると、突然
下の方からズドドドド……とやかましい、近所迷惑な音が響いてきた。
「…もう、先生ってば……。団地の外で待っててって言ったのに! じゃあ
行ってきます!」
「…行ってらっしゃい」
「いってらっしゃーーい!」
母さんが玄関を開けると、エンジンの音なのか何なのか、一層はた迷惑な
重低音が入り込み、びりびりと家の中の物が震えだした。
なんなんだ、これは。……近所迷惑にも程がある。
…ポルポルだかヘラーリだか知らないけど、そんなうるさい車がカッコいい
とでも思ってるのか。
クルマなんて綾のおじさんが乗ってるような、ガブリだかカンムリで充分
だろう。
少しして、ようやくその近所迷惑な物体が遠ざかっていったのが分かった。
二度と来るなと僕は思った。
「ふぅ…やっと静かになった。まったく…うっとおしいよな」
母さんを見送ったあと、ダイニングに戻ってシチューを入れたお椀をテーブルに
置いて、珍しく普通の文庫本らしきものを読んでいる絵依子に同意を求めた。
もちろん、答えなんか聞くまでもなく分かっている。
それでもなぜか僕は…聞くのを止められなかった。
「…さぁ? わたしはそんなにうるさく聞こえなかったけど?」
「な? そうだろ? うるさいだろ…って……えぇぇっ!!??」
……まったく予想外の返事に、一瞬僕は言葉を失ってしまった。思わず
呆然としていると、どこか意地悪い笑みを浮かべながら、絵依子が先を
続けた。
「…うるさく聞こえたのはさ、別に理由があるんじゃない? お兄ちゃんの
方に理由がさ」
「ど…どういう…意味だよ……」
「……お兄ちゃん。お母さんもね、わたしたちのお母さんの前に女なんだよ。
でもお兄ちゃんは、お母さんはお母さんのままでいて欲しいと思ってる。
それが変ってしまう、変わるかもしれないことが怖いの。嫌なの。違う?」
「……は…ぁっっ…!?」
「…お兄ちゃんはね、さっきお母さんが嬉しそうだったのが嫌だったの。だって
どう見たって、まんざらじゃ無さそうだったもんね♪ ホント、お兄ちゃん子供
みたい。くすくすくす…」
僕を見つめながら静かに笑う絵依子の横顔が……妙に大人びて見えた。
あまりに意外な言葉と表情に…思わず僕は我を忘れそうになってしまった。
「な…何を…なに分かったような口きいてるんだよ…! お、おまえこそ子供の
くせに…!」
「判るよ。わたしだって女なんだもん」
「………っっ……!」
反論しようと僕は頭をフル回転させる。
…絵依子の言ってることはメチャクチャだ。そんなことが…あるはずが…ない。
「あ……う…ぐぐ……」
…でも、結局僕は反論らしい反論を絵依子に叩きつける事はできなかった。
でもそれは真実だからじゃない。きっと、ただ単に僕の頭が悪いからに過ぎない
からだ。そうに…決まってる。
そんな言葉を失った僕を、面白そうに絵依子が見つめている。
む……ムカつく……。
「じゃ、お母さんも行っちゃったし、わたしたちもそろそろお出かけしよっか?」
無言のままシチューをたいらげ、お椀を流しに持っていった僕の背中越しに、
ぱたんと本を閉じた音と同時にそんな声が聞こえてきた。
でも、それは到底すんなりと受け入れられるものではなかった。
「………」
「もぉ。お兄ちゃん?」
「…………」
「…お兄ちゃんってば」
「………うるさいな…。バイトで疲れてるのに、付き合う僕の身にもなれって
いうんだ…まったく……」
「……なに? 何て言ったの? いま」
「………別に……」
「お兄ちゃん! ちゃんとこっち見てしゃべって!」
横を向いたまま、気のない返事を返したとたんに頭を掴まれ、僕は無理やり
絵依子の正面に向かせられた。
じぃっ、と僕を真っ直ぐに見つめるその目が…少し怖い。
「…今日はお母さんが乗っていかなかったから、またスクーターで行こうよ。
あれだったらこないだよりも範囲が広げられるし」
「………」
……「作 和夫」との戦いから10日ほどが経った。
僕たちはこれまでそうしてきたように、あれからも何度か夜の怪物探しに
出かけていた。
正直に言えば、夜に出歩く事はとても恐ろしかった。何せあの戦いの時は
僕も絵依子も死にかけたのだ。少々ビビりが入っても仕方ないじゃないか…
と思う。
でも、和夫はおろか怪物たちは、あの夜を境に……ぱったりと姿を現さなく
なっていた。
かすかに気配を捉えることはあっても、とうてい追いかけられないほど遠く
だったりで、戦いにもならないという有様だった。
だから探せる範囲を広げよう、と言う絵依子の提案はごく真っ当だとは言える
ものの、あんなに恐ろしい目にあっても止めようとしないどころか、それを口にも
しないこいつは、心底バカなのか超大物なのかのどっちかだと、つくづく呆れて
しまう他ない。
「…分かったよ。じゃあ準備してこい。下で待ってるから」
投げやりに言ってから僕はバッグを取って立ち上がった。まだ何か言いたそうな
絵依子の視線を背中に感じながら。
そう言えばここ最近、絵依子の様子が少しおかしいように感じる事がある。
いつもと同じような態度と思ったら、急にそっけなくなったり、かと思えば、
変にベタベタと僕に甘えてきたり。
そしてさっき見せたような、いやに大人びた表情…。
あの始まりの日に感じたような、まるで別人のような振る舞いを…。
「戦い」の時以外にもふいに見せる妹に、僕はとまどいを覚えることが
何度もあったことを…思い出さずにはいられなかった。
「うわ…寒……ぅっ…っ!」
外はかなり、いや、猛烈に寒かった。いちおうジャンパーを羽織って出た
ものの、さっきの帰りの時よりも明らかに寒い。
昨日降った雨のせいか、ここ数日でまた急に冷え込んできた感じがする。
思わずぶるぶると震えながら駐輪場に降りた僕は、スクーターを道に出して
絵依子を待った。
ひんやりどころか、肌に突き刺さってくるような夜の冷気に晒されていると、
不思議にさっきのイライラも次第に薄れていった。
冷静に思い返してみれば、いくら予想外の言葉を浴びせられたからって、
さっきの僕の態度は…あまりに大人気なさ過ぎる。
絵依子…妹を相手にあんなにムキになるなんて…まったくどうかしてたとしか
言いようがない。
あいつの言う通り、本当にまだまだ僕は子供だな…。
もっとしっかりしなくちゃ…。
「…お待たせ。お兄ちゃん」
などと考えていると、ようやくいつもの格好に着替えてきた絵依子が駐輪場に
現れた。
「よ~~し! じゃあ今日もかっ飛ばすぞ!! 振り落とされるなよ~?」
絵依子の顔を見た途端、急に気恥ずかしくなった僕は、さっきまでのことが
無かったかのように、わざと明るく大げさに振舞いながらスクーターに飛び乗った。
「え…う、うん…。ま、任せてよ、お兄ちゃん! あはははは!」
一瞬戸惑ったような顔をしたものの、すぐに絵依子も僕に合わせ、ぴょんと
スクーターに飛び乗ってきた。
もう一人分の体重が、しっかりシートの後ろにかかったのを確認してから、
僕はエンジンをかけ、勢いよくアクセルを回した。
一瞬だけ前のタイヤをふわりと浮かせて、僕たちを乗せたスクーターは弾かれた
ように道路に飛び出していった。




