10月15日-1
-10/15-
ピンポーン……
「おはようございます。今日もまだ…ですよね?」
「はーい、おはよう! 毎朝毎朝ごめんなさいねぇ…綾ちゃん。ほら、さっさと支度しなさい! あんたたち!」
「あ…あと2分らけまっふぇ~~!」
…まったく変わり映えしない、いつもの光景を今朝も僕らは繰り広げていた。バタバタ右往左往している僕たちを見て、母さんがため息をつきながら苦笑している。
……今日が夜勤だからって、自分一人だけ優雅にモーニングティーなどを嗜んでいる母さんがちょっとだけムカつくというか、正直うらやましい。
「はぁはぁ…、お、お待たせ! じゃ行こうか、綾」
「ちょ! ちょっと待ってよ~! お兄ちゃん~!」
「あんたたち、ちゃんと鍵とお弁当持った? 晩ご飯はカレーしておくから暖めて食べなさい。サラダも冷蔵庫に…」
「判ってるって! それじゃ行ってきまーす!」
「いってきまーーーす!」
がちゃり、と玄関の扉を開け、いつものように僕らはどたばたと家から飛び出したのだった。
「…ふぅ。今日も何とかギリギリ間に合いそうだなぁ」
歩きながらケータイで確認すると、時刻はだいたいいつもの通りだった。今朝急に思いついたことがあって、それの準備に少々時間を取られたのでほんの少し遅れてはいるものの、それでも普通に歩いてても遅刻とまではいかない、絶妙な時間だ。
「エコちゃん…髪がちょっとすごいかも…」
「ふぁぁあ…。きょ、今日はさ、ちょっと時間無くって…」
大きなあくびをしながら、絵依子がごにょごにょと口ごもりながら綾に答える。いつもはそれなりにきちんと纏められてる絵依子の髪の毛も、今日はとりあえず括っただけ、という感じだ。
もっとも、それも当然と言えば当然なのだけど。
「…今日は、じゃなくて今日も、だろ…。まったく毎日毎日、いい加減にしろよな」
「うっさい! お兄ちゃんがちゃんと早起きすれば、わたしだってもっと早く起きれるんじゃん! と、ゆーことはお兄ちゃんのせいじゃん!」
…いい歳して一人で起きられないのを、よりによって僕のせいにするとは。
わが妹ながら、どこまで他力本願に出来てるんだ。このバカは。
「はぁ……。あんな時間まで起きてたら、そりゃ朝も起きられないに決まってるだろ。子供じゃないんだから少しは考えろって」
「エコちゃん、昨日もまた深夜番組? そんなに遅くまで起きてたの?」
くすくすと笑いながら、綾がかばんから取り出した櫛を絵依子に差し出した。それを受け取り、前髪をすかし始めた絵依子が、う~とかむ~とか唸っている。
「…そんなに夜更かしなんてしてないよ。ちゃんと2時ぐらいには寝たもん!」
ようやく少しはマシになった髪をさらに手で撫でつけながら、絵依子が口を尖らせて僕に食って掛かる。でも、僕はそれがウソだと知っている。
「…まーたそんな見え透いたウソを。だって昨日の夜中、おまえ、部屋にいなかっただろ」
「……! そ、そっちこそウソだよ!! ちゃーんとお風呂入って、2時過ぎにはお布団に入ったもん!」
「……?? じゃあ、やっぱりおしっこにでも行ってたのか? ちゃんと寝る前に済ましておかないから…」
「だから! 女の子にそおいうこと言うなー! バカ!!」
「あだだだだっ! ちょっ! ひゅ、ひゅトップ!」
言うが早いか、絵依子が僕の頬っぺたをギリギリとつねりあげた。怒るとすぐに手が出るのがホントのホントに絵依子の悪い癖だ。
……その被害者がもっぱら僕だけというのがなお辛い。
「…でも、ホントに深夜番組なんか程ほどにしろって。ちょっとは綾を見習えよな」
「え? わ、私なんて見習っちゃダメだと思うよ…?」
たぶん真っ赤になっている頬っぺたをさすりながら、つい出た僕の言葉をわたわたと綾が否定する。
まったく、昔からいつも綾はこうなのだ。万事控えめというか変に消極的というか。もっと自信を持ってもいいはずなのに、いつもこうだ。
「わ…私なんて…ほんとにダメだよ。せ、成績だって今がたまたま良いだけで…もっとちゃんと勉強してる子もたくさんいるし…」
「そんな事ないよ。いつも早寝早起きで朝もしゃっきり。おまけに小学生の頃から毎日、予習復習まで完璧。まったく、同じ女で同い年なのに、どうしてここまで差があるのか…。神様も残酷だよなぁ…」
そう言いながら、ちらり、と僕は横目を流す。
「ひ、人をそんな哀れむような目で見るなあぁーーーーっ!!」
メギィッッイ……!!
「うぐぉ…お…おぉ……っ…!」
……い、今のは効いた。
余りに見事な角度で、絵依子のニューブローが僕のみぞおちを捉えた。
ここまでの威力はちょっと記憶にないほどだ。妹の成長に熱いものが込み上げてくるのを抑えられない。
というか、いま熱く込み上げてくる物の正体は、朝に食べたご飯と玉子焼きだったりするのだけど…。
「うぉ……おえぇぇっ……」
「ふん! そのまま死ね! バカ兄貴!」
「ちょっ…エコちゃん…だからやり過ぎだって……」
「ふん! あーやは甘い! だいたい、お兄ちゃんはテレパシーが無さ過ぎるの!」
「そ…それを言うならデリカシーだろ…うぷ……」
「うっさい! あーや! こんなのもう放っておこ!」
言うなり、絵依子が綾の手を掴んで、たったと駆け出していった。そのまま綾も引きずられるようにして、僕から遠ざかっていく。
「しゅ、瞬くん~…! ご、ごめんね~……」
……そして、あっという間に二人の姿は、僕の視界から消えていった…。
…気を抜けばたちまち口までこみ上がってきそうになるモノを必死に抑えながら、僕も少しだけ早足で校門へと急いだ。
なるべく胃に振動と負担が掛からないようにして…。
がらがらがら……
廊下で先生を追い抜き、何とかギリギリで僕は教室に滑り込んだ。まさしくタッチの差、と言うタイミングだ。危ないところだった…。
「いよーぅ渡城。今日はまた一段とギリギリだなー」
…クラスメイトの朝の挨拶に、僕は青ざめたまま、にっこり微笑み返しをするのが精一杯だった…。
・
・
・
・
・
・
・
キーンコーン…
カーンコーン…
いつものように4時間目までをやり過ごし、ようやくお昼の時間になった。
これまたいつものように、女子が仲良しグループごとに机をくっつけ始めると、わいわいと教室がにわかに活気づいてきた。
「さてと…どうするかなぁ……」
…ふと窓の外を見ると、絵に描いたような秋晴れの空が広がっていた。あまりに見事な光景に、僕は思わず弁当をひょいとつまみあげ、教室を後にした。
・・・がちゃり。
乾いた音を立てて扉を開けた瞬間、僕は後悔した。
「……しまったかな……」
開いたのにしまったとは、こはいかに。
などと愚にもつかないことを独りごちた僕を待っていたのは、教室以上の騒がしさに包まれた屋上だった。
まぁ…僕が考える事ぐらい誰だって考えるって事か。
にぎやかにあちこちで盛り上がってるお昼の光景を見ながら、僕は教室に戻るべきかどうか迷う。
「…あれ?」
…退くべきか退かざるべきか。大勢の人で賑わっている屋上を見渡しながら思案していると、ふと意外な人物が目に留まった。絵依子だ。
どういう訳か、隅っこの方でつまらなさそうに、黙々と箸を動かして、一人ぼっちで弁当を食べているようだった。
「…おまえ、こんなとこで何してるんだ?」
「ふぇ……?!」
つい側に寄って声を掛けたとたん、びっくりした様子で絵依子が顔を上げた。というか、驚いたのはむしろ僕の方なのだけど。
「何って…見たら判るじゃん。お弁当食べてるんだよ。お兄ちゃんこそ何してるの?」
「僕もだ。教室も学食もうるさいし、天気もいいからここならと思って来てみたんだけど…」
「ばっかだよお兄ちゃん。こ~~んないいお天気の日の屋上なんか、人いっぱいに決まってるじゃん」
隣に腰を下ろしながら、ふぅ、と少し大げさにため息をついた僕を見て、けらけらと絵依子が笑う。
「…おまえ、よく一人で来てるのか? 屋上」
「え? うぅん、きょ、今日はたまたまだよ。…えっと…いつもいっしょに食べてる子が休みだったから」
そこまでを言うと、ぷい、と下を向いて、絵依子が食べかけの弁当に箸を戻した。僕も自分の弁当の蓋を取って、絵依子と同じ中身の昼ごはんを突っつく。
白ご飯に鮭の切り身、玉子焼きにほうれん草のおひたしと、何か……得体の知れない肉とピーマンの炒め物だ。
昨日タイムセールで絵依子が買ってきた、お雑煮ならぬお惣菜か…。
けっこうな分量のピーマンにちょっとだけ気持ちが重くなりつつ、とりあえず鮭をほぐしながら僕は続けた。
「へぇ…。でも、それなら綾でも誘えば良かったのに」
「……誘おうと思ったんだけど、教室に行ったら、もう居なかったんだよ。あーや」
「…そっか、綾とはクラスが違うんだったよな」
「そっ。だからついでに屋上まで来ただけだよ。そんだけ」
「ホントか? おまえ…実は意外と友達少ない、哀しきロンリーガールなんじゃ……?」
僕のセリフに、ぶほっ、と絵依子が咳き込む。
「ちょっ! ヘンな事言わないでよ! わたしは地味でメガネでどん臭いお兄ちゃんとは違うんだからー!」
「…失礼なヤツだな。僕にだって友達ぐらいそこそこいるんだぞ」
「どうだかね~。ホントはいつもお兄ちゃん、トイレとかでご飯食べてるんじゃないの? なんかそんな感じする!」
「お…おまえ…僕をそんな目で見てたのか……」
……なんだかお兄ちゃんは泣きたくなってきたぞ…。
「…っていうかさ、お兄ちゃんの方こそ、哀しい人生送ってるんじゃないの~? いい年して彼女の一人もいないんだもん。それとも……もしかしてお兄ちゃんって…、女の子に興味ない人?」
ニヤニヤと意地悪そうな笑みを絵依子が浮かべる。
その言葉、すべての健全な男子高校生に対する、宣戦布告と受け取った!
すかさず僕は無言で、弁当に入ってたピーマンをぽいぽいと絵依子の弁当に放り込んでやった。
「ちょっ! ダメだよ! ちゃんと食べなきゃ!」
「妹思いな兄貴からのささやかな贈り物だ。受け取ってくれ」
「ダメだってば! 野菜食べないと大きくなれないんだよ!」
「だったらなおさら、おまえは僕よりたくさん食べなきゃなー。ほらほら
遠慮するなって」
「もーー! いい加減にしないと……お母さんに言いつけるよ!」
「…うぐっ…!…」
絵依子の言葉に、一瞬身体が恐怖で硬直した瞬間、僕の天敵であるピーマンの野郎は全部……と言うか、むしろ少々増えて帰ってきた。
「あの……絵依子さん……?」
「……………」
ちょっぴり上目遣いで絵依子の顔をうかがってみたものの、明らかに「さぁ食べろ今食べろすぐ食べろ」と目が語っている。
……鬼だ。子鬼がおる。
「…判りましたよ…食べればいいんでしょ、食べれば。……はぁ…」
息を止めて目を閉じ、精神を集中する。嫌いなものを食べる時の僕の儀式だ。
そして一気にヤツらを口に含む!
・・・・・・ゴクン。
……何とか、ようやく、かろうじて、僕はピーマンを胃袋に送り込むという難ミッションをクリアした…。
「うん、大変よく出来ました♪ お兄ちゃんもやれば出来る子なんだから」
ピーマンをどうにか平らげた僕の頭を、ぽふぽふと絵依子が叩く。
うっかり弱味を見せた時だけは、兄である僕のことを子供扱いするんだから、まったく妹っていう生き物はタチが悪い…。
「…でさぁ、さっきの話だけど…ホントのトコどうなの?」
……さっきの話…とは…何だっけ?
あぁ……、僕が女の子に興味があるのか無いのか、ってやつか。
「ばーか、そんな訳ないだろ」
口直しに玉子焼きを頬張りながら、僕は至極真っ当かつ穏当な答えを返した。
だいたい彼女がいないだけでゲイだのホモ扱いだなんて、その発想の方がおかしいだろ。常識的に考えて。
もしそうなら、うちの高校の男子生徒は8割方はゲイってことになる。ここはホモホモパラダイスか。誰得なんだその設定は。そんな訳あるか。
「じゃあじゃあ、どんな娘がお兄ちゃんのタイプ? アイドル…タレントは……どうせ知らないか。じゃあ例えば……あーやなんかは?」
「綾? うーん…あいつも妹みたいなもんだからなぁ。…正直ピンと来ない」
「ふぅん…そっかぁ…そうなんだ・・・」
絵依子がなんだか困ったような笑ったような表情で、ご飯を口に運ぶ僕をじっと見つめている。しかし、こいつなりに僕の事をいろいろ心配してくれているのかもしれないけど、そこでどうして綾なのか。何を考えてるのかほんとにさっぱりだ。
「…って言うか、だったらおまえの方こそどうなのさ。おまえだって彼氏とかいないだろ?」
言われっぱなしでは悔しいので、とりあえず僕も反撃してみる。
「ふぇ…、わ…わたし? ……お兄ちゃんがもう少しちゃんとしてくれたらねぇ…。今は心配でそれどころじゃないよ…」
「…おまえに心配されるほど、僕は落ちぶれちゃいないぞ」
「へ~~? ホントかなぁ~~?」
などと言いながら僕の顔をじっと見つめ、大げさなため息を一つついたかと思ったら、絵依子の手が…突然こっちに伸びてきた。
ふっ、と僕の頬っぺたに、その小さな指が触れる。
「……? …?」
すぐに離れたその指には…ご飯が一粒くっついていた。
「ね? いっつも偉そうに兄貴風ふかす癖に、肝心なとこでお兄ちゃんって子供みたいなんだからぁ…」
ぱくり、とご飯粒を口に入れた絵依子がくすくすと笑う。
…僕は……兄貴としての威厳が、ガラガラと崩れていく音を聞いたような気がした…。
「…お心遣い、痛み入ります。まぁでも、もしおまえに彼氏が出来たら、その時はちゃーんと紹介してくれよ? …そんな物好きがいたら、の話だけど。はっはっはっ!」
「はぁ?! 何それ!!?? わたしは作ろうと思ったらカレシの一人や二人ぐらい、今日にだって出来るんだからー!!!」
気恥ずかしさを誤魔化すように、僕はわざと大げさに笑った。それを本気にしたのか、頬を膨らませて絵依子がぷりぷりと僕に抗議する。
そんな姿がおかしくて楽しくて、そしてちょっぴり…僕は切なくなった。本当にもっともっとしっかりしないとな…。
がんばろう、僕。
せめてピーマンぐらい楽勝で食べられるように。
「…ねぇお兄ちゃん、次の授業は?」
「なんだっけな。体育だったような気もするけど」
「それはそれはご愁傷様。窓からお兄ちゃんのブザマな姿をとくと拝見♪」
「あのさ……僕が言うのも何だけど、真面目に授業受けろよ…」
すっかり弁当も食べ終え、絵依子と他愛も無いやり取りを続けていると、ふいに頭の上から声がした。
「あれ、渡城じゃん。珍しいなー。っつーか、彼女とラブラブ弁当タイムかよー。いつの間にこんな可愛い子とデキたんだっつーの?」
…にやにやと笑いながら現れたクラスメートの谷口くんに、思わず僕も苦笑しながら答える。
「…あのね、こいつは僕の妹。確か前にも会ったろ?」
「そうだっけか? ふーん、まぁいい。だったらよ…紹介してくれよ! お・に・い・さ・ま!!」
「お、さっそくのチャンス到来のようだぞ、絵依子?」
「…………おととい来やがれ、みたいな?」
「だって。お帰りはあちらです」
「おっ…お前ら……あんまりだ~~~!!」
冷たく無慈悲な絵依子のセリフと、それのフォロー一切無し、という僕らのコンビネーションは、破壊力抜群だったらしい。
…泣きながら屋上を後にしていった谷口くんの姿に、悪いと思いながらもつい僕たちは顔を見合わせながら笑ってしまった。
くすくすと笑う絵依子の長い髪がさわさわと秋風に揺れる。そんな目の前の風景に僕は……なぜか一瞬どきりとしてしまった。
…ずっとこうしていたい。そんな思いに一瞬囚われそうになったものの、少しして鳴り響いた、休み時間の終りを告げるチャイムが、僕を現実に引き戻したのだった。