10月14日-3
「は……くしゅんっっ!!!」
…こんなホコリまみれでカビ臭いところに長くいたせいか、自分でもびっくりするぐらいの大きなくしゃみが出た。さっきからの悪寒もまだ治まりそうにないところを見ると、もしかしたら風邪でも引いたのかもしれない…。
ふと見ると、かすかに揺らいでいたカーテンは、今も少しだけ動いていた。締め切られてはいても、この教室のことをよくよく考えてみれば、案外そうおかしなことでもない。
…なるほど、とうとう隙間風まで入るようになったか、と僕は思わず苦笑してしまった。
そのまま窓の外にも目を向けると、外はすっかり夕暮れ時の色に染まっていた。いったい何時間ここにいたのかと、我が事ながらちょっと呆然としてしまう。
「確かに…あいつの言う通り、ぼんやりしすぎだろ、僕……」
思わずそう独りごちて、僕は再び扉と格闘し、急いで美術室を後にした。
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学校を後にして駅前のアーケードを抜け、階段を上って反対側に戻る。てくてくと歩き慣れたいつもの道を通り、僕は足早に家路を急いだ。
体調不良は不思議と治まっていた。やっぱり原因はあのホコリのせいだったんだろう。
僕たちの団地の近くにある商店街にさし当たった時、スーパーから見慣れた人物が出てきたのが見えた。夕暮れ時の薄明かりでもそれが誰かははっきりと判る。
「あ! お兄ちゃん、遅いよ!! こんな時間まで何してたの!?」
それは絵依子だった。確かゴスロリ……?とかいうファッションに身を包んだ妹がそこにいた。
…長ネギやら大根やら牛乳のパックが入った買い物袋……、いわゆるエコバッグを手にぶら下げて。
「おまえこそ…そんな格好で何やってるんだ…」
「何って…見たら判るじゃん。お買い物だよ。忘れ物したから買ってきてって言われたんだよ。お母さん、今ご飯作るので手が離せないから」
「いや……僕が言いたいのはだな、近所の買い物に何でわざわざその格好するんだと…」
この 『ゴスロリ』 とやらは、絵依子のほぼほぼ一張羅だ。だから外出する時はいつもこの格好なのは知ってるけど、何も近所の買い物の時まで着るなんて…。
「…お兄ちゃん知らないの? 女は外に出ると7人の敵がいるんだよ。ちゃーんとした格好してないとダメなんだよ?」
「そりゃ男で、しかも11…いや、12人だったっけ…。まぁいいや。ほら、持ってやるから」
正直言って、ゴスロリに長ネギがにょろんと生えているエコバッグ、という組み合わせは、あまりに絵的にシュール過ぎる。綾がいうところのエコちゃんだけに、エコバッグがよく似合っている……とは微塵も思わない
…おしゃれなバスケットにフランスパンなら、まだ少しは格好がつくんだろうけど、ネギと大根じゃなぁ…。
「わ! やったーらっきー! お兄ちゃん大好きー!」
「はいはい……それはどうも。でもこれ、買い足しにしちゃ妙に重いなぁ」
「あ、タイムセールでね、半額とかあったから、ついでにいろいろお雑煮買ってきちゃった。明日の朝とかお弁当にどうかなぁって」
「お雑煮って…それを言うならお惣菜だろ…。でもなるほどね。それじゃ母さんも待ってるだろうし、さっさと帰ろう」
すっかり日の落ちた道を、また僕たちは歩き出した。とは言え、この格好の絵依子と並んで歩くのはさすがにちょっと抵抗がある。
ついつい早足になってしまう僕を追いかけるようにして、ぶーぶー言いながら絵依子が後に続いていた。
「あら、渡城さんとこの。お使いとは偉いわねぇ。うちの息子ときたら働きもせずにパチンコばっかり行ってるっていうのに…ほんとにもう…」
団地の敷地まで帰ってきたところで、近所に住む山口のおばさんに声をかけられた。あわてて僕は会釈し、次いで絵依子の長いお下げも揺れる。
「あ、こんばんわ。でもいいじゃないですか。引きこもるよりはパチンコの方がまだ健康的ですよ」
「…うんうん。休みの日は引きこもって絵ばっかり描いてるお兄ちゃんが言うと、妙に説得力あるよね~~☆」
…絵依子のツッコミに、僕は軽い苛立ちを覚える。少し前までは確かにそうだったかもしれないが、今は違う。違うんだ。
「え…お、おい、絵依子……!」
「そ、そういうものなのかしら…。あら、そういえば絵依子ちゃん、相変わらず可愛い格好ねぇ!」
「えへへ……、ほらほら! 可愛いだって! お買い物だってホントはわたしが行ってきたんですよー」
すかさず絵依子が僕からバッグを奪うように引っ手繰って、得意げにえへん、と胸を張るその仕草に、また僕は軽くイラッとしてしまう。
「あまり言わないで下さい。そんな事言われると、ますます調子に乗りますから。こいつ」
ぱしぱしと頭を叩きながらバッグを奪い返し、僕らは山口さんと別れてまた家路についた。
さらに途中、同じ団地の藤原のおばさんや金田のおじいさんに声を掛けられてしまったので、その度に似たような世間話を繰り返す。
バカの割に言葉遣いだけは母さんがしっかり仕込んできたせいか、ご近所での絵依子の評判は意外にもそれほど悪くないらしい。もちろん綾に比べれば月とスッポン、比べる方が間違っている、というレベルなのだろうけど。
エンドレス世間話から開放され、ようやく我が家のある棟が見えてきたところで、僕は絵依子の腕を少し強く引っ張った。
「おい……あんまり変なこと、ご近所さんに言うなよ」
「……? 変な事って?」
のんきに鼻歌交じりに歩いている絵依子に、僕は改めて釘を差しておこうと思った。案の定、絵依子は何のことか分かっていないようだったからだ。
「…僕が休みのたびに引きこもってるとか、絵を描いてるとか、今はもう、そんなことしてないだろ」
「…そうだっけ? でも休みの日はずっと家にいるじゃん。似たような……」
「いいから余計なこと言うなって!」
思わず僕は声を荒げてしまう。僕のその声に、びくり、と絵依子が体を強張らせたのが見て取れた。
「……わかったよ。でも怒ることないじゃん……」
不満げに口を尖らせながら、絵依子がしぶしぶ同意の言葉を口にした。もっとも、本当に判ってくれたのかは神のみぞ知る、だけど。
「ただいまー」
「たっだいまーー!」
「……おかえんなさい。って言うか絵依子! あんたは買い物一つに何時間かかってるの?!」
勢いよく玄関を開けた途端、かすかな煙と香ばしい匂いが、僕の鼻の奥をくすぐった。
と同時に、扉の向こうで待ち構えていた母さんの、特大のカミナリがいきなり絵依子に落ちた。
「ふ…ふぇ…?! だ、だって……、いろいろ買ってきていいって……お、お母さんが言ったから…わたし…」
母さんのカミナリに、絵依子が言い訳の言葉を切れ切れに絞り出すように口にした。でも、見る見るうちにその表情が、泣きそうなものに変わっていく。僕のさっきの言葉もたぶんまだ残っているところにこれだ。気が強い割に打たれ弱い絵依子には、この時間差コンボはちょっとキツイかもしれない。
これは…仕方ないな…。
「ま、まぁまぁ母さん。絵依子だって悪気があって遅くなったんじゃないしさ。明日の朝、母さんが楽できるようにって、お惣菜を買ってきたみたいだし。もしかしてタイムセールになるまで待ってたのか? 絵依子」
とっさに出た僕のフォローに絵依子が小さく頷き、ふわりと後ろ髪のおさげが揺れた。
実際、我が家の財政状況を考えると、例え1円10円でも、切り詰められるところは切り詰めなきゃいけない。それを考えれば絵依子のした事は、それほど責められるべき事じゃないはずなのだ。
「それにさ、帰りに金田さんたちに捕まって、それのせいで遅くなったのもあるんだ。僕も一緒だったから間違いない。本当だよ」
僕の説明に納得してくれたのか、ふぅ、とため息をついた後、ようやく母さんの口元に笑みが戻ってきた。
「…そう。それじゃ仕方ないわね…。母さんもちょっとキツく言い過ぎたかしらね。ごめんね。絵依子」
「うん…、でも……、わたしもごめんなさい。遅くなっちゃって…」
「ふふふっ。もういいわよ。ほら、早く着替えて手を洗ってらっしゃい。その間に温めなおしておくから」
おずおずと謝まる絵依子に母さんが笑顔で頷き、エコバッグを受け取ってダイニングに戻っていった。とりあえずはこれで一件落着かな…。
「えへへ…。お兄ちゃん…ありがと」
照れくさそうな小声で僕にそれだけ言うと、お先に、と言わんばかりに絵依子が寝室に駆けていった。
やれやれ……まったく世話の焼ける妹だよ…。
「「いただきまーす!」」
僕と絵依子の声と、ぱん、と両手を揃えた音がきれいにハモった。すっかりいつも通りに戻った絵依子は、さっそくテーブルの上のサンマの塩焼きに目を輝かせている。
「サンマ美味しい~! やっぱ春はサンマよね~~」
「おまえ…今はもう秋だぞ」
「そ、そうだった! では改めて! 秋はやっぱりサンマよね~!」
たっぷりの大根おろしに醤油をかけ、それとサンマを一緒に頂く。絵依子の言うとおり、実にこの上なく秋の味覚、といった感じの夕食に、僕たちは舌鼓を打っていた。
さっき絵依子が買ってきたネギたっぷりの味噌汁をすすりながら、あっという間に僕は半分以上を平らげてしまっていた。
一方、隣の絵依子はと言うと、まだ3分の1、いや、4分の1も食べれていない。
「くく…くっ……!」
人のことをどん臭いなどと言ってくれるくせに、こいつの手先の不器用さはかなりのものだったりする。
こういう、箸を巧みに操らないといけない食事は大の苦手だ。今も必死に小骨を取ろうとしているけど、案の定なかなか上手く行っていない。
「ほんとに絵依子は不器用ねぇ…。やっぱり私に似ちゃったのかしら…」
そう言いながら、母さんもぎこちなく自分のサンマの小骨に悪戦苦闘している。もちろん絵依子よりはずいぶんマシとはいえ、母さんも正直いって器用な方とは言いがたい。
それに対して僕はと言うと、華麗な指さばきで箸を操り、小骨という小骨をさくさく排除し、どんどん食べ進めていた。
もちろん取った小骨は大骨とまとめて洗ってすり潰して炒って、ごま塩と合わせることで明日のご飯のふりかけにクラスチェンジする。我が家の辞書に『生ゴミ』という言葉は存在しないのだ。
「絵依子も母さんも鍛え方が足りないんだよ。ふっふっふ」
「そうねぇ……瞬弥はそのへん器用よねぇ。やっぱりあんたはお父さん似なのかしら。あの人も絵が上手だったし……」
そこまで言ってから、母さんが、しまったと言う顔をしたが、僕は聞こえなかったフリをしてやり過ごした。
僕がもう絵を描かなくなったことは母さんには言っていないし、母さんも聞いてきたりはしない。だけどたぶん…いや、絶対に知っているんだろう。母さんはそういう人だ。
「うっさいなぁ…。ちょっと指が器用ってだけでえらっそーに。絵だってわたしは描けないんじゃなくて描かないだけなの!」
本人はそう言って譲らないが、実際絵依子は絵が大の苦手だ。名前に「絵」の字が入ってるくせに。
少し前に、絵依子が描いたとおぼしき絵が、机の上に何枚か置き忘れてあったのをこっそり見たけれど、まぁひどいものだった。
羽が生えたシロクマみたいなのとか、子供が描きそうなぐるぐるお日様とか、他にもミミズがのたくったような線の、ちょっとした前衛芸術と言っても通用しそうな絵ばかりだった。
「何ていうかさ? お兄ちゃんにはそれぐらいしか取り柄がないんだから、妹のワタシとしましては譲ってあげてる訳ですよ? 立ててるんですよ! 兄を! ああもう、腹立つなぁ!」
まるっきり言い訳にもなっていない事をぶつぶつ言いながら、絵依子とサンマの仁義なき戦いは、いつ果てるともなく続いていた。魚類と人類の意地と尊厳を賭けた、まさに待ったなし大一番だ。内容的にはどうしようもない泥仕合ではあるけど。
そんな絵依子の様を見ながら、母さんが少し困ったように笑う。
「…絵依子もあの人の子供なんだから、やれば出来ると思うんだけどねぇ。ほんとに器用だったのよ。テレビでもなんでも壊れたら自分で直してたし」
「…父さんってお医者さんだったんでしょ? 医者が不器用じゃ怖すぎるって」
僕の言葉に二人が大笑いする。釣られて僕も笑いながら、テレビの上の写真立てにふと目が留まった。
まだ父さんが生きていた時に撮った、僕たち家族の写真。4人で写っている唯一のものだ。
母さんに抱かれた絵依子、そして僕も白衣の父さんに肩車されて写っている。
それはもう10年よりもっと前の、色あせかけた写真。
…父さんが死んでから、母さんは女手一つで僕たちを育てるため、看護師の資格を取って働き始めた。でも、病院の仕事というのは、夜勤やら残業で時間がものすごく不規則で、こんな風に3人でテーブルを囲めるのは、一週間のうち、ほんの数日だけなのだ。
だから母さんがいる日は、せめて夕食ぐらいは皆で一緒に食べれるように、早く帰るのが僕たちの暗黙のルールなのだった。
夕食の後は、僕たちはそろってテレビの映画を見た。
「ファイティング・ニモ」とかいうアニメで、内容はと言えば主人公の魚がサメやシャチと戦い、海の支配者から自由を取り戻す、という感じだった。フルCGで描かれた迫力満点の戦闘シーンが当時話題になったらしい。
『やらせるかーーーーっ! そこぉっ!』
『うぉぉっ! ニモーーーーっ! お前は…おれの……』
『この俺の体! 皆に貸すぞーーーーっ!!』
ドォォォーーーーーーーッン!!!
「……………んん……?」
ぼんやり見ていたつもりが、気がついたら終わってしまってた。
たぶん途中で寝ちゃったのだけど、それはどうやら絵依子も同じだったらしい。来週の予告が始まったテレビをぽかんと見つめながら、あれ?とか言っている。
「さ、そろそろお風呂入ってらっしゃい。明日は母さん、夜勤だからね。先に布団敷いて寝ちゃいなさい」
僕らがうたた寝している間に、お風呂を沸かしてくれていたらしい。母さんにせき立てられるようにして、のろのろと僕は風呂場へと向かった。
かけ湯もそこそこに、沸かしたての一番風呂に浸かると、今日一日の疲れがするするとほどけていく。
「ふぅ…。…極楽極楽……」
あまりの気持ちよさに、鼻歌のひとつでも出そうになっていると、突然すりガラスの向こうから、なにやら不機嫌そうな声が聞こえてきた。
「…気持ちいいのは結構だけどさ、洗濯機に勝手にパンツ入れないでって、いつも言ってるでしょ!! このバカ兄貴!!」
「…なに見てるんだよ。えっち」
「えっちとか言うなーーーーっ!! バカっ!! だ、出しとくから自分で洗ってよね!」
風呂場の扉がほんの少しだけ開き、そこからぽいっと僕のパンツが投げ捨てられるように入ってきた。
どうせ洗剤で奇麗になるっていうのに、いったい何が気に入らないんだろうか。まったく福沢くんの言う通り、妹っていうのは理解しがたい生き物だ。
でも。それでも、僕はあいつのことを大事に思ってる。
だって絵依子は僕にとってかけがえのない、たった一人の……存在なのだから。
上がりしなにパンツをもう一度洗濯機に放り込み、制服のワイシャツの下に隠して、そのまま僕は何食わぬ顔で居間に戻ったのだった。
お風呂から上がった後、僕は寝室を少しの間独占させてもらい、今日出た宿題を片付けるべく、机に向かっていた。特に現国の宿題だけはやっておかないと、今度こそ山田先生に殺されるかもしれない。
それに、これでも僕は現国は得意な方だ。とりあえず漢字の書き取りから始めるとしよう。
「ふ……うぅぅ……っんっ……、今何時だ…?」
……少しして、一段落した宿題から意識が戻ると、僕はうん、と小さく伸びをした。ダイニングからはテレビと絵依子と母さんの、けらけらとした笑い声が聞こえてくる。
「まったく…飽きもせずによく見てられるもんだ……」
思わずそう独りごちる。
「ほら絵依子、あんたもそろそろお風呂入りなさい」
「これ終わったら入るー。あ、次は『水曜から夜更かし!』かぁ。それ終わったらー」
「んもぅ…母さん先に入っちゃうわよ?」
「うん。わたし最後でいいよー」
呆れていいのか感心していいのか、ふすま越しに漏れ伝わってきた絵依子の言葉に、さすがは絵依子だと思わずため息が出る。まったく、どんだけテレビっ子なんだ、あいつは。
時計の針はもう0時を軽く過ぎている。僕はノートとプリントをしまい、押入れから布団を出した。続きはまた明日にするとしよう。
さっそく布団に潜り込み、その暖かさと今日一日のそれなりの充実感に包まれていると、すぐに眠気が襲ってきた。
…そして僕は、あっという間に…眠りの国へと吸い込まれていった。
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「ん……んん……」
…ふいに夜中に目が覚めてしまった。さっきテレビを見てる時に居眠りしたせいか。
「ん……あれ…?」
カーテンから差し込む、ぼんやりとした月明かりに薄く照らされた室内の様子に、僕は…小さな異変を感じた。
隣にいるはずの絵依子が……いない。
もぬけの殻の布団の向こうでは、母さんがすーすーと寝息を立てている。
……ふと寝室の襖の隙間から、かすかに明かりが漏れているのが見えた。
トイレか、あるいはまだテレビでも見てるんだろう。静かなのは、ヘッドホンでもしてるのかもしれない。
「……ほんとにしょうがないヤツだな。もう…知らないぞ……」
…それ以上を考える事なく目を閉じていると、再びゆっくりと僕は…まどろみの中に落ちていった。