10月21日-5
「だ…誰って…、絵依子だよ、絵依子。意外に余裕あるんだな。そんな冗談いうなんてさ。ははは…」
一瞬、綾の言葉が理解できなかった僕は、思わず苦笑しながら頭を軽く小突いてやる。
「え…? …えっ…と、えいこ……、エコ……ちゃん? あ…エコちゃんも…来てくれてたんだ…ありがと……」
「もぉー。えっと、はヒドイなぁ~。あーやってば!」
「……ご、ごめんね…。今……コンタクトしてなくって…よく見えないの…」
「なぁーんだ、そっかぁ。あははははっ!」
おかしそうにけらけらと笑う絵依子と交代するように立ち上がった僕は、ふと本棚に置いてある写真立てに目が留まった。
我ながらムカつくほど生意気そうな子供の頃の僕と、今と同じく大人しそうな綾が公園で並んで写っている写真だ。
「懐かしいなぁ……。これって何歳ぐらいの時の写真だっけ?」
思わず手に取り、振り向いて綾に見せようとしたものの、いつの間にか……綾はすぅすぅと小さな寝息を立てて眠っていた。
でもその寝顔は真っ青で…かすかに胸が上下していなければ、まるで死んでいるようにすら…見える。
…こんな綾の姿を見ていると、過労だなんて話は…とても信じられない。だいたい、前日まであんなに元気だったじゃないか。
いったい…綾に何があったんだ? こんなことは普通じゃありえない…!
「………ッッ!?」
瞬間、僕の頭に……恐ろしい考えが沸き起こった。
だったら…普通じゃありえないのなら、普通じゃないことが起きたんじゃないのか…。「普通」じゃ考えられない何かが……綾の身に起きたとしたら……?!
「…まさか……」
ふいにからりと襖が開いた。ようやく立ち直ったらしいおばさんが、僕たちの飲みさしのコーヒーを持ってきてくれた。
「…さっき眠ったみたいです。僕たちもそろそろ帰ります」
「ありがとうね…瞬くん…、絵依子ちゃんも…う…ぅぅ…」
…それ以上は言葉にならないまま、すすり泣く声を上げ続けるおばさんを励ましてから、僕たちは加賀谷家を後にした。
外はもうすっかり暗く、夕方とは信じられないような色に染め上げられていた。
「…あーや、思ったより大変そうだったけど…お話できて良かったね♪」
家までの道を歩いていると、僕のすぐ後ろを歩く絵依子のつぶやいた声が聞こえた。
でもその言葉に、僕は唐突に…凄まじい憤りを感じた。
理由なんか分からない。でも、絵依子の言葉には……気持ちがまるでこもっていないように聞こえたのだ。
まるでテレビかマンガの話でもしているかのような、他人事のような軽く薄っぺらに聞こえた言葉に、さっきから僕の中でくすぶり続けていたものが…一気に弾けた。
「ど、どうしたの? お兄ちゃ…っっ?!」
足を止め、振り向いた僕の顔を見た絵依子が息を呑んだのが分かった。それほど僕の顔は…醜く歪んでいたんだろう。自分自身でも分かるほどに。
「…………」
じゃり、と僕が一歩足を踏み出すと、合わせるように絵依子がわずかに後ずさる。怯えたように僕を見るその目が、ますます僕の心をかき乱していく。
「お…おにい……」
「…絵依子。おまえ…知ってたんじゃないのか」
「し…知ってたって? 何のこと? わかんないよ……」
「……綾のことだ。あれは…あの『怪物』の仕業じゃないのか。あんな衰弱の仕方は……普通じゃ絶対にありえない!」
「……!! そ、それは……」
「おまえ…前に言ってたよな。この辺りはあいつらのテリトリーじゃないから安全だって」
いつの間にか絵依子は壁を背にして立っていた。いや、違う……、僕が絵依子を…まるで追い詰めるようにして、壁の前に立っていた。
「ち…違うよ…お兄ちゃん…違う…」
「うるさいッッ!!! 綾があんなことになったのは…僕たちの…、おまえのせいじゃないのか! おまえがあんなことを言わなきゃ…!! なのに…他人事みたいにのうのうと……!!」
気がつくと僕は、肩を掴んでぶんぶんと絵依子の身体を揺さぶっていた。でも、うつむいたまま何も言い返さない絵依子に、僕はさらにイラついてしまう。
「…何か…なんとか言ったらどうなんだよっ!」
ぎりぎりと僕の指が絵依子の肩に食い込む。むしろ僕の指の方がおかしくなりそうなほど、力いっぱいにこの指は、絵依子の肩を握り締めていた。
ぽすっ、と軽い音を立てて、絵依子の手から何かが落ちた。
「…痛い…ょ。お兄ちゃん……」
「うるさいっ! そんなことは聞いてないッ!」
「…わたし、この辺が安全だなんて言ってないよ。あの時の…お兄ちゃんを狙ってたヤツに限っては、ここはあいつらのテリトリーじゃないって言ったけど、うちの周りがいつも絶対に安全なんて…わたし言ってないよ…」
責め続ける僕に観念したのか、ようやく絵依子が口を開いた。だけれど、それは僕にとっては予想外の答えだった。
「な………」
何を言い訳を…と言いかけたものの、喉が…口がなぜかそれ以上続かなかった。
『……ちゃんと今日は大人しくしててね。この辺りはあいつのデリバリーじゃないから大丈夫と思うけど……』
『…アレは例外。アイツは最初からお兄ちゃんに目をつけてたからだよ』
『…うーん……、さっきも言ったけど時間も早いし、近くには感じないかなぁ。10時過ぎになれば出てくるかもだけど』
…記憶をたどれば…確かに絵依子はそんなことを言っていた。だとすれば、うちの周りが安全だというのは、僕の思い込みだったと…?
思わず指が掴んでいた絵依子の肩から滑り落ちた。もしかしたらアザにでもなっているかもしれない所を擦りながら、絵依子が先を続けた
「…でもね、今の話は別にして、あーやのことは…よく分からないの」
「え………?」
「…もしかしたらお兄ちゃんの言うとおり、怪物の仕業なのかもしれない。ホント言うと…わたしも一瞬そう思った。でも…あーやはあんなだったけど意識はちゃんとあったでしょ…?」
「あ………」
「…あいつらに襲われてエネルギーを取られたら、あんなんじゃ済まないよ。お兄ちゃんも知ってるでしょ…?」
…確かに絵依子の言うとおり、怪物に襲われた前川先生は今も意識が戻らず入院している。でも綾は…意識はあったし、一応は歩けてもいた…。
「じゃあ……じゃあ綾の衰弱は…怪物のせいじゃないっていうのか…?」
「…わたしからは何とも言えないよ。怪物のせいだとしたらヘンだし、でも別の理由も分からないもん」
「…………」
…結局、真相は分からずじまいのままだった。だけど絵依子の言葉で、僕の沸き立っていたアタマは急速に冷めていった。
落ち着いて考えてみれば確かに絵依子の言ったとおりだ。怪物は神出鬼没で、いつどこに現れるかはまるで分からない。だから僕たちの団地に現れてもおかしくはない。
…なのに僕は勝手に「この辺は安全だ」と思い込んでいた。
なのに綾が…よりによってあいつが…あんな酷いことになってしまったことで僕は我を忘れてしまった。
あいつとはもう10年以上もこの団地でいっしょに過ごしてきた、僕の家族、僕のもう一人の妹だ。ただの幼馴染なんかじゃ…決してない。その綾が…怪物に襲われたなんて……許せるはずがない。あってはいけないことだ。
でも、もしも本当に綾が襲われたのだとしても、誰のせいでもない。ましてや絵依子のせいなんかでは断じてないとも冷静になった今なら理解できる。
絵依子と僕だけでカバーできる範囲なんてたかが知れてる。見落としや取りこぼしが出てきても仕方ない。
……今回たまたまそれが…綾だったということなんだ。運が悪かった……というしかない。
絵依子に責任なんか…ない。そんなことは…考えるまでもないじゃないか!
なのに僕は……なんて絵依子に酷いことを言ってしまったんだ…!!
「…ごめん、絵依子。さっきはあんなこと言って…。…肩も大丈夫か…?」
「うん。もういいよ。お兄ちゃんだってあーやのことが心配だから、あんな風に言っただけでしょ? だから…いいよ」
「でも…ほんとにごめんな……」
僕には謝ることしか出来なかった。絵依子のせいだと決めつけたこと、自分が思い込みで絵依子を責めたことを。
もしも本当に怪物のせいだとしても、この辺りは安全だと思い込んで、警戒してなかった僕にも責任がある。絵依子だけに責任を押しつけようとした自分に腹が立つやら情けないやらだ。
「…だからもういいって。でも…これ。お母さん許してくれるかなぁ…」
そう言って絵依子がさっき落とした包みを拾い上げ、ぱっぱっと砂を払う。僕の謝罪などどうでもいい、と言わんばかりに。
「あ…、それ、さっきの残りか?」
「そ。昨日のスクーターの件もあるから、ご機嫌取りに買っといたんだけど」
…箱の中には、案の定ぐしゃぐしゃの、元は食べ物だったとかろうじて分かるケーキの成れの果てが…あった。
「と…ともかく…帰ろうか……」
「うん……」
……いろんな意味で軽いとはいえない足取りで、僕たちは再び家路についたのだった。




