10月20日-幕間2-
-幕間-
「ふぅ……この辺にしておこうかなぁ…」
後ろに大きく伸びをすると、パジャマ姿の少女の座っていた椅子が、ぎし、と小さく鳴った。
毎日の日課である今日の授業の予習復習がようやく終わり、この少女…「加賀谷 綾」は深い深いため息を大きくついた。
宿題などはとうに済ませている。その上で彼女はこの毎日の予習復習を欠かしたことはない。
実のところ、綾が通っている学校のレベルは、本来の彼女の学力にはとうてい見合わない。それでも身に付いた優等生としての習慣が、こうして今も彼女に予習復習を絶やさせないでいた。
ノートと教科書を閉じ、眼鏡を置いた綾が、しばし瞼も落とした。まだ寝るには少々早いと言ってもいい時間だが、最近の睡眠不足による、軽い睡魔が彼女を襲う。
「…あふ……。パパとママ、今日も遅いのかな…」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりとそんな言葉が綾の口から零れる。
彼女の家は、幼馴染の瞬弥たちとは違い、両親は共に健在だ。だが、共働きで二人とも帰宅が遅くなる事は珍しい事ではなかった。
まだ幼い頃、瞬弥の家によく遊びに行っていた事を、ぼんやりと綾は思い返す。その頃は逆に瞬弥がこの家に遊びに来る事も多くあり、お互いの親が不在がちである事を、そうした形で助け合ってきた。
そんな家族ぐるみの付き合いのおかげで、子供の頃の自分たちは、ずいぶんと救われていたと綾は感じていた。
「瞬くん…何してるのかなぁ…エコちゃんとテレビでも見てるのかな…」
部屋の中には誰の姿もない。いや、今この家の中には綾一人だった。にもかかわらず、かすれそうなほどの小声で少女がつぶやいた。
「瞬くん……」
その名を呼ぶ度、綾は自分の体温が上がっていくような気がした。かすかに上気した顔を上げ、窓に手を掛ける。
少しだけ開けた窓から、肌寒い空気が流れ込み、それが綾の頬をさらさらと撫でる。
「…ふぅ……気持ちいいな…」
・・・カラカラカラ・・・・・・
目を閉じたまま、ほんのしばし夜の冷気を楽しんだ後、少しの隙間を残して、ゆっくりとガラス戸を引いた。
これ以上は身体が冷えてしまい、体調をも崩しかねないと、かすかな恐れさえ少女は抱いた。それほどに秋の夜の空気は、すっかり冬の匂いを漂わせていた。
ぼすっ…
倒れこむように綾が身を横たえたベッドが、小さく音を立てた。
目を閉じたまま探るように枕元に手をやると、ふっと天井の照明が消え、部屋は一瞬にして暗闇の世界に転じた。
「瞬…くん……」
静かな闇の中で、綾がまたその名をつぶやく。それにはどこか…熱にうかされたような色をも伴っていた。
「渡城 瞬弥」は決してイケメンではない。今時のカッコイイ男の子、と言えるタイプでは全くない。背が高い訳でもなく、体形も細めではあるが普通の範疇である。どこにでもいる、ごくごく平凡な男子学生に過ぎない。
それでも瞬弥は綾にとって、かけがえのない存在として、その心の多くを占めるようになっていた。
果たしてそれが何時の頃からだったのか、彼女自身もよく覚えてはいない。気がついた時、すでに綾は瞬弥に淡い恋心のようなものを抱いていた。
…ふいにごそり、と綾の両足がうごめいた。たとえ一人の時であっても、煌々とした照明の下ではとうてい行えないような……、そんな扇情的な動きが何度も何度も繰り返される。
「は……ぁっ…、しゅ…瞬…くん…」
だが、その名を呼ぶ度、いつも綾の脳裏には、もう一人の少女が現れる。
その少女の姿が脳裏にまざまざと浮かび上がる度、綾は自分の心の中に秘めた炎が、大きく燃え盛るのを自覚せざるを得なかった。
…それは瞬弥の妹、絵依子の姿だった。
自分と違い、「妹」と言う立場である絵依子は、いつも瞬弥の側にいる。馬鹿馬鹿しいと思いながらも、そんな絵依子に綾は、密かな嫉妬を覚えずにはいられなかった。
綾の目から見た二人は、とても仲が良く見える。瞬弥は絵依子の事をこの上なく大切に扱い、絵依子もまた瞬弥の事をとても慕っているように見える。
時おり暴力的とも思える絵依子の振る舞いも、瞬弥は怒るどころか当然のように受け入れている。逆に言えばそれだけお互いを信頼しているから出来ること、とも言える。それも二人の「絆」なのだろうと。
だが……時折「仲が良すぎる」ようにも綾は思う。
例え兄妹と言えども、年頃の男女が寝室まで同じと言うのは、いくら何でも少しおかしいのではないか、と綾は思う。
…仲の良すぎる兄妹と不在がちの母親。もし自分がその立場なら、我慢などとても出来ないだろう。だから。
『…もしかしたら、瞬弥たちはもう、一線を超えているのではないか…?』
有り得ない、と必死に打ち消し、否定してみても、その恐ろしい想像…疑念は幾度も浮かんでは消え、また浮かび上がり、決して綾の頭から離れようとはしなかった。
「はぁ…っっ…はぁ……っ! 瞬……くんっ…!」
「妄想」と「疑念」が高まるにつれ、少しづつ綾の呼吸も荒く、早くなっていく。それは普段は綾の心の奥の奥にしまい込まれている。瞬弥たちにとって自分は良き隣人であり、幼馴染なのだと言う事を、綾は自覚している。
もしも一時の感情に任せて二人を問い詰めたり、おかしな事を口走れば、自分たちの関係は一瞬で崩れかねない。それも綾にとっては耐え難い想像だ。
であればこそ、常にそうであるように綾は振舞ってきた。これまでも、そしてこれからも。
……だからこそ、一人になった時、「妄想」は綾の心を隅々まで支配する。
まるで過呼吸のように、息もますます強く、激しくなっていく。
「はぁ……は……ぁ……っ、やだ…いやだよ…もうこんなの……」
普段抑えつけられている分、その炎は時を経るに従い、より激しく燃え上がるようになっていった。
しかしそれは同時に、綾にとって自分はどうしようもない最低の人間なのだと、心底自分が嫌になる瞬間でもあった。
「…はぁっ……は……ぁ……っ、う……ぅ…っ…」
ようやく呼吸が落ち着くにつれ、少女の心も少しづつ平静を取り戻し始めた。
満ち満ちていた混沌とした感情を再び胸にしまい込んで、綾がゆっくりと目に浮かんだ涙を拭いながら上半身を起こした。
「………?」
その時、ふいに綾は違和感を覚えた。真っ暗な部屋の片隅に、何か「もや」のような黒い塊が蠢いている。
そんなものが「見えた」。
以前から時折感じられていた気配…絵依子が「幽霊」だと脅かしてきた何かが、この時、綾の視覚に…初めてはっきりと感じられた。
「……ぇ……?」
ゆらり、とそのもやが動いた。もちろん真っ暗な部屋の中ではそれを「見る」事など本来は適わない。
だが、綾にはそれが「見えた」。その瞬間、自分の身体から、さぁっ、と熱が失われていくのを…はっきりと彼女は感じた。
「ぇ…な…何……!?」
得体の知れない恐怖に身体をすくめた瞬間、綾は何かが自分の足に触れた事を感知した。
「ひっ…?! い、イヤあぁっっ……! だ…だれか…!」
黒い影が足に巻きついていくという、あまりに異様な現象に恐怖した綾が、思わず叫び声を上げようと口を開けた。
だが、その声が最後まで放たれる事は無かった。
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「ぎっギッぎッ……ソろそロ……おシまイか……」
どれほどの時間が経ったのか、満足そうな声を怪物が上げた。もはや「加賀谷 綾」という存在は、ほんのひとかけらほどしか残されていなかった。
そして、そのわずかに残った欠片さえ奪い尽くそうと、怪物の触手が綾の頭に巻きつく。
「ッギ……ぃイ……ッッ!!??」
綾の頭に巻きついていた触手が、突然離れた。どこか怯えたような声を上げ、綾の身体から離れた怪物が、きょろきょろと辺りを伺うような仕草を見せた。
同時に、コツ、コツ、と窓の向こうから、かすかな足音が近づいてきた。
そしてその足音が、綾の部屋の下で止まった。
・・・コツ・・・コツ・・・コツ・・・コツ…
やがて、少しの間を置いて、ようやくその足音が動き始めた。
「……グ…る…ルぅ……ッッ…」
かすかに安堵の色の混じった唸り声を怪物が上げると、この部屋に侵入してきた時と同じく、少しだけ開いた窓の隙間から、するりと滑るように外に躍り出た。
しかし、外の夜の闇に滑り出た怪物が、再び辺りを見渡した時、その動きが止まった。
普通の人間には見えないはずの自分を、じっと下から見つめる人影の存在を、怪物は捉えた。
勘のいい人間であっても、この真っ暗な夜の世界では、気配をかすかに感じ取るぐらいがせいぜいであるはずにもかかわらず、まっすぐに「それ」が自分を見ていることに気づいた。
「ッギ・・・ィっ・・・……」
怪物は何か恐ろしいものに出会ったかのように、窓のすぐ近くで動きを硬直させていた。
人影も動かない。ひんやりとした空気がますます温度を下げ、今にも凍りつきそうな程に密度が高まっていく。
だが、人影はふいに踵を返して歩き始めた。もはや興味など無くなったのか、あるいは最初から「見えて」などいなかったのか。怪物の単純な頭には判断しかねるものだった。
手に買い物袋をぶら下げたその人影が去っていくのを見て、ようやく恐怖から解放された怪物の喉がかすかに鳴った。
そしてゆっくりと、静かに音も無く怪物は夜の空に舞い上がっていった。
先ほどの事など、怪物の頭からは既にきれいさっぱりと消え失せていた。
なぜなら今日得た「力」は主にとって、何よりの、格別の喜びをもたらすであろうと怪物は感じていたからだ。
…しばし怪物は、己のその想像に酔いしれていた。
だから気がつかなかった。遠ざかっていく団地の屋上で、もう一つの人影が己を鋭く睨みつけていた事を。