その男はニート風
優しくぼやけた世界から眼鏡をかけて、はっきりしたつまらない現実たちの世界に戻ってきた。深呼吸して、肺に冷たい空気を入れると背に電撃が走ったかのように肩が小さく震えた。ふと何気なく目の前を見つめていた鏡を意識してみると生気のない死んだ魚をしている人間がこちらを睨み付けると思えるほど悪い目つきで見ていた。
……いつからか思い出せない。全ての事がつまらなく、使い道のなくなって棄てられたがらくたのように思えて、当たり前でとても簡単なことも苦しく、辛くなったのは。いつからだろう。
ああ、そうか。私の知っている彼女が私の思い出とともに変わっていってるからだ。
以前、私には好きな人がいたのだ。彼女はいつも明るく優しくて、世界中に笑顔を振りまいていると噂があるほどであった。そう、私と真逆の人間であるのだ。そんな人間である彼女の周りには性別関係なくいつも人で溢れかえっていた。私もその一人であり、教室移動や給食や着替える時も、三年間毎日のようにいたのだ。一緒にいると嫌な事や忘れたい事も全て彼女が浄化してくれるような気がしたのだ。私は彼女の事がいつから好きなのかはわからないが、これが叶わぬ恋だという自覚はあった。なぜなら、私は同性である彼女に恋をしたのだ。
同性に恋をすることは初めてではなったので驚きはしなかったが、周りの目からバレないようにするようにするのは大変であった。仲良くなりすぎず、上手く距離をとり、笑顔を作り続ける。
否、本当に苦労したのは私の理性であった。彼女の撫でたくなるような髪も握りしめたくなるきれいな手も触れる事が出来なかった。出来る事と言えば悪ふざけの際に肩を優しく叩くぐらいだった。
だが、そんな恋心虚しく私は告白せずに彼女に振られたのだ。ある日彼女は「女は恋愛対象になれない」と言ったのだ。冗談かと思い、疑問をぶつけてみたが、「女の子と恋愛って想像できない」と呆気なく言われてしまった。知ってた。私はとっくに知ってたんだ。彼女はバイト先の店長が好きになったことを知ってたんだ。バイト先の店長の事を嬉しそう話をする彼女を何度も見てきたし、そして、何度も店長を羨んだ。
私はなんて卑怯でめんどくさい人間なのだろうか。全く、惨めでアホらしい。
そんな時だ。それは平日の昼間から私はあてもなく近所をふらふらと歩いている時だった。未だに忘れられない彼女の事を引きずって考えていると、ごみ箱に体の下半身を入れてる男と目が合った。男は23くらいのよれよれのシャツと目が隠れるくらいの長くボサボサな髪で、まるでホームレスを思わせるような格好をしていた。
男はおいでと私を手招いて、臆病で情けない性格の私は恐る恐る近づくと男は両手を差し出した。私がきょとんとしていると男はバケツの中でガタガタと暴れだして、行動とは逆に冷静に話した。
「昨夜にね。雨見酒をしていてお酒を沢山呑んでしまって気付いたらここにいたんだが、お尻がはまって抜けなくなってしまってね。助けてくれないか?」
「はあ、分かりました」
私は袖を捲ると男の手を握り、勢いよく引っ張ったが、所詮私は女だ。やはり力が足りない。女だから、駄目なんだ。すると男は手を離して、ひらめいたのか自分の手を叩いた。
「ちょっとごみ箱を倒してくれないか?」
「え……分かりました」
私は力一杯ごみ箱を倒すと、にゅるにゅるとナメクジのように男が出てきた。男はサンダルをごみ箱に入っていたサンダルを履くと立ち上がった。そして、男は頭を掻いて「ありがとう」と話した。軽く会釈をして、立ち去ろうとした私を男は呼び止めて、私は振り返った。
「君、大丈夫? 良かったら話聞くよ。僕んち、すぐそこだし」
「新手のナンパですか」
「ナンパではないって言ったらどうする?」
「そしたら、貴方の言葉に甘えてしまいます」
ボロアパートと言うべきか。否、お化け屋敷の方が正しい答えなのかもしれない。ドアを開けて入ると、1Kの狭い畳の部屋である。
目の前には長机があり、真ん中にはちゃぶ台、隅には放置されたであろうぐちゃぐちゃな布団と空き缶があった。
「散らかってるけど気にしないで」と男は汚さのあまり、立ち竦む私にペットボトルのお茶を持ってきた。私はペットボトルを受け取り、すぐに期限を確認した。すると、男は布団の上に座り、体を伸ばした。
「大丈夫。まだ二ヶ月先だから」
私はペットボトルのお茶を開けて、一口飲んで、その場に座った。隅に座っている私を見て男はおいでと手招きをしたのだ。
「どうしたの?」
「……臭い」
男はキョロキョロさせて、辺りを見渡した。「特に腐ってる物はないよ」と話し、私はゆっくり人差し指で男を指差した。
「え、僕? 僕なら5日前に風呂入ったから大丈夫だよ」
男が自分の髪を触るとパラパラと白い物が落ちきた。この光景に私は思わず鳥肌がたち、男から離れるて部屋の隅に逃げた。「大丈夫」と繰り返し言う男に呆れるとすぐさま、私は男の手を引いて男を風呂場に押し入れた。
「まだ大丈夫だよ」と風呂場から声がするが全く無視して、私は台所横から色変わったビニール袋を取り出して、ちゃぶ台の上にあるカップ麺と空き缶とごみ袋に入れて、散らかってる新聞や雑誌を紐でまとめると玄関の近くに置いた。ぐちゃぐちゃな布団はベランダで干して、布団叩きで軽くポンポンと叩くと、ほこりのような物が空中を舞った。
ちゃぶ台を端に寄せるとほこりや毛が畳みの上にまだ散らかってた。ぞわぞわとまた鳥肌がたった。押し入れから使われてなさそうな掃除機を取り出して、部屋全体に掃除機をかけるとギリギリ許せる程度に片付いた。
ちゃぶ台を元に戻すと、丁度男は風呂から戻ってきてタオルを首にかけていた。くるりと私は男の方へ振り返ると髪に泡が少しついていて、無言で私は風呂に男を連れ込んだ。
「次はなにー?」
「洗い直しです」
お湯の入っていないバスタブに男を入れて、男は静かに頭を差し出すと、シャワーで男の髪を濡らした。シャンプーのノズルを1回押して、濡れている髪をガサガサと力を入れて頭を洗うと男はウトウトし始めたのだ。
「お嬢さん、上手いね。思わず眠くなっちゃうよ」
シャワーを男の頭に当てると泡が流れてて、完全に泡がなくなるとタオルで優しく拭いた。
風呂から上がり、男はダボダボなねずみ色のスエットに着替えて、ぼけっと部屋を見渡すと、濡れた髪が飛び散るくらいの勢いで振り返り私を見た。
「部屋綺麗にしてくれたんだ。ありがとう」
「あんな場所にいたら掃除したくなります」
「意外と毒吐くね」
男はドカと畳であぐらをかくと、両手を広げて、パタパタと羽ばたかせた。「こいつは何やってるんだ?」と冷たい視線を送ると男は明るい声で
「僕に甘えたまえ!」
と話すではないか。
……私は男から少し遠ざかった。すると、男は前泣きそうな声で「引かないで」と私の右足に抱きついて、ずっしりと体重を乗っけた。
「あんたは子泣きじじいか。セクハラで訴えますよ」
「それも嫌だ!」
言うことの聞かない子どものように駄々をこねて、わんわんと泣き出す。私は動かない足を見て、男だったら簡単に退かせるんだろうなと自分を馬鹿にするように笑った。
「お嬢さん?」
急に足が軽くなり、目の前が暗くなった。そして、顔に温かい人の体温が伝わり、背中をポンポンとゆっくりと優しく叩かれた。全て預けそうになった時、ふと振られた時の自分を思い出した。
「私は卑怯でめんどくさい人なのだ。だから、もう甘えてはならないし、迷惑をかけてはならない」
そう心に誓ったのに……。私はなんて愚かなんだ。
その瞬間、私は男の胸を弱々しく両手で押して、拒否するとすぐに男は私から離れた。
「やめて……」
男は立ち上がると台所に向かうと何か袋を開ける音がした。そっと覗くと男は開けたお菓子をぱくりと一つ食べた。男と視線が合うと食べるかい?とポテトチップスを袋から出して、左右に動かした。私は左右に首を振ると、また男は食べた。
「やっぱり、ポテトチップスはコンソメ味が一番だね」
男はポテトチップスやマシュマロなどの菓子類をちゃぶ台に置いて、男はコーラで流し込むように食べていた。
「さて、息抜きにゆっくり雑談でもしよう」
男は呼吸するようにお菓子を口に入れると、私は恐る恐る好きであった彼女の事を話すと男は頷いて、時折相槌を打ってくれた。
全て話し終えると男はフムフムと暫く考え混んで、何かをひらめいたのか指をパチンと鳴らした手で私を指差した。
「要するに君は男ならば好きだった人と付き合えたと言いたいのか」
「そんな感じですね」
ふーんと男は頷くとマシュマロを口に入れて、私の顔を間違い探しでもするかのようにまじまじと見つめた。
「それなら、君は大した自信家だ。仮に男であっても、付き合えない事どころか友達にさえなれないこともあるんだから」
「それで何が言いたいんですか」
私は少し男に怒りを覚えた。簡単に言わない欲しいものだ。すると、私の反応に気づいたのか男は両手を出して、宥めるようにまあまあと言った。
「僕が言いたいのは人生そんな上手くいく訳ないってことさ」
「そんなの知ってますよ」
私はペットボトルのお茶を空にすると、私はちゃぶ台を強く叩くと立ち上がった。 ドスドスと床を鳴らしながら歩き、玄関に手をかけて、きょとんとしている男の顔を睨むように見た。
「お茶ご馳走さまでした。失礼します」
乱暴にドアを閉めて、アパートの鉄製の階段を降ると、象が歩くように体にじんじんと響いた。あの男の間違っていない発言が私の無駄に高い自尊心が傷つけられて、少々イライラしていたのだ。そして、非の打ち所のない発言で言い返すことの出来ない自身にもイラついていた。
私は自分の家の玄関を開けて、靴を子どものように脱ぎ散らかし、とんとんと階段を静かに上がり、自分のベッドに座ると一気に脱力感が私を襲い、そのまま優しい世界に入り込んだ。そこから何時間たったんだろうか。ボサボサな髪の私は眼鏡も掛けずに起き上がり、カーテンを開けた。外は暗闇で今は朝なのか夜なのか分からなかった。私は壁にかけてある時計を見ると……ああ、まだ夜だったと安堵する。
ーーー私は休みを謳歌できるのだ。
ああ、私は長い夢を見ていたのだ。今日の昼間のことは全部夢であの男も夢の登場人物だったのだ。なんて、不愉快な夢だったんだろうか。思い出すだけでもイライラする。
私は枕をサンドバッグのようにして、怒りをぶつけた。
翌日も私は平日の昼間から外へふらついていると、後ろから早いリズムの足音が聞こえた。ランニングで体を鍛えているのかと感心していると急に足音が止まった。転んだのかと心配に思い、振り返ると私の目の前に好青年が私を見つめて立っていた。イケメンは前髪を後ろで結んで、優しいそうに微笑んでいた。ただでさえ、知り合いが少ない私だ……こんな人知っている訳がない。
人違いでもしているのだろうか。私は疑問をふっかけようとすると、聞き覚えのある声が聞こえた。
「お嬢さん」
……ん? この耳障りな声は、どこかで聞いたことのある声である。私は頭の天辺から足の爪先まで目を皿のように見ると、思い出した。そして、思い出したくなかった。
「あ、気付いた?」
「どちら様でしょうか」
私は回れ右をし、落ちている石のような顔をして、早足で歩き、男から離れた。歩いてる私の右側でピエロは雑音をたてていた。赤信号で止まると犬みたいに私の周りをくるくると回るが、犬のように可愛くないし、私は嫌いな野菜を食べる子どものような顔をした。通行人は私と男を見て笑ったり、ケータイを向けたりした。……私の顔は撮さないでくれ。
こんな風にされると、流石に私も人目が気になり始める。私は人の多い駅前の飲食街へ歩いて、一気に走り出した。昼休みのサラリーマンには申し訳ないが、そのおかげで男は人波に流されて、私は静寂を再び手に入れた。
今日はそのまま帰ろうと心に誓って、私は見つからないように先程とは真逆に人のあまり通らない、野良猫と排気の匂いがある裏路地を歩いた。私は生まれてから、この町に住んでいる。これくらいなら目を閉じてても、家に帰ることができるくらい簡単である。
やっと、あの邪魔から解放されて、一歩ずつ歩く度にイライラが満タン膨らんだ風船の空気抜けていくようだった。
昼間なのに薄暗く、光が所々にしか当たらないこの場所は今の私にはぴったりな空間であった。私は猫を踏まないように俯いて歩いて、十字路に着くと左に曲がった。すると不思議なことに行き止まりであり、私はぶつかって、尻餅をついた。
私は疑問符でいっぱいの頭を働かして、顔を上げた。すると、謎は簡単に解けたのだ。ぶつかったのは壁でも工事中の看板でもない。人だ。しかも、今最も会いたくない人であった。
「お嬢さん、怪我してないかい?」
男は中腰になって、私に手を差し出した。私は無視して、体に力を入れようとしたが、驚きや恐怖で力が入らない。その様子を見て、気付いたのか男はしゃがんで私と目を合わせて、やさしく微笑んだ。
昨日勝手に帰ったり、先程の無視で何かされるのではないのかと恐怖が襲いかかってきて、声が出ない。
それにさっきから呼吸も少しずつできなくなってる。息が吸えない。
「ゆっくり息を吐いてしてみ」
男はお手本のように息を吐いた。私は地獄の血の池で蜘蛛の糸をもがいて探すの主人公のように一生懸命に真似をすると、少しずつ呼吸が戻り、足にも力が入り、ようやく立ち上がることができた。
「お嬢さん大丈夫かい?」
私は深呼吸を兼ねて、大きな欠伸で開いた口を手で隠して、ちらりと男を見た。そして、「お陰さまで」と蚊が話すような声で返事をしたら私の声が聞こえたのか、男は太陽を見つめているひまわりのように明るい顔になった。
「あ、そうだ。お嬢さん忘れ物してたよ」
男は斜め掛けのバッグから似合わない女物のピンクの財布を出した。ああ、私の物だ。
「大丈夫。中身は保険証しか見てないから」
「……ありがとうございます」
私は財布の中身をちらりと確認して、バッグにしまった。ふと、男の顔を見ると、男は嬉しそうな顔をしていた。その瞬間私は罰ゲームが決まったような謎の敗北感を覚えた。
「意外と近所だね」
「はい」
私は手で水を投げるような雑で意味のない返事をして、無視するように歩き出した。
「僕、池井圭。これでも漫画家なんだ」
「はい」
「それでお願いなんだけど、お嬢さんの体を見せてくれないかな?」
私は立ち止まり、ケータイを取り出して緊急連絡ボタンを押して、警察への番号を入力する。すると、男は私のケータイの電源を消して、私の目の前に立った。一方、私は唇を一の字にして、ただ呆れていた。
「お金出すから」
「私そういうの興味ありませんので」
「誰にも言わないから」
人の少ない裏路地でこんな会話をしていると、完全にそういう意味に周りは捉えてしまうだろう。
「そういう系の店に行ってください」
「そんな店があるのかい。その店、僕に紹介してくれないか」
「行ったことないので知らないです」
よし、調べるかと男は黒いケータイを開いて「漫画ポーズのモデル」と呟いてケータイをいじった。そして、すぐにうなり、顎を手に当てて考え込んだ。
「やはり、本は出てくるが店が見当たらないみたいだ」
「私達って、何の話をしてたんですか」
「漫画のモデルになってもらう話だろ?」
「そういう系の話ではなかったんですね」
「そういう系というのはなんだい?」
私はため息をついて、やれやれとこのくだらない話をしてたことに呆れた。
「てっきり、【自主規制】が出来る店かと思いました」
「女性が公共の場で【自主規制】なんて言ったら駄目だろ」
「体を見せるって言ってたんで」
男は頬にピンク色のチークをつけたように赤くなった。そして、男は右手を自分の胸に当てて、空いてる手を空飛ぶ練習している小鳥のようにバタバタと羽ばたかした。
「僕はそんなこと言わない。それに僕は結婚するまで手を出さない人間なんだ」
「……結婚されてます?」
「してない」
興味なそうに鼻で笑うと男は「酷いや」とポコポコと冗談みたいに私を殴った。殴るというより、優しく叩くと言ったほうが正しいだろう。私はこのくだらない男の努力を見て、馬鹿らしく思い、じわりじわりと笑いが込み上げてきて、ついには手で口を押さえてくすくすと小さく笑った。
男は、始めは何事かと驚いていたが、私の様子にすぐに気づくと目を細めて口角を上げた。
男は私の手を握り、腕が外れるくらい強く上下に降り、力を抜いていた私の腕はタコのようにくねくねとジェットコースターのように揺れていた。私は男の我が儘を許して、そっちが気が済むのを待っていた。男が上下運動を止めると何も考えずに一点を見つめていた私と目を合わせて、こどものように笑った。
「なぜ、そんな嬉しいんですか?」
「お嬢さんの笑顔が見れたからね」
……その時、手汗が急に酷くなった。それにほんのりと体温が上がったような気がして、思わず恥ずかしさのあまり目を反らしてしまった。
ああ、もしかすると私は恋をしてしまったようだ。
「お嬢さん。大丈夫?」
「大丈夫です」
男は暫く私を見ると軽く頷いて、軽い返事をした。そして、男はキョロキョロと辺りを見渡して腕時計で時間を確認した。
「おっと、そろそろタイムセームの時間だ。
それじゃ、機会があったらまた話そう」
男は手をバイバイと小さく振って、私に背中を見せて、人多い駅前飲食街へと走り出した。私は待ってと男の背中に触れて止めようとしたが、男は瞬間移動でもするように走っていった。
……毎日のように失恋で悩んだり、些細なことで怒ったりしてた自分が少しアホらしく感じた。
一瞬だが、変化のないつまらない私の人生が少しだけ面白く思えたのだ。