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こころ

作者: 吉川翼

1



九月になったとはいえど、まださほど気温は八月と変わらないような気がした。

靴を履き替え外に出ると、空にはひたすら、青が続いているのが見えた。

外に出ただけだというのに、すでに汗が滲み始める。

こんな中運動する子供を想像すると、子供はすごいのだな、という気がした。


今日、こうして土曜日だというのに、一人で外に出たのには理由がある。

今日は、小学生の息子の、運動会の日なのだ。

いくら毎日の仕事で疲れているといえど、息子の姿を見に行かないわけにはいかない。

だからこうして、炎天下の中小さなバッグを背負い、学校へ向かっているのだ。



学校に着き、三十分ほどすると、運動会は始まった。

小学一年生から六年生までが、はしゃぎながら入場してくる。

四年生の列に息子の姿を認めると、私は息子に視線を送った。しかし、息子はこちらに気付かないようだ。

時刻が十時になろうかという時に、開会式は終了した。



午前中、息子が出る競技は、一つしかない。徒競走だ。

その徒競走は、初めから四番目の競技で、そろそろ時間になろうかという時である。

初めから三つ目の競技が終了したとき、ついに息子たちは入場ゲートと呼ばれるところから、入場していった。


息子の様子からするに、大体順番は十番目くらいのようだ。

一番初めの子らがすでに、レーンで準備をしている。

少しすると、教員のハリのある声が響き、次に銃声にも聞こえる音が鳴った。

どうやら、始まったようだ。


みな、四年生とは思えない脚力で、グランドを駆けてゆく。

最近の小学生は、これくらい普通なのだろうか。いや、私が年を取ったからそう感じるだけか。

そうして、初めの子らがついにゴールする。コーナーを含めて百メートルだ。

一着にゴールした子は、喜びの顔を浮かべると、二着の子のところへ歩み、何か話す。

二着の子は悔しそうな顔を浮かべ、話す。


そんな風にして、順調に徒競走は進んでいった。

徐々に息子の順番が近づくにつれて、私も少し、緊張で汗が増えてきた気がする。

そして、ついに息子の順番が来る。

息子はレーンに着くと、大きな破裂音と共に、彼らはスタートした。



息子は、どうやら二レーンを走っているらしい。

最初こそ出遅れたものの、徐々にスピードを上げていき、コーナーに差し掛かったところでは、トップを争うまでになった。

さらにコーナーを抜けると、最後の直線で、さらに伸びる。

結局、二位に中々の差をつけて、一着でゴールしたのだった。


初めはスピードが乗らなかったが、結局息子は一位でゴールし、一人悠々と列に座った――ふざけるな。

あいつは何をやっているのだ。一位を取ったから、良いと思っているのだろうか?

心配だから、今日運動会に来てみれば、これだ。やはり、何も変わっていないじゃないか。

どれほど言えば、分かってくれるのだろうか。それじゃ、駄目なんだと――。

私は苛立つ気持ちを抑えるため、煙草を吸おうと取り出す。

しかし、校内は駄目だったことに気づき、静かに外へと向かった。



そうして、昼休憩となった。

生徒らはみな教室に戻って、ご飯を食べている頃だろう。もっとも、すでに三十分過ぎているから、食べ終わっているかもしれない。

証拠に、何人かの生徒は、外に出てきて、友達と何やら遊んでいる様子だ。

朝にもらったパンフレットによると、午後が始まるのはあと三十分後らしい。

もう一度外に出て、時間を潰すかな――そう考えていたとき、担任の佐藤先生の姿が見えた。


「佐藤先生!」

近づきながら呼びかけると、佐藤先生の方も、私に気付いたようだ。

「あら、野田さん。こんにちは」

「どうも、ご無沙汰しています」

挨拶をして礼をすると、佐藤先生も同じように頭を下げた。


実は、私は一年前に、妻を亡くした。がんを若くして患っており、現代の医療では、助けることはできなかったのだ。

そして、私と息子は、今年の春にこの地にやってきた。二人で生きていくため、新たな土地で頑張ろう、と思ったのだ。

すなわち、息子は転校生、なのである。

といっても、さほど大きな引っ越しではなかった。

妻の墓に行きやすいように――妻に会いに行きやすいように、東の土地から西のほうへと、移動しただけだ。

妻のいる場所への距離は、さほど変わっていない。


しかしそれでも、やはり場所が変わると、気持ちも変わるものだ。

妻と慣れ親しんだ家を出るのは苦しかったが、しかしあの家にいると、いつまでも涙が止まらなくなってしまう。

そして何より、あの大きな家に住み続けるには、自分たちがちっぽけに思えて、苦しくなる。

その痛みに耐えられない、というのも、理由の一つにあった。

とにかく、引っ越してきた転校生ということもあり、よく佐藤先生ともお話をさせていただいたこともあり、すぐに見つけることができたのだ。


「先ほどの徒競走、みておられましたか? すごい走りでしたね」

明るい表情で、佐藤先生は言った。確かに、一位にはなったが……。

ちゃんと叱ってやらなければならないな、と思っているというのに。

「んー、いえ、まだまだです。あいつは何も理解していない」

私がそういうと、佐藤先生は明らかに顔をゆがめた。


そこで、佐藤先生が、思い出したように、私に問いかける。

「そういえば、先日、家で宿題をしていたら、お父さんに怒られた、と聞いたのですが……」

私は記憶を辿り、その情報を見つけた。そういえば、そんなこともあったな。

仕事が早く終わり、17時に家に着いた私は、驚いたものだ。息子は当たり前のような顔をして、宿題をしていたのだ。

お前には、他にやることがあるというのに――。


「えぇ、確かにそんなこともありましたね。本当、あいつは何も分かっていないようでして」

私がそういうと、佐藤先生は明らかに困惑した顔で、「はぁ……」と返す。

そんな佐藤先生に、今度は私から言った。


「あぁ、そうだ。佐藤先生。もしよろしければ、教室から息子を呼んできてはもらえませんか。飯はもう食い終わってるでしょうし」

そういうと、佐藤先生はまた、どうしてですか、とでも言いたそうな顔をする。

しかしすぐに、分かりました、と言い、教室へ向かおうとする。

そのとき、一瞬佐藤先生の視線が、一点で止まった。誰かと目でもあったのだろうか。

だが、すぐにまた教室へ視線を動かすと、佐藤先生は校舎の中へと消えた。



2



ご飯を食べ終わり、教室にいると、突然先生が、「圭介くん、お父さんが呼んでるわよ」と僕を呼んだ。

教室で特にすることもなく過ごしていた僕としては、別にいいのだが、何の用かな、と少し不安になった。

午前中の競技で、何かやっちゃったのだろうか――。

しかし、午前中といえば、徒競走しか競技はなかった。その徒競走でも、僕は一位になったのだ。



教室から出て、先生の後を追い外へ向かいながら、僕は二年前の出来事を思い出してた。

「これからは、俺たち二人で生活しなくちゃいけないんだ」

お父さんは、僕の目を見据えて、そう言った。

しっかりと、まっすぐに僕の目を見ていた。僕も、深く頷いた。


お父さんは、僕の目から一度も目を逸らすことなく、続けた。

「いつかきっと、きっと必ずまた、三人でご飯食べような」

もう一度、僕は深く頷いた。お母さんがなぜ家にいられなくなったのかは、僕は聞かなかった。

家に帰った時、僕がいることを知らずに号泣していた父を見ていた僕には、聞けなかったのだ。


むろん、聞かずとも、入院したのだな、ということは僕にもわかる。

ただ、なんの病気かは、僕は知らされていなかった。

そのまま時は過ぎ、今でも僕たち家族は、二人だけのままだ。


あのときのお父さんの目を、今でも時折思い出す。

優しく、しかし温かい、その目。

僕の体ごと包み込んでくれそうな、そんな感じだった。



そんな父が、いったいどうしたのだろうか。

何か用事があるわけじゃなく、ただ見に来たから呼ばれているだけなのだろうか。


最近の父は、少し疲れ気味だったなと、ふと思う。

平日仕事から帰ってくるのは、たいてい夜遅い時間。時々早く帰ってきても、すぐに横になってしまう。

唯一、休日にあの場所へ行く時だけは――お母さんに会いに行く時だけは、父の顔も明るかった。

辛い表情を見せることはほとんどなかった。もしかすると、息子である僕に気遣って、かもしれないが。

しかし、前回行った時だけは、どこか顔色が悪かったような気がする。

帰りの車の中でも、時々どこか遠い場所を見つめているような気がしたのだ。



そうして、先生に続き外に出ると、お父さんが待っていた。

お父さんは、僕を見るなり、大きな声で言葉を発した。

全身が震えた。これは現実なのか、と思った。

大きく口を開いて、僕に言葉を発し続けていた。


涙が流れた。





3



昼休憩になり、私たち教員も打ち合わせの後、ご飯を食べることができる。

十分ほどで打ち合わせは終わったため、私は学校から配られるお弁当を食べると、その後外に出た。

色々、なんやかんやしてる間に十分が過ぎ、午後が始まる二十分ほど前になったとき、先ほども目が合った佐藤先生の姿を認めた。

彼女もどうやら、今は特に用事がないようなので、彼女の元へ私は向かった。


「あら、橘先生」

佐藤先生は私の姿を認めると、明るい笑顔を浮かべて言った。

彼女とは、年が同じということもあり、親しくしている間柄である。


「ふぅー、中々疲れたわねー」

「んー、本当。担任を持つと、何かとやっぱり大変ねー」

佐藤先生が言った。私と佐藤先生は、今年学級の担任になるのが初めてであり、ゆえに担任として迎える初めての運動会なのである。


「そういえば、どうだった? さっきの」

私は、佐藤先生に問うた。さっきの、というのは、十分前、すなわち、午後の部が始まる三十分ほど前に、目が合った時のことだ。

「あぁ、野田さんのこと? うーん、どうなのかなぁ……。また怒ってたみたいだけどね。詳しくは聞いてないから分からないんだけど、あの子泣いてたみたいだから」

やっぱり、そうだったのか。私も少しすれ違ったときに見たけれど、明らかに俯いていた。

厳しいお父さんなんだな、とは思っていたけれど、ここまで来ると少しどうかとも思う。

そんなことを考えていると、今度は佐藤先生のほうが、私に問うた。


「橘先生のほうは? 圭介くんのお父さんに、圭介くん呼んでくるように頼まれてたでしょ?」

そうだ。私も、圭介くんのお父さん――真中さんに、圭介くんを呼んでくるように頼まれたのだ。

しかし、野田さんが翔くんを叱るために呼んだように、真中さんも圭介くんを叱るために呼んだのではない。


「ほら、真中さんの奥さん、脳の病気で二年前から入院してるって話したじゃない。

 圭介くんたちも、休日にしか会いに行けない、って。それが、今日、手術だったらしいのよ。有名なお医者さんがいて、ようやく手術の順番が回ってきたって。

 前回病院へ奥さんに会いに行ったときにそれを知らされて、ずっとお父さん緊張してらしたんだけど、無事成功されたんですって。

 お父さん、嬉しくて、すぐ圭介くんにそれを伝えに来たの。圭介くんも嬉しくて、泣いちゃってね……。本当、良かったわ……」

私はそこまで話しながら、自分も涙を流しそうになった。

それを目をこすり避けながら、また佐藤先生の方を見た。


「そう、それは本当に良かったわね……。圭介くんも、詳しくは知らされてなかったのよね?

 本当に、奥さんが助かって良かったわ……。本当、それに比べると、野田さんはちょっとねぇ。翔くんがかわいそうだわ」

本当にそうだな、と私も思う。

奥さんを亡くされた野田さんは、だからこそ、ただ一人の親として、翔くんの心の支えとなって、生きるべきではないのか。

それが、親というものではないのか。


そんなことを話していると、突然、後ろから、学年主任の桜井先生が現れた。

「親御さんの陰口とは、よろしくないですわね」

威圧的な態度で、私たちに言葉を浴びせる。

すぐに、「すいません」と頭を下げたが、下げながらでお、桜井先生が私たちを睨んでいるのが分かった。

しかし、桜井先生はすぐにその態度を取るのをやめ、ため息を一度ついてから、言った。

「それに、野田さんはあなた方が思っているような方ではありませんよ?」

「えっ?」

私たちは、互いに顔を見合わせた。

私たちが思っているようではない、すなわち、そんな悪い父親ではない、ということなのだろうか。

すると、そんな私たちの子を見ながら、桜井先生は言葉を紡いだ。


「野田さんは、確かに翔くんに厳しく当たることがよくあります。理不尽ともいえる怒り方をされているような気もします。

 そこで、以前私は、学年主任として、野田さんとお話をさせていただいたのです」

桜井先生の言葉に、私は驚いた。そんな話は初耳だったのだ。

翔くんのクラスの担任である佐藤先生も驚いていることから、彼女も知らなかったに違いない。



「そのとき、野田さんはこう言っておられました。

 『私も幼い頃、父親の仕事の都合で転校をいたことがある。そのとき私は、話すのが苦手で、友達をうまく作れず、小学校生活を一人で過ごした』と。

 また、『翔も同じように、友達がいないんじゃないかと思うんです。家に帰っても友達と遊ばずに一人宿題をしていたりするのですから。

 ですが、それは本当に勿体ないことです。子供が遊ばなくて、どうするというのですか。私は、翔に、私のようにはなって欲しくないのです』と」


なるほど、と思った。あのとき――先ほど野田さんに会ったとき、徒競走の話をしても、「まだまだです。あいつは何も理解していない」と言っていた。

おそらくは、こういうことなのだ。

あのとき、確か、翔くんは一着でゴールはしたが、他のみんなのように、それをネタに友達と冗談を言い合っている様子ではなかった。

そそくさと列に並び、座っていたような気がする。それを、野田さんは叱ったのだろう。このままでは、翔くんも自分のように、一人きりの小学校生活を送ると思って――。


「そうだったんですか……。それは知りませんでした。本当に、申し訳ないです」

佐藤先生が頭を下げた。私も同じように、謝罪の言葉を言った後、頭を下げる。

「まぁ、確かにそれでも、野田さんは厳しいお方ですから、仕方ないことではありますがね。

 しかし、野田さんはああした形で、一人きりで息子を育てようと、頑張っておられるのですよ」

「はい、強く胸に刻んでおきます」

私は、桜井先生の言葉にそう返した。佐藤先生も、同じような言葉を言ったようだ。


すると、桜井先生は時計を見た後、「そろそろ始まりますね」と言い、グランドへと向かった。

確かに、すでに午後の部が始まる五分前となっている。

私たちも顔を見合わせた後、続いてグランドへと向かっていった。


そのとき、私が思っていたのは、家族というのは、そんな簡単な絆じゃないんだな、ということだった。

それがどんな方法であれ、親はいつも子のことを想っている、そんなことを、初めて心から思った。




お久しぶりです、稲本圭です。

今回は、運動会のなか、2つの家族の愛情を描きました。

とはいえ、普通に書いてもなかなか伝わらないのではないかと想い、結果的に、叙述トリックのような書き方になりましたね。

楽しんでいただければ幸いです。

では、またお会いしましょう。

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