a pretty Lady、a pretty Cat
そのとき、わたしはまだ仔猫だった。
雨の日に川で流されていたわたしを助けてくれたのはあの人。
最初は棒を延ばしてわたしをすくい上げようとしていた。けれど、足を滑らせて川に落ちてしまうと、諦めて腰までつかりながらざぶざぶと流れをかきわけて、わたしのところまでやってきた。
あの人は鞄からタオルを取り出すと、濡れたわたしの体を拭いてくれた。
「君はミイに似ているね。……ああ、ミイというのは僕が昔飼っていた子でね――」
そう語りながら、あの人は橋の下でわたしを撫でてくれた。
暖かい手。
子守歌のような声。
そんな優しさに包まれて、気がつけばわたしは眠りに落ちていた。
目が醒めたとき、わたしの身体には傘が差しかけられていた。これ以上雨に濡れないよう、あの人が置いていってくれたのだろう。きっとあの人は雨に濡れながら、走って帰ったに違いない。
その日からわたしは、あの人に恋をした――。
それから何年かが過ぎた雨の日――。
あの人の住む大きなお屋敷の前で傘を差して立つわたし。その姿はどこから見ても人間だった。
そう、わたしは"化けた"のだ。
大好きなあの人の側にいたいから……。
「君、どうかしたの?」
「にゃ!?」
振り返ると、あの人が立っていた。今ではもう"だいがくせい"というものになったらしい。あの日と比べると少し大きくなっているけど、それが"だいがくせい"になるということなんだろうか?
「あ、あの、わたし、このお屋敷でお手伝いがしたくて……」
びっくりしたわたしは、しどろもどろになりながら答えた。
「ああ、お手伝いさん? それは後藤田さんに言わないといけないんだけど。……おいで、僕から言ってあげよう」
優しく微笑んで言うと、あの人は大きな門の横にある小さな入り口を開けて入っていった。
「君、名前は?」
「えっと、ミイです」
わたしの言葉に、前を歩いていたあの人は驚いて振り向いた。
「それは珍しい名前だね。苗字は?」
「みょうじ?」
それって何だろう? ミイだけじゃダメなんだろうか? わからなくて首をひねっていると、あの人は笑い出した。
「ごめんごめん、もう聞かないから。……うん。ミイでいいよ」
そう言いながらもあの人は玄関につくまで、ずっと笑いをこらえていた。
「おかえりなさいませ、おぼっちゃま。……おや、そちらは?」
大きな扉を開けると、ちょっと怖そうなおばさんがいた。
「ただいま。彼女はミイと言って、新しいお手伝いさん。ミイ、この人が家政婦長の後藤田さんだよ。いろいろとおしえてもらうといい」
「あ、はい。よろしくお願いしますです」
わたしはきちんとお辞儀をした。それなのに怖そうなおばさんは、眉間にしわを寄せてわたしを頭から足の先まで何度も見た。怖そうじゃなくて、本当に怖いのかもしれない。
「いいんですか? こんなどこの誰ともわからないような娘を……」
「いいっていいって。何かあったら僕が責任をとるよ」
あの人はもう階段を上がりかけていたので、上の方から声が降ってきた。
「おぼっちゃまがそう仰るのでしたら仕方ありません。この後藤田が口を挟む筋合いではありませんし」
ため息混じりにおばさんは言った。あの人は「じゃあ頼んだよ」と言葉を残して、二階のドアに消えてしまった。
「みゅ~」
「何を捨てられたネコみたいな声を出しているんですか。早くこっちへきなさい。覚えることはいろいろありますよ」
「はいはい。今いきますです」
こうしてわたしはあの人のお屋敷で、住み込みで働くことになった。
それからしばらくたったある日、わたしはお洗濯をしていた。
あの人のお屋敷は大きくて人もたくさん住んでいるので、洗濯物もたくさんある。
「これで終わりです~」
そのたくさんの洗濯物を干し終わり、芝生に座ってひと休みしていると、いつしかわたしは眠ってしまっていた。
うとうとしながら、降り注ぐぽかぽかとした陽気を感じていると、誰かがわたしの頭を撫でているのがわかった。
懐かしい感触。
暖かな記憶。
そう、これはあの人だ。
「にゃ!?」
わたしは慌てて飛び起きた。
今のわたしは仔猫ではない。人間なのだから。
「す、すみませんですっ。すぐにお仕事に戻りますです」
「そんなに慌てなくてもいいよ」
そう言ってあの人は笑う。
「でも、こんなところを後藤田さんに見られたら大変だよ?」
「え? ええっ!?」
わたしはきょろきょろと辺りを見回した。
「大丈夫。さっきそこを通ったけど、ミイだってわからなかったみたい」
その言葉にわたしはほっと胸を撫で下ろした。そんなわたしを見て、あの人はいつかのように笑いをこらえていた。
「???」
わけがわからず首を傾げていると、わたしを呼ぶ後藤田さんの声が聞こえてきて、結局、理由は聞けないままだった。
また月日が流れた。
最近、何人もいたお手伝いさんがだんだんといなくなってきている。"とうさん"とか"ふさい"とかの言葉をよく聞くようになったことと関係があるのかもしれない。最後にはあの後藤田さんもいなくなって、大きなお屋敷は何だか寂しくなった。
「負債は出るわ、父上は汚職で捕まるわ。我が二階堂グループももう終わりだな」
あの人は紙の束を見ながら呟いた。
「あ、あの……、お茶でも入れましょうか?」
「ミイ。君が入れてくれるのかい? ……ああ、そうか。もう君しかいなかったね」
その言葉とともに向けられた寂しそうな笑顔に、わたしは何も言えず黙ってお茶に入れに部屋を出た。
「そうか、親子二代で仕えてくれた後藤田さんもここを出ていったのか……」
わたしの入れた紅茶をあの人はひと口飲んでから言った。
そして――、
「ミイ、君ももう自由なネコの生活に戻ったほうがいいね」
あの人はにっこり笑う。
それは思いがけない言葉だった。
「え……? 何でそれを……?」
「ほら、今の自分の姿を見てご覧」
そう言って、あの人は部屋の隅にある大きな姿見を指さした。わたしは言われた通り、その前までいって自分を写してみる。
「にゃにゃっ!?」
鏡に映ったわたしの髪の間からはネコの耳が、スカートの裾からはネコの尻尾が見えていた。
「知ってたかい? 君はね、驚いたりするといつもそうなるんだよ」
わたしは恐る恐るあの人の方へ振り返った。
「大丈夫だよ。僕以外は誰も気がついていないから」
そう言われてわたしは安心したような困ったような、複雑な気持ちだった。
「今日みたいな雨の日だったね、人間の姿をした君と会ったのは」
あの人は窓の外に広がる雨一色の風景を見ながら話しはじめた。
「びっくりしたよ。屋敷の前に立っている女の子が、かつて僕がネコのために置いてきた傘を持っているんだからね」
あの人は覚えてくれていた。
そう、わたしはあの日、大事な大事なあの傘をさしていた。
「声をかけたら、今みたいな姿になったんだ。すぐに耳と尻尾は消えてしまったけどね」
そのときのことを思い出したのか、あの人はくつくつと笑った。わたしは顔を赤くしながら、耳を手で押さえて隠す。
「君があのときのネコだと確信したのは、君が庭で昼寝をしていたときだよ。あのときの君はね、完全にネコの姿をしていたんだ。気づいてなかっただろう?」
「にゃ~……」
どうやらわたしは気が緩むとネコに戻っていたらしい。
「でも、なぜ何も言わなかったんですか? わたしがネコだとわかっていたのに……」
「簡単なことだよ。例えネコでも僕は君が好きだからさ」
「え……」
驚くわたしを見ながら、あの人は優しく微笑む。
「ああ、やっぱり自分に嘘はつけないね」
そう言って、肩をすくめた。
「前言撤回。ずっと僕のそばにいてくれるかい?」
この瞬間、わたしは世界一幸せなネコになった。
だから、わたしは誓う。
いつでも、どこでも、どんな世界でも、あの人のそばにいよう、と――。