夢視の宿
その男性は住み慣れた自宅のリビングにいました。
相対するのはまごう事なき彼の妻。彼女はリビングの木製テーブルに片肘を預ける形で、
なよなよとその場に崩れ落ちていました。
「…………」
彼は目を丸くしていました。ですがその表情は何処か嬉々とした、恍惚とも言える類のも
のです。振り抜いた平手をだらりと下げ、パシンと小気味良い殴打の音が室内に一瞬反響し
て消え失せます。
──事前の私の見立てが正しければこの直後、本来彼は猛烈な反撃を受けた事でしょう。
ですが彼の目の前の光景はそうではありませんでした。
彼女は、彼の妻はその場に崩れ落ちるように尻餅をついていただけでした。じんと沁みる
叩かれた頬が僅かに赤くなり、その両の瞳からはうるうると涙が零れています。
(も、もしかしてか、勝った……のか? 俺はこいつに一泡吹かせてやれたのか?)
しおらしく弱さを見せる妻。
こちらから危害を加えた筈なのに、彼はそんな彼女の様子を一抹の感動と共に見下ろして
いたのでした。
無理もありません。彼は普段、自身の妻に恐怖しながら暮らしていたのですから。
昔はもっと可憐だった、自分を愛してくれていたと思っていた。
なのに、いざ結婚してみればこの有様。自分勝手で機嫌が悪くなればすぐに手が出る世間
知らずのじゃじゃ馬女。でもそれに気付いた時にはもう下手に別れる事すらできない状況に
陥っていたのです。
彼はこれでも有名企業に勤めるいわばエリートであります。
ですので、まさか外で「妻が怖い」などとは漏らせませんし、ましてやそれを理由に離婚
などしてしまえば自分の顔に自分で泥を塗る事になりかねません。
ですから、彼はずっと家の中では──いえ実は内でも外でも妻に掌握させられた生活を余
儀なくされていたのでした。
「はっ、ははっ……!」
でも今は違う。やっと妻が妻らしくなったんだ。
彼はまだちょっとぎこちない乾いた笑いを漏らします。
まだ心臓はドキドキしていました。でも今なら普段の立場を逆転できる──この時の彼に
は本人自身何故か分からなくとも、そんな確信のような感覚が全身を覆っていたのでした。
「どうだ、痛いだろう? でもこんなもんじゃない。お前の我が侭はもっともっと俺達を苦
しませて来たんだ。分かるか、この痛みをっ!!」
こうなると、彼はもう止まりませんでした。
ザワザワっと身体中に漲ってきたある種粗暴な力。でも彼はそれを受け入れる──流され
る選択をしたようです。
大股で妻に詰め寄ると、彼は荒っぽく彼女の襟元を掴んで持ち上げると、また一発二発、
いや三発と続けざまの平手打ち。その殴打に抵抗することもなく、彼女はドサリと再び床の
上に倒れ込んでしまいます。
それでも彼は攻撃の手を止めませんでした。
今度は床の上でふらつく彼女に、ぎゅっと拳を握り締めて振り下ろし始めたのです。
一発や二発ではありません。最早連打とでも形容すべきでしょうか。彼は荒ぶる感情に任
せてひたすら妻を殴り続けていました。
「がはっ!? ぶぐっ! や、やめ──」
「五月蝿いッ! 黙れ、お前はそれだけの事をしたんだよッ!!」
血が流れていました。それでも彼は拳を振るうのを止めませんでした。
そこにもうかつての愛情などありません。
今彼を支配していたのは鬱積に鬱積を重ねた自身と妻、両者が綯い交ぜになった強烈な憎
悪の念であったのです……。
その女性は上機嫌で街を闊歩していました。
身に纏うのは煌びやかな衣装や装飾品の数々。それらは彼女自身の美貌と相まってその輝
きを一層増しているように思えます。
更に彼女の周囲を囲むのは、皆美形──イケメンというものでしょうか──揃いで、まる
で彼女をエスコートするように付き従っています。
彼らの手には大量の買い物袋。どれも高級ブランドの名を冠しています。
「あ、あれも欲しいな~。入るよ~?」
『はい喜んで!』
高級ブティックや貴金属店の建ち並ぶ街の中を進む彼女は、また一軒目に付いた店に彼ら
を引き連れて入っていくと、思う存分のショッピングを続けます。
しかし……。
「う~ん、迷っちゃうな……。まぁいっか。店長さん、この店の商品全部頂くわ」
「はい。ありがとうございます~」
でも最終的には絞る事すら面倒臭がりそんな台詞を残します。
こうして彼女は、これでもう何軒目になるかすらもう私にも分からないほどに高級店を梯
子しているようでした。
大量の収穫品。なのに彼女自身はアクセサリとしての小鞄を手に提げる以外は、全く荷物
を自分で持とうとはしません。そして店の人々が急ピッチで品物を梱包して運び出し、お付
きの美形達がそれらを受け取っている時間すらも待てないようで……。
「も~う、何ちんたらしてるのよ。ほらそこ、私のコレクションに傷がついてるぅ」
「あ。はい……申し訳ございません……ッ」
「ふんだ。あんたクビ」
そうあっさりと軽微なヘマをしでかした一人の若い美形にそう告げます。
彼は深々と頭を下げたままその場に立ち尽くしますが、彼女はそんな彼にはもう興味すら
存在すら見ていないかのように通り過ぎると、他の美形達と共に歩き出します。
「──……んぅ?」
その時です、ふと彼女の耳に携帯電話の着信音が聞こえてきました。
ちらりと振り向くと美形の一人がポケットから取り出したそのディスプレイに目を通して
います。自然と止まりかけた面々の足並み。彼は彼女にそっと近寄ると言います。
「旦那様からのようですが」
「そう。出なくていいよ? どうせ鬱陶しい用件だろうし」
「はぁ……。本当に宜しいので?」
「い・い・の!」
念を押されてむっと不機嫌になる彼女。
この美形は慌てて頭を下げて引っ込みました。着信音が鳴る電話も、応答される事なく切
られてしまいます。
……無理もないでしょう。あのまま食い下がってしまえば、彼もまた即座に首を切られて
いた筈でしょうから。
「ふんっ……」
再び彼女は取り巻き達を連れて歩き出しました。美形達も満杯の収穫品を抱えたまま、文
句を言える筈もなくただその後ろ姿についていくしかありません。
彼女は間違いなく信じて疑っていないのです。自分の権力とその栄華が続くことを。
財産も地位も名誉も、欲しいものは全て手に入れる。いや……手に入って当たり前。それ
が私の特権であり、意味である。世界は私を中心に回っており、そうならなければならない
のだと。
間違いなく、彼女は栄華の花道を闊歩していたのでした……。
その少年は薄暗くなった室内をゆっくりと歩いていました。
聞こえてくるのは夜の静寂の中に混じる小さな雑音。その中を息を殺しながら彼は歩を進
めてゆきます。
「……」
ですがその様子は異様でした。
暗闇の中に浮かんでいるのは静かに血走り殺気立った眼。更にその手にはだらりと台所か
ら取り出した包丁が握られています。
ゆっくりと歩を進めるにつれて床板がキコキコと小さな音を立てます。
それでも家人が目を覚ます様子はないようです。少年はぎらつく眼を最大限に見張って暗
闇の中を見据えて一歩一歩と目的の場所へと向かっていました。
──はたと足を止めたのは、二階の一室。
彼は一度そこでぎゅっと包丁を握り直すと、空いたもう一方の手でそっとドアを開けまし
た。ギギッと小気味良い音がします。
でも中にいた当人は気付いていないようでした。
「ZZZ……」
いかにも高級そうなベッドの中に身を預けて眠っているのは一人の女性。少年からみれば
ちょうど“母親”世代の年格好でしょうか。その割には若々しいような気もしますが……。
「…………」
その傍らに近寄った少年の殺気が一層研ぎ澄まされたように見えました。
ゆっくりと、起こさないように布団をはだけると、もぞっと女性は身を丸めこそしたもの
の起きる気配はありません。まだ意識は夢の中にあるようです。
ギチギチと。滾る力と憎悪と。
スゥっと深く静かに息を整えて。
「──ギャッ!?」
少年は、遠慮など一切無しに手にしたその包丁を彼女に向かって振り下ろします。
「なっ、何──がぁっ!!」
流石に女性は飛び起きようとしました。
ですが少年はそれを許しません。ひたすらその動きすら封殺するように、血走った眼で刃
を彼女の身体のあちこちに突き立て続けます。
断続的に彼女からあがるくぐもった声にならない悲鳴。
深々と刺される度にその寝間着からは真っ赤な血が滲み、小奇麗に整えられたベッドが、
寝室が汚されていきます。
「お前の……」
少年は、突き立てる度に血塗れになっていく彼女を睨みながら呟きます。
「お前の所為で、皆めちゃくちゃになったんだ!」
ドスッと突き刺す刃の感覚。
でもそんな感覚すらも今の彼には届きません。
「お前さえいなければ! お前さえいなければ……ッ!!」
ただ彼を支配していたのは目の前の“敵”の息の根を止めること。ただそれだけでした。
「──……ハァ、ハァ」
そして、どれだけその刺突行為が続いた後でしょう。
血みどろの海となった寝室とその中でぐったりと息絶えた彼女を見ろ下ろし、少年は荒く
息をついていました。
(……これで、いいんだ)
血走った眼は開きっ放しになったまま。握られた包丁も服も血塗れで。
少年は、危うい壊れた表情で笑うのでした……。
その青年は、深夜の自宅をじっと見上げていました。
時刻は真夜中を過ぎてすっかり丑三つ時です。勿論というべきか、辺りには彼以外の人影
も部屋の灯りもありません。
「……よし」
小さな声。彼はじっと見上げていた視線を下ろすとおもむろに歩き始めます。
すると家の裏手に向かった彼が物置から運んできたのは、手押し車に載せられた幾つもの
大きなポリタンク。
それらを手押し車から一個一個取り出すと、彼は黙々とその中身を自宅の壁──新聞や古
紙を束ねて重ねられた位置へと重点的に撒いていきます。
ボチャボチャと、流れ落ちて辺りを濡らしていく無色の液体。
それらからは臭気がします。私の見立てが間違いでないのなら……ガソリンです。
黙々とそれらを全て撒き散らすこと数分。
彼は念入りにその状況を確認するともぞもぞと上着のポケットを弄り始めました。
取り出したのは、何の変哲もないマッチ箱。
……もうこの青年が何をしようとしているのか言うまでもないでしょう。
彼がマッチを擦り、火の灯ったそれをガソリンでたっぷりと塗れた壁面に投げつけた次の
瞬間には、炎は猛烈な勢いで目の前の家屋を包み込んでいました。
「次……」
しかし青年は自宅が燃えている──いや燃やしたにも関わらず、不気味なほどあっさりと
した様子で踵を返すと、今度は勝手口の方へ回ります。
しかし既に彼によって準備されていたのか、そこには多数の重い角材が格子状に立て掛け
てありました。それを再確認し、彼が次に向かった玄関にも同じような“封鎖”が施してあ
るのを確認した頃には、彼の自宅はその大半が炎に包まれようとしていました。
僅かにですが、家の中から騒ぎ声が聞こえます。無理もないでしょう。
「……チッ」
でも、彼はその声を耳にした瞬間、静かな表情に明らかな不機嫌を滲ませて舌打ちをして
いました。そして念を押すように残りのマッチを一気に擦ると、粗雑に火の中に投げ入れて
しまいます。
辺りはこの青年の放った火の赤で染まっていました。
近い内にこの様子に気付き、辺りは騒ぎになることでしょう。
「…………消すんだ。」
それでも青年は暫し、燃え盛る我が家である筈その家屋を。
「消し去るんだ……。全部……」
いえ、その中にまだ取り残されているであろう自分の家族を見つめて呟きます。
その両の瞳は感情に乏しいようでしたが、今は燃え盛る赤色の光に染められるように異様
な明るさを帯びているようにも見えます。
「……全部、リセットするんだ……」
何処か危うい達成感に静かに悦としながら。
青年は暫く燃え盛る炎が勢いを増していくのを眺め続けたのでした……。
「──あの~、すみません」
その朝、フロントに顔を出したのは二人の息子を連れた一組の夫婦だった。
その内の一人は生意気盛りな少年。もう一人は学生らしき青年だった。
「はいはい。ただいま~」
父親の呼び掛けに答えて、ややあって奥から主人らしき和装の中年男性が姿を見せた。
全体的に丸みを帯びた小柄な体躯に、一ミリも崩れない営業スマイル。彼は無意識なよう
に揉み手をしながらこの一家を迎える。
「大木です。チェックアウトをお願いします」
「はい。かしこまりました~」
父親から鍵を受け取ると、主人はもそもそとフロントの中で作業を始めた。
その様子を見守りながら彼はふっと後ろに立つ家族らに、間を取り持つように話し掛けて
いた。
「……で、どうだった? この宿は」
「ん~? 普通かな」
「おい。あまり直球で言うなよ」
「でもねぇ、確かに風情はあるけど……何ていうか、しょぼいわよねぇ」
だが家族らの反応は芳しくはなかったようだった。
弟が愛想なく返答するのを窘める兄の横で、母親は更に辛辣な批評をのたまってみせる。
「おいおい……。折角の家族サービスなのにそれはないだろ……」
「ん? 何よ、私が言う事に文句でもあるわけ?」
そもそも彼女自身、この場所にそぐわないのだ。
場所は閑静な民宿──つまりは和風な空間であるのに、彼女はこれでもかと言わんばかり
の洋風な着飾りをしている。
「いや、別に文句という訳じゃないんだが……」
そんな妻を夫は扱いあぐねているのか、ただ気弱に応えるしかない。
「……でも、皆昨夜はよく眠れたんじゃないか?」
すると彼はふっと苦笑いを浮かべると、批評の連打を止めようとするかの如くそう違う話
題を振ってみせる。
「まぁ、そうね……。寝心地は最高だった、かも」
「うん。何ていうか安眠って感じだったな~」
「……ああ。夢を見れるぐらい眠れたみたいだ」
「だろう? 此処はな『快眠の宿』なんて呼ばれてるくらい、充実した休息の取れる事に定
評がある所なんだよ」
すると家族らは一様に渋々と肯定の反応を見せていた。
そんな返答に、夫はようやくホッとしたようで揚々とそう説明を口にする。
「おやおや。ではお客様もそのお話を聞いて当宿に?」
「ええ。ちょっと人伝に聞きましてね。どうせなら皆に疲れを取って貰える休暇の方がいい
だろうと思いまして……」
「そうなの。だけど、休むだけなんて退屈よ~」
「……だ、だから面と向かってそういう事を」
「何よ? 私に意見する気?」
「……。いや、いいよ。何でもない……」
それでもまだ尻に敷かれるやり取りをする彼らに、主人はのんびりと遠巻きに目を遣りつ
つも微笑んでいた。夫が「すみませんね」と苦笑いを見せても、お気にせずにと静かな微笑
を崩さずに応えるだけだった。
「……さて。じゃあ行こうか」
そしてチェックアウトの手続きも滞りなく済み、彼らは宿を後にしようとする。
何処か気だるい感じの妻子達。
そんな面々を連れて彼が踵を返そうとした、その時だった。
「……。どうか、お気をつけて」
ふとフロントの主人がそう何処かぐっと力を込めて言ったような気がした。
「大丈夫ですよ。ぐっすり寝ましたから、途中の運転も平気ですし」
夫は一瞬怪訝が過ぎるのを感じたが、すぐにその違和感は立ち消え、次の瞬間には苦笑で
誤魔化すという何時もの反応で振り返って言う。
コツコツとカーペットを歩く音を奏でて、四人はフロントを、宿を後にしていった。
その場に残されたのは主人一人だけ。
「……。まぁ、そういう意味じゃないんですけどね」
そして自分以外誰もいなくなったフロントの中で、彼はたっぷりと間を置いてから呟く。
「────気をつけるべきは、貴方達の不和にあると思うのですが」
そんな彼の背後、フロントの奥の部屋には、鈍重な配線が張り巡らされた無数のディスプ
レイ──まるで何かの監視画面のような装置──が不気味に鎮座していたのだった。
(了)