浮気は咎めません。ただ全部記録します。
アレクシ・モンフォールは、寝台の下に脱ぎ散らかした服に、手を伸ばした。シャツ、ベスト、ジャケットと順に袖を通す。
「アレクシ、もう帰っちゃうの?」
華奢な腕が、背中からアレクシを抱きしめた。
「別れ際に寂しい顔をする君が、僕は心底愛しいんだ。だからまた来たくなる」
アレクシは振り向きながら、彼女の唇を啄んだ。
『浮気は男性貴族の甲斐性だ』
父が酒席で笑いながら口にしていた言葉。それがふと、アレクシの耳に蘇った気がした。
アレクシは愛人の家を後にする。馬車に乗り込み、同じ王都の本宅に戻る頃には、朝日が昇り始めていた。
朝焼けに染まった石造りの屋敷は、威風堂々とした佇まいだ。玄関の扉は、ずっしりと腕に重くのしかかる。
その先に、人影が立っていた。アレクシの心臓が胸を打ち破るほど、大きく跳ねた。
「貴方。朝帰りするなら、先に仰ってくださいな」
「ななな、何でお前が——!」
玄関先に立っていたのはモンフォール侯爵夫人、エレオノール。正真正銘、アレクシの正妻である。
エレオノールの青灰色の目は、ニコリとすることなく、ただアレクシを真正面から捉えた。
「お疲れでしょうが、少しお話しましょう」
応接室の蝋燭が既に灯されていた。ビロードの椅子に腰掛けると、侍女が香り豊かな紅茶を淹れる。
エレオノールはティーカップに口をつけた後、そっとソーサーへと戻した。
「つまり、私が子どもたちと共に実家に戻っている間に、愛人宅で三泊を過ごしていたのですね。私が帰宅を早めたことが予想外であったと」
エレオノールの要約に、アレクシの心音はドッドッドッと駆け続ける。それを隠すように、机に拳を振り下ろした。紅茶がチャプンと揺れた。
「急に予定変更をして夫を騙すなど! それで追い詰めたつもりか!? この俺を!」
アレクシの顔は逆上の赤に染まっている。一方でエレオノールは、氷のように動じない。
アレクシはエレオノールと五年の婚約を経て、エレオノールの成人と同時に婚姻した。それが十年前だ。
かつては『クリスタルの姫君』と持て囃された彼女も、三十路を前にして、アレクシの目には何の変哲もなく映っている。二人の兄妹が生まれた後は、すっかり夜の生活もご無沙汰となった。
「今更不貞を咎めるような関係でもないだろう! 不服があるなら言ってみろ!」
エレオノールは小さく首を横に振る。
「いいえ。そんなつもりはございません。もちろんこんなことで離婚を申し出るほど、心が狭いつもりもございません」
アレクシは動きを止めた。頭の熱が引いた。続く言葉に耳を引っ張られた。
「ただその代わり、契約いたしましょう。貴方の不貞を一切咎めない代わりに、帰宅後は必ず私に仔細を包み隠さず報告すると」
エレオノールは微笑んだ。その青灰色の目は、慈しみの女神のようだった。
三日後。アレクシは日が昇った頃に帰宅する。
「今日は彼女に花束を渡したんだ。彼女は薄紅が好きだから、プリンセスローズにしたよ」
アレクシはエレオノールの書斎で、今日の報告をする。エレオノールは執務机で、その報告にじっと耳を傾けていた。その対面で、アレクシはオットマンに腰掛けている。
執務机のランプがエレオノールの手元を照らす。帳面に、文字が澱みなく書き込まれていく。
「彼女は感動で大はしゃぎしてね。『こんなにロマンチックな恋ができるなんて、私は幸せだわ』だとさ。花束一つで大袈裟だと思ったが、それが若さなんだろうね」
アレクシは足を組みながら、肩をすくめた。
「まぁ。それは愛らしいわね。それで、その後は?」
エレオノールは表情を揺らさない。アレクシはほんの少したじろいだ。
「……その後は、寝台へ。行為に及んだよ」
「それは、どう始まったの?」
「どうって……口付けから、普通に」
「どちらから口付けを?」
「そ、そこまで聞くのか?」
「契約書を交わしたでしょう?」
——不貞の報告において、黙秘・偽証をしてはならない。
アレクシはその一文を思い出し、ガックリと項垂れた。
「俺からだ」
「それは軽いキスから? それとも深く?」
「……軽く、徐々に深く」
「彼女の体はどこから触ったの?」
「……! そ、それは……!」
アレクシは気まずさに狼狽えた。しばらく口をパクパクとさせていると、エレオノールは溜め息をこぼした。
「今日のところはこのくらいにしましょうか。また次回もよろしくね」
エレオノールが目を細めた。アレクシは、疲弊と安堵で天井を見上げた。
——これは思ったより大変かもしれない。
それから五日後。
アレクシと愛人が馬車に隣り合う。その手は指を絡めながら繋がれている。
「今日の劇、素敵だったわね」
彼女はアレクシの肩に頭をもたげ、アレクシを見上げた。
瞳は湿っぽく、唇は艶っぽい。
アレクシはそっと、その唇にキスを落とした。
「ねえ……アレクシ……」
彼女が甘ったるく耳に息を吹きかける。
「こらこら。馬車の中だろう。誰かに見られたらどうする。帰ったら存分に可愛がってあげるから」
「もう……変なところで真面目なんだから」
そんなくすぐったい会話をしていると、愛人宅へと馬車が到着した。
——再び、翌朝のモンフォール本邸。
「それで、馬車では致さなかったと。それは我慢をしたの? その気にならなかったの?」
エレオノールは再び、帳面にインクを走らせる。
「その気になんかなるわけないだろう! 馬車だぞ!?」
「本当に? ピクリとも?」
「当たり前だろ! 何でそんなことを聞くんだ!」
「大事なことよ。帰ってからはどこで行為に及んだの?」
「寝台だ!」
「そこに到着するまでに性的な触れ合いは?」
「なっ……! そんな乱暴なことするか!」
アレクシは顔を真っ赤にしていた。その様子をエレオノールはじっと眺めた。
青灰色の目に、アレクシの背筋が粟立つ。
「今日はここまでね」
エレオノールの唇が弧を描く。アレクシは、膝の上で頭を抱えた。
それから七日後。
アレクシは寝台の上で、愛人を組み敷いていた。自身の影の中で、恥ずかしげにはにかむ姿に、アレクシの理性は心地よく揺さぶられる。
彼女にキスを落とそうとした瞬間。
『キスで舌を入れるとき、歯列を舐める? それとも相手の舌に絡めようとする?』
エレオノールの声が、アレクシの鼓膜に焼き付くように蘇った。
アレクシはピタリと自身の体を止めた。
「……? アレクシ?」
愛人の目がアレクシを見上げる。アレクシは意識を取り戻すのに、数秒かかった。
「いや……何でもないよ」
それからアレクシは、羽のようなキスを数回落とした。
——月が天頂を昇る頃のモンフォール本邸。
「今日は随分と接触行為が少なかったのね。彼女、不審がらなかったの?」
「なっ……!」
アレクシが言葉を失っていると、エレオノールが帳面をマジマジと眺めた。
「軽いキスを複数回繰り返し、胸、腰、尻と接触後、指で慣らしたらすぐ挿入。いつもなら口淫も挟むわよね」
「や……やめろ!!」
アレクシは椅子から立ち上がる。その顔からは血の気が引いていた。
エレオノールは執務椅子に腰掛けたまま、アレクシを見つめた。
「契約書をお忘れかしら?」
——契約不履行時は、アレクシ・モンフォールがその財産を放棄したものと見なす。
脳裏に浮かんだ一文が、アレクシの首を絞めつける。
アレクシは力無く椅子に座り直した。
「どうして今日はいつもよりも内容が軽めだったの?」
「お前に質問されるかと思うと……その気がなくなって……」
「私の質問で? それは可哀想なことをしたわね」
エレオノールは「少し方法を変えた方がいいかしら?」と、無表情で首を傾げた。
アレクシはその様に、腑を弄られたような心地がした。
それから十日後。
愛人宅の寝台が、ユッサユッサと揺れる。その振動源のアレクシは、途中でピタリとその動きを止めた。
「……あ……」
アレクシはか細い声を漏らす。愛人の女は、弾ませていた息を整えながら、アレクシの名前を困惑気味に呼んだ。
「すまない……」
アレクシは自身を愛人から引き離した。彼女は枕の上で首を傾げるが、やがて「あっ」と声を上げた。
「そんな日もあるわ」
彼女が優しく、アレクシの頭を抱いた。その優しさが、アレクシのプライドに沁みた。
——皆が寝静まろうとする頃のモンフォール本邸。
「まあ。中折れ? それは初めての出来事ね」
エレオノールは淡々と言った。その音に、アレクシの心臓が貫かれる。
アレクシは膝の上で顔を覆う。情けなさに涙腺が震える。
「中折れした時って、感覚に変化はあるものなの? 膨張感が萎むのは、その場ですぐわかるものなの?」
エレオノールはいつもの調子で質問を重ねる。アレクシは、椅子の上で縮まるように頭を抱えた。
「やめて……やめてくれ……」
「あら。ごめんなさい。男の人にとってそんなに辛いことなのね」
エレオノールはパタンと帳面を閉じた。その音に、アレクシは救済と解放を聞いた。アレクシが顔を上げると、エレオノールは優しく微笑んでいた。
「一つだけ聞かせて。どうして折れてしまったの?」
アレクシは目の前が真っ暗になる心地だった。
それから二週間後。
アレクシは久しぶりに愛人宅へ向かおうとしたが、馬車の中で頭を抱えていた。
『また、失敗したらどうしよう』
その思いがアレクシの鼓動を不快気に走らせる。じんわりと、手のひらに汗が滲んでいた。
馬車が停まった。ドキリと、アレクシの心臓が大きく跳ねる。
「ご到着しました」
御者が馬車の扉を開けて告げる。アレクシは、その場から動けなかった。
「気が変わった。帰宅してくれ」
御者は無表情に頷き、馬車の扉を閉めた。
更に二週間後。
流石にアレクシも心の傷が落ち着き始め、再び愛人宅へ向かう気になっていた。
愛人は明るく歓迎してくれた。ほっと、アレクシは胸を撫で下ろす。
二人は抱擁とキスをじっくりと重ねた。久しぶりの彼女の体は柔らかく、いい匂いがして、アレクシも愛しさに埋没する。
しかし。
「アレクシ、疲れてるのよ、きっと」
その夜、アレクシの下半身が熱を持つことはなかった。
——明け方、モンフォール本邸。
「エレオノール。もう俺は男としてダメかもしれない」
エレオノールの執務室。アレクシは帰宅するなり、さめざめと泣き始めた。
「無理なんだ。どれだけ献身的にされても、反応しない。お前の声が聞こえてくるんだ。俺が悪かった。だからどうか」
アレクシの懺悔を、エレオノールはいつも通り帳面に記録する。
やがてアレクシの嗚咽だけが、部屋に響いた。
しばらくして、アレクシが冷静を取り戻し、顔を上げた。
執務机でエレオノールは、じっとアレクシを眺めていた。その青灰色と目が合うと、彼女は穏やかに目を細めた。
アレクシは、その微笑みに後光を見た気がした。
「貴方。私は貴方を非難したいなどと、一度も思ったことはないわ」
それは、女神の赦しの言葉だった。
「貴方の性機能のことは、ゆっくり治していけばいいわ。まだ若いんだもの。大丈夫よ」
そう言ってエレオノールは席を立ち、アレクシの元で膝を屈めた。そしてアレクシの両手を包んだ。
アレクシは、その手の温かさに目を見開く。エレオノールの金糸のような髪が陽光に照らされ、青灰色の目が澄んだ湖のようだった。
「アレクシ。よく思い出して、想像してみて」
アレクシはまるで子どものように、「うん」と頷いた。
「愛人の彼女に挿入したときの感触。柔らかかった? それとも締め付けられる心地? 温度は? 湿度は? 当たり心地は? ザラつきはあった? 日によって違いはあった? 月経前後ではどうだった?」
エレオノールの口がぐるりぐるりと回る。アレクシの指から熱が失われる。
「それ全部、私と比較すると何が違って、どちらが気持ち良かった?」
エレオノールの頬に赤みが差していた。アレクシには確かに聞こえた——己の心が砂状に崩れゆく音が。
後日、モンフォール本邸。
テラスに、昼下がりの柔らかい日差しが降り注ぐ。
エレオノールは読書を楽しんでいた。
「奥様の復讐は、悍ましいです」
エレオノールの専属侍女が、紅茶を淹れながら言った。
エレオノールは紅茶を受け取り、一口すする。
「復讐なんかじゃないわ。私は一度だって彼に怒ったことなどないのよ」
「でも旦那様は今や自室に引きこもり。あの様子では……」
侍女はそれ以上、口を噤む。エレオノールは穏やかに微笑んだ。
「長い人生、そんな時期もあるわ。休ませてあげましょう。また元気になってもらわないとね」
そう言ってエレオノールは手元の帳面のページを、一枚一枚めくる。そこにはビッシリと、端正な文字が列をなしていた。
侍女の目にその中身が映った。すると彼女は眉根を寄せ、静かにその場を離れた。
エレオノールは帳面の文字を、愛し気に指で撫でる。
「この頃のアレクシは調子が良かったのよね。三回も射精しているわ。ふふ。一晩中、別の女に腰を振っていたかと思うと——ああ、何だか私、恋してるみたいにドキドキするわ」
エレオノールは陶酔に目を潤ませ、帳面をパタリと閉じた。
「元気になったら、次はどんな女と浮気するのかしら? 今度はもっと、退廃的な女にして欲しいわね。その方がアレクシの行為のバリエーションも増えて楽しいわ」
エレオノールは歌う。そして帳面の表紙に、そっとキスをした。




