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浮気は咎めません。ただ全部記録します。

作者: 黒井アン子
掲載日:2026/07/19

 アレクシ・モンフォールは、寝台の下に脱ぎ散らかした服に、手を伸ばした。シャツ、ベスト、ジャケットと順に袖を通す。

「アレクシ、もう帰っちゃうの?」

 華奢な腕が、背中からアレクシを抱きしめた。

「別れ際に寂しい顔をする君が、僕は心底愛しいんだ。だからまた来たくなる」

 アレクシは振り向きながら、彼女の唇を啄んだ。

『浮気は男性貴族の甲斐性だ』

 父が酒席で笑いながら口にしていた言葉。それがふと、アレクシの耳に蘇った気がした。


 アレクシは愛人の家を後にする。馬車に乗り込み、同じ王都の本宅に戻る頃には、朝日が昇り始めていた。

 朝焼けに染まった石造りの屋敷は、威風堂々とした佇まいだ。玄関の扉は、ずっしりと腕に重くのしかかる。

 その先に、人影が立っていた。アレクシの心臓が胸を打ち破るほど、大きく跳ねた。

「貴方。朝帰りするなら、先に仰ってくださいな」

「ななな、何でお前が——!」

 玄関先に立っていたのはモンフォール侯爵夫人、エレオノール。正真正銘、アレクシの正妻である。

 エレオノールの青灰色の目は、ニコリとすることなく、ただアレクシを真正面から捉えた。

「お疲れでしょうが、少しお話しましょう」


 応接室の蝋燭が既に灯されていた。ビロードの椅子に腰掛けると、侍女が香り豊かな紅茶を淹れる。

 エレオノールはティーカップに口をつけた後、そっとソーサーへと戻した。

「つまり、私が子どもたちと共に実家に戻っている間に、愛人宅で三泊を過ごしていたのですね。私が帰宅を早めたことが予想外であったと」

 エレオノールの要約に、アレクシの心音はドッドッドッと駆け続ける。それを隠すように、机に拳を振り下ろした。紅茶がチャプンと揺れた。

「急に予定変更をして夫を騙すなど! それで追い詰めたつもりか!? この俺を!」

 アレクシの顔は逆上の赤に染まっている。一方でエレオノールは、氷のように動じない。


 アレクシはエレオノールと五年の婚約を経て、エレオノールの成人と同時に婚姻した。それが十年前だ。

 かつては『クリスタルの姫君』と持て囃された彼女も、三十路を前にして、アレクシの目には何の変哲もなく映っている。二人の兄妹が生まれた後は、すっかり夜の生活もご無沙汰となった。


「今更不貞を咎めるような関係でもないだろう! 不服があるなら言ってみろ!」

 エレオノールは小さく首を横に振る。

「いいえ。そんなつもりはございません。もちろんこんなことで離婚を申し出るほど、心が狭いつもりもございません」

 アレクシは動きを止めた。頭の熱が引いた。続く言葉に耳を引っ張られた。

「ただその代わり、契約いたしましょう。貴方の不貞を一切咎めない代わりに、帰宅後は必ず私に仔細を包み隠さず報告すると」

 エレオノールは微笑んだ。その青灰色の目は、慈しみの女神のようだった。


 三日後。アレクシは日が昇った頃に帰宅する。

「今日は彼女に花束を渡したんだ。彼女は薄紅が好きだから、プリンセスローズにしたよ」

 アレクシはエレオノールの書斎で、今日の報告をする。エレオノールは執務机で、その報告にじっと耳を傾けていた。その対面で、アレクシはオットマンに腰掛けている。

 執務机のランプがエレオノールの手元を照らす。帳面に、文字が澱みなく書き込まれていく。

「彼女は感動で大はしゃぎしてね。『こんなにロマンチックな恋ができるなんて、私は幸せだわ』だとさ。花束一つで大袈裟だと思ったが、それが若さなんだろうね」

 アレクシは足を組みながら、肩をすくめた。

「まぁ。それは愛らしいわね。それで、その後は?」

 エレオノールは表情を揺らさない。アレクシはほんの少したじろいだ。

「……その後は、寝台へ。行為に及んだよ」

「それは、どう始まったの?」

「どうって……口付けから、普通に」

「どちらから口付けを?」

「そ、そこまで聞くのか?」

「契約書を交わしたでしょう?」


 ——不貞の報告において、黙秘・偽証をしてはならない。


 アレクシはその一文を思い出し、ガックリと項垂れた。

「俺からだ」

「それは軽いキスから? それとも深く?」

「……軽く、徐々に深く」

「彼女の体はどこから触ったの?」

「……! そ、それは……!」

 アレクシは気まずさに狼狽えた。しばらく口をパクパクとさせていると、エレオノールは溜め息をこぼした。

「今日のところはこのくらいにしましょうか。また次回もよろしくね」

 エレオノールが目を細めた。アレクシは、疲弊と安堵で天井を見上げた。

 ——これは思ったより大変かもしれない。


 それから五日後。

 アレクシと愛人が馬車に隣り合う。その手は指を絡めながら繋がれている。

「今日の劇、素敵だったわね」

 彼女はアレクシの肩に頭をもたげ、アレクシを見上げた。

 瞳は湿っぽく、唇は艶っぽい。

 アレクシはそっと、その唇にキスを落とした。

「ねえ……アレクシ……」

 彼女が甘ったるく耳に息を吹きかける。

「こらこら。馬車の中だろう。誰かに見られたらどうする。帰ったら存分に可愛がってあげるから」

「もう……変なところで真面目なんだから」

 そんなくすぐったい会話をしていると、愛人宅へと馬車が到着した。


 ——再び、翌朝のモンフォール本邸。

「それで、馬車では致さなかったと。それは我慢をしたの? その気にならなかったの?」

 エレオノールは再び、帳面にインクを走らせる。

「その気になんかなるわけないだろう! 馬車だぞ!?」

「本当に? ピクリとも?」

「当たり前だろ! 何でそんなことを聞くんだ!」

「大事なことよ。帰ってからはどこで行為に及んだの?」

「寝台だ!」

「そこに到着するまでに性的な触れ合いは?」

「なっ……! そんな乱暴なことするか!」

 アレクシは顔を真っ赤にしていた。その様子をエレオノールはじっと眺めた。

 青灰色の目に、アレクシの背筋が粟立つ。

「今日はここまでね」

 エレオノールの唇が弧を描く。アレクシは、膝の上で頭を抱えた。


 それから七日後。

 アレクシは寝台の上で、愛人を組み敷いていた。自身の影の中で、恥ずかしげにはにかむ姿に、アレクシの理性は心地よく揺さぶられる。

 彼女にキスを落とそうとした瞬間。

『キスで舌を入れるとき、歯列を舐める? それとも相手の舌に絡めようとする?』

 エレオノールの声が、アレクシの鼓膜に焼き付くように蘇った。

 アレクシはピタリと自身の体を止めた。

「……? アレクシ?」

 愛人の目がアレクシを見上げる。アレクシは意識を取り戻すのに、数秒かかった。

「いや……何でもないよ」

 それからアレクシは、羽のようなキスを数回落とした。


 ——月が天頂を昇る頃のモンフォール本邸。

「今日は随分と接触行為が少なかったのね。彼女、不審がらなかったの?」

「なっ……!」

 アレクシが言葉を失っていると、エレオノールが帳面をマジマジと眺めた。

「軽いキスを複数回繰り返し、胸、腰、尻と接触後、指で慣らしたらすぐ挿入。いつもなら口淫も挟むわよね」

「や……やめろ!!」

 アレクシは椅子から立ち上がる。その顔からは血の気が引いていた。

 エレオノールは執務椅子に腰掛けたまま、アレクシを見つめた。

「契約書をお忘れかしら?」


 ——契約不履行時は、アレクシ・モンフォールがその財産を放棄したものと見なす。


 脳裏に浮かんだ一文が、アレクシの首を絞めつける。

 アレクシは力無く椅子に座り直した。

「どうして今日はいつもよりも内容が軽めだったの?」

「お前に質問されるかと思うと……その気がなくなって……」

「私の質問で? それは可哀想なことをしたわね」

 エレオノールは「少し方法を変えた方がいいかしら?」と、無表情で首を傾げた。

 アレクシはその様に、腑を弄られたような心地がした。


 それから十日後。

 愛人宅の寝台が、ユッサユッサと揺れる。その振動源のアレクシは、途中でピタリとその動きを止めた。

「……あ……」

 アレクシはか細い声を漏らす。愛人の女は、弾ませていた息を整えながら、アレクシの名前を困惑気味に呼んだ。

「すまない……」

 アレクシは自身を愛人から引き離した。彼女は枕の上で首を傾げるが、やがて「あっ」と声を上げた。

「そんな日もあるわ」

 彼女が優しく、アレクシの頭を抱いた。その優しさが、アレクシのプライドに沁みた。


 ——皆が寝静まろうとする頃のモンフォール本邸。

「まあ。中折れ? それは初めての出来事ね」

 エレオノールは淡々と言った。その音に、アレクシの心臓が貫かれる。

 アレクシは膝の上で顔を覆う。情けなさに涙腺が震える。

「中折れした時って、感覚に変化はあるものなの? 膨張感が萎むのは、その場ですぐわかるものなの?」

 エレオノールはいつもの調子で質問を重ねる。アレクシは、椅子の上で縮まるように頭を抱えた。

「やめて……やめてくれ……」

「あら。ごめんなさい。男の人にとってそんなに辛いことなのね」

 エレオノールはパタンと帳面を閉じた。その音に、アレクシは救済と解放を聞いた。アレクシが顔を上げると、エレオノールは優しく微笑んでいた。

「一つだけ聞かせて。どうして折れてしまったの?」

 アレクシは目の前が真っ暗になる心地だった。


 それから二週間後。

 アレクシは久しぶりに愛人宅へ向かおうとしたが、馬車の中で頭を抱えていた。

『また、失敗したらどうしよう』

 その思いがアレクシの鼓動を不快気に走らせる。じんわりと、手のひらに汗が滲んでいた。

 馬車が停まった。ドキリと、アレクシの心臓が大きく跳ねる。

「ご到着しました」

 御者が馬車の扉を開けて告げる。アレクシは、その場から動けなかった。

「気が変わった。帰宅してくれ」

 御者は無表情に頷き、馬車の扉を閉めた。


 更に二週間後。

 流石にアレクシも心の傷が落ち着き始め、再び愛人宅へ向かう気になっていた。

 愛人は明るく歓迎してくれた。ほっと、アレクシは胸を撫で下ろす。

 二人は抱擁とキスをじっくりと重ねた。久しぶりの彼女の体は柔らかく、いい匂いがして、アレクシも愛しさに埋没する。

 しかし。

「アレクシ、疲れてるのよ、きっと」

 その夜、アレクシの下半身が熱を持つことはなかった。


 ——明け方、モンフォール本邸。

「エレオノール。もう俺は男としてダメかもしれない」

 エレオノールの執務室。アレクシは帰宅するなり、さめざめと泣き始めた。

「無理なんだ。どれだけ献身的にされても、反応しない。お前の声が聞こえてくるんだ。俺が悪かった。だからどうか」

 アレクシの懺悔を、エレオノールはいつも通り帳面に記録する。

 やがてアレクシの嗚咽だけが、部屋に響いた。


 しばらくして、アレクシが冷静を取り戻し、顔を上げた。

 執務机でエレオノールは、じっとアレクシを眺めていた。その青灰色と目が合うと、彼女は穏やかに目を細めた。

 アレクシは、その微笑みに後光を見た気がした。

「貴方。私は貴方を非難したいなどと、一度も思ったことはないわ」

 それは、女神の赦しの言葉だった。

「貴方の性機能のことは、ゆっくり治していけばいいわ。まだ若いんだもの。大丈夫よ」

 そう言ってエレオノールは席を立ち、アレクシの元で膝を屈めた。そしてアレクシの両手を包んだ。

 アレクシは、その手の温かさに目を見開く。エレオノールの金糸のような髪が陽光に照らされ、青灰色の目が澄んだ湖のようだった。

「アレクシ。よく思い出して、想像してみて」

 アレクシはまるで子どものように、「うん」と頷いた。


「愛人の彼女に挿入したときの感触。柔らかかった? それとも締め付けられる心地? 温度は? 湿度は? 当たり心地は? ザラつきはあった? 日によって違いはあった? 月経前後ではどうだった?」

 エレオノールの口がぐるりぐるりと回る。アレクシの指から熱が失われる。

「それ全部、私と比較すると何が違って、どちらが気持ち良かった?」

 エレオノールの頬に赤みが差していた。アレクシには確かに聞こえた——己の心が砂状に崩れゆく音が。


 後日、モンフォール本邸。

 テラスに、昼下がりの柔らかい日差しが降り注ぐ。

 エレオノールは読書を楽しんでいた。

「奥様の復讐は、悍ましいです」

 エレオノールの専属侍女が、紅茶を淹れながら言った。

 エレオノールは紅茶を受け取り、一口すする。

「復讐なんかじゃないわ。私は一度だって彼に怒ったことなどないのよ」

「でも旦那様は今や自室に引きこもり。あの様子では……」

 侍女はそれ以上、口を噤む。エレオノールは穏やかに微笑んだ。

「長い人生、そんな時期もあるわ。休ませてあげましょう。また元気になってもらわないとね」

 そう言ってエレオノールは手元の帳面のページを、一枚一枚めくる。そこにはビッシリと、端正な文字が列をなしていた。

 侍女の目にその中身が映った。すると彼女は眉根を寄せ、静かにその場を離れた。


 エレオノールは帳面の文字を、愛し気に指で撫でる。

「この頃のアレクシは調子が良かったのよね。三回も射精しているわ。ふふ。一晩中、別の女に腰を振っていたかと思うと——ああ、何だか私、恋してるみたいにドキドキするわ」

 エレオノールは陶酔に目を潤ませ、帳面をパタリと閉じた。

「元気になったら、次はどんな女と浮気するのかしら? 今度はもっと、退廃的な女にして欲しいわね。その方がアレクシの行為のバリエーションも増えて楽しいわ」

 エレオノールは歌う。そして帳面の表紙に、そっとキスをした。

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― 新着の感想 ―
奥様は現役官能小説家で取材かなーと思ったけど、純粋に趣味か。 そして浮気して開き直る割に肝が小さい男だな。
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