ある秋の紫紋ふみ
秋の午後。
京都郊外の老舗旅館「楓庵」の離れに、缶詰にされた女性作家が一人。
紅葉した楓の木が庭に影を落とし、崩れかけた石垣の向こうでは、秋草が風に揺れている。
そんな静かな場所に、彼女はいた。
紫紋ふみ――三十二歳。文才と憂いを纏った人気恋愛作家。
『源氏の恋』シリーズは、男女を問わず読者の間で話題沸騰。
編集部の強い要望で、締切前の“集中執筆缶詰”として、この旅館に滞在している。
彼女の傍らには、出版社から派遣された若手女性担当者――私、斎藤多恵子がいる。
「ふぅ〜、やっとスッキリしました〜」
私は、旅館の縁側で髪をとかし終え、ブラシを片付けながら満足げに息をついた。
「最近ずっと頭がムズムズしてて……急に髪とかしたくなるんですよね。変なタイミングですみません、先生」
そう言って、ぺたんと座布団に正座してぺこりと頭を下げる。
先生はノートパソコンのキーを打ちながら、ちらっと目を上げて微笑む。
「そんなにかしこまらなくていいのよ。ここは編集部じゃないから、好きにしていいの」
「え、本当ですか?ありがたすぎる……いやもう、すでにめっちゃ自由にさせてもらってるんですけど、これ以上はさすがに申し訳ないです」
私はそう言いながら、ノートパソコンの画面をちらりと覗き見る。
そこには、源氏の君の憂いと恋が静かに、しかし熱く綴られていた。
そして、離れの向こうに見える小さな公園では―― 毎日夕方になると、私が名付けた“呟きおじさん”がベンチで今日も西の空を睨み続けて瞑想を始めようとしていた。
秋の空気が静かに流れていく。
先生は黙ってキーボードを打ち続ける。
私は、そっと机の様子を覗き見る。
「……先生、今日も絶好調ですね。源氏の君、また誰かに恋してます?」
先生は返事をせず、ただ指先を止めずに動かし続ける。
隣の公園では、“呟きおじさん”が、ベンチに座り西の空を睨みながら一人でブツブツと何事かを呟いていた。
庭に響く虫の声と呟きと、恋の予感が、静かに交差する――。
そのとき生垣の向こうに、何かが忍び寄っていた。
先生は指を止め、そっと呟く。
「……誰か、来たようだわ」
「え? 何処ですか?」
私が縁側から身を乗り出すと、石垣の陰に妙な女が屈み込んでいた。
しかも手招きしている。
「え、ちょっと……誰ですか? ここ、関係者以外立ち入り禁止なんですけど」
先生はすっと立ち上がると、パーテーションの陰に身を隠した。
「メイクしてない顔を見られるのは嫌だわ。わたしは隠れるから用心してね」
「はいはい、了解です。っていうか、昼間っから黙って手招きって……まさか変なファン?盗撮とかじゃないですよね?」
私はスマホを握りしめ、警戒モードに入る。
紅葉した楓の木の下、崩れかけた石垣の陰に、若い女性がしゃがみ込んでいた。
私は縁側に置かれたサンダルを履くと、警戒しながら近づく。
すると、女の子がぬっと立ち上がった。
「こんにちは」
「うわっ! びっくりした!急に立ち上がるとかやめてくださいよ!」
「すみません、驚かせるつもりはなかったんです」
「で、何かご用ですか?」
女の子は少し緊張した様子で言った。
「そこでパソコンを使っていた人は……紫紋先生ですよね?」
「誰に聞いたんですか?」
女の子は質問に答えず、勝手に話を始めた。
「そして、今書いていらっしゃるのは……『源氏の恋』の続きですよね?」
「それは……私にもわかりませんけど」
女の子は胸の手を当て、陶酔したように語り始めた。
「いや、間違いありません。先生は今、夕顔の死を忘れられない源氏の君の心を思いやって……そう、そこから次の恋人との出会いへとストーリーを進めているはずです。そうですよ、きっと、そうですよ……!」
私は恍惚とした表情を浮かべる女の子に強い口調で咎めた。
「貴方が先生の大ファンだということは判りましたけど、ここにいると先生の気が散るので、あちらに行ってくれませんか。でないと不審者として警察を呼びますよ!」
女の子は厳しい表情の私を見て、真っ赤な顔になると私に手紙を押し付けるように手渡し小走りで去っていった。
私は、ぽかんと口を開けたまま、私はパーテーションの陰をちらりと見た。
その向こうでは、先生がそっと微笑んでいた。
「……ふふ。あれは恋の香りに酔ってるだけの恋愛小説マニアよ」
先生の声は静かで、どこか冷ややかだった。
旅館「楓庵」の庭に、虫の声が満ちる夕暮れ。
私はしばらく呆然と立ち尽くしていた。
「……先生、先生」
部屋のパーテーションの陰から、紫紋先生が静かに現れる。
言葉は少なく、ただ手を差し出す。
私は先生に、ぼやくように顛末を話した。
「本当に妙な子でしたよ。顔は可愛いのに、言ってることはちょっと……っていうか、だいぶ変でした」
先生は封筒を受け取り、中の手紙に目を通す。
「……ああ、話さなくてもいいわ。全部、陰で聞いてたから」
先生は大きく溜息を吐く。
「真正面からぶつかる気魄もなく、ただふわふわとした甘い物語を好む……典型的な恋愛オタクだわ。あっちで断られれば、こっちの恋に乗り移る。こんなもの…流石に呆れ果てるわね」
そう言って、先生は封筒に入っていたファンレターを無造作に私に手渡した。
手紙には、この先の展開についての希望が書き連ねてあった。
その自己主張の激しい文章を見た私は目を丸くした。
「……ほんとに、非常識な子でしたね。ちょっと気味が悪いかも 」
先生は画面を見つめながら、ふっと笑った。
「でも、面白い子ね。いい話のネタになるわ」
奇妙な女の子にインスピレーションを刺激されたのか、パソコンに向かい再び指を走らせる先生。
その背を私は所在なさげに見つめていた。
鐘の音が遠くから響き、虫の声が庭に満ちていく中でカタカタとキーボードの音が鳴り響く。
先生は、また恋物語の中へと沈んでいった。
夕暮れが近づき、旅館「楓庵」の庭に虫の音が静かに空気を満たす 。
虫の音を背景に先生は黙々と執筆を続けていた。
私は先生にそっと声をかけた。
「先生……ちょっと言いづらいんですけど、今朝からずっと座りっぱなしですよね。さすがに身体に悪いんじゃ……?」
先生は指を止めず、少しだけ微笑んだ。
「いいアイデアが浮かんだの。物を書くのは……まあ、性分ね」
「性分……ですか?」
私は首をかしげながら、ふと庭の向こうに目をやる。
「そういえば、ここに来てから、とても興味をひかれる人を二人見ました。一人はあそこの“呟きおじさん”、もう一人は先生。世間にこれほど根を詰める人って、なかなかいないですよ。一人は西の空を睨み続け、もう一人は恋愛小説を書き続ける……やっぱり、あの人も性分ですかね?」
先生はくすりと笑う。
「うふふ。あちらさんは、だいぶ御執心のようね」
「ていうか、あの人って何してるんですか?昼も夜も、ずーっと西の空見て喋ってるだけなんですけど」
「妄想をしてるのよ」
「妄想ですか?」
「そう。自分に特別な能力があると信じているのかもね。そんな能力があると信じて、身も心もそちらへ向け切っていれば、いつか隠された力が解放されると信じてるのね」
「へぇ……ああやってると、そんな超能力みたいなものが使えるんですか?」
「まさか。ただその人は、そうだと信じてるのよ」
「でもその人って……正気なんですか?」
先生はキーボードから指を放し、少しだけ目を伏せる。
「正気なのかもしれないし、正気じゃないかもしれない」
「えー……じゃあ、あのおじさん、おかしな人ってことじゃないですか」
「おかしな人かどうか、それは判らないわ。私と同じなのかもしれないし」
先生はそっと行間にカーソルを進める。 キーボードを打つ手は、ほんの少しだけ震えていた。
夕陽が庭の楓を染める頃。
私は口を開いた。
「先生……ちょっと言いづらいんですけど、あの“超能力おじさん”、毎日夕方になると、なんか……変なこと言い始めるんです。何かの呪文みたいで……気味悪いっていうか、先生の執筆の邪魔にならないかと思って黙ってたんですけど、あの様子、ちょっとヤバいかもです」
先生は手を止め、静かに答える。
「わたしも、なんとなく気づいてはいたけれど……声がよく聞き取れないのよ」
私は窓の縁に首を伸ばす。
「あ、もう陽が西に傾いてます。ほら、あの人、また何かを話し始めてる……始まりますよ。先生、急いで」
「はいはい……」
先生もそっと縁へ身を乗り出す。
虫の声が高くなり、庭の空気が張り詰める。
隣室の障子の向こう、“超能力おじさん”は沈みゆく夕日を見たまま、ゆっくりと口を開いた。
「……いやあ、光の精霊さん今日の夕日も奇麗ですね。……オレンジ色の光が雲に映えて、まるで空が燃えているようですよ。……雲、いや水の精霊さんとのコラボが最高です……」
先生と私は、息を呑んで聴き入る。
「……おお、風の精霊さんも、参加して雲が渦巻き始めましたね……なんて美しいんだ……とても感動的ですよ……また、あの異世界に帰りたいです」
その声は、夢とも現ともつかぬ響きで、庭の虫の音と溶け合っていく。
先生は、そっと目を伏せた。
「……あの方は、信じているのね。西の空に、異世界があると」
彼にしか聞こえない精霊の声は、彼の前に現れては遠ざかっていく。
「ああ……ちょっと待って……すぐに行きますから……そんな事言わないで、連れて行ってくださいよ……」
先生と私は顔を見合わせる。
男の声は次第に弱まり、最後にはがっくりと肩を落とした。
「……あーあ、今日もまた、異世界に行けなかったか……しょうがない……また明日も来よう……」
沈黙。虫の声だけが庭に残る。
私は、ぽつりと呟いた。
「どうやら、あの人……異世界とやらに行き損なったみたいですね」
先生は、何も言わず、ただ西の空を見つめていた。
夕暮れの庭。虫の声が高まり、空は茜に染まる。
離れの庭で先生はしゃがみ込み、庭に咲き傾いた女郎花を一輪、そっと手折った。
「……そうね」
彼女は、花を見つめながら語る。
「人間って、どれだけ幸せになっても、心の奥に何か――吹っ切れないものが染み込んでいて……幸せが手の届くところにあっても、どうしても諦めきれないものがあるのよ」
私はぽかんとして尋ねる。
「え、それって……どういうことですか?」
先生は、手にした女郎花を私に示す。
「……あなたには、ちょっと分かりづらいかもしれないけど――それは、新しい恋という名の執着心よ」
風に揺れる花の香りが、ふわりと二人の間を通り抜ける。
「この心がね、心残りを持たせて、捨てようにも捨て切れないの。わたしみたいに夢物語を文字に綴っているだけの女でも、ね」
私は目を丸くする。
「え、……意外です。先生がそんなこと、考えてるなんて」
先生は、女郎花をそっと机のペン立てに挿しながら、微笑む。
「驚くことじゃないわ。人はみんな、夢想家なの。あの妙な少女も、あの“異世界おじさん”も、そして――小説家のわたしもね」
花の黄色が、夕暮れの薄闇に浮かぶ。
再び机に向かいながら、先生は静かに言った。
「何でそんなに驚くの。今の世の中の人はみんな夢想家よ。誰でも恋や新しい世界に惹かれる気持ちがあるから、長い間人気があるのよ」
私は少し困ったように笑う。
「じゃあ、私、これから先生の“恋の暴走”を止める係にならなきゃですね」
先生はノートパソコンの蓋をぱたりと閉じて、くすりと笑った。
「面白い言い回しね。それは大丈夫。わたしの恋は小説を通して現実に変えていくの。滅多に暴走なんかしないわよ」
「つまり、恋も夢も、全部作品に込めてるってことですね」
「うふふ。そこがつまり私の性分なのかもしれないわね」
私は首をかしげる。
「でも不思議ですよね。毎回締め切りに追われて滅多に外出できない先生が、恋物語なんて」
先生は苦笑し、独り言のように呟いた。
「昔、私も夕暮れの空に何かを見たことがあるの。赤く染まった空、沈みゆく夕日、たなびく雲の向うに私の世界があるのかも。――私もその先にある世界を見てみたい……」
そして、ふっと微笑む。
「だいぶ暗くなったわね、カーテンを締めてくれる? それから、受付に夕食の準備をお願いしてね」
「はーい」
私は先生に言われたとおりに、部屋のカーテンを閉め、そして、インターホンで受付に夕食の準備をするよう伝える。
日はとっぷり暮れた。近くの寺の鐘の音、虫の声。
先生の世界は、恋愛小説の上にある。
恋も、夢も、すべて――




