ep.10 愛を
「こちらよ」
頭の中が混乱状態で、整理もいかないままにエレーナが部屋の中に入ってきた。いつも通りにこやかで、穏やかな表情をしている。
まだ彼女はこのことを知らない。知ったら、どんなに落ち込むか。そんな考えがよぎった。私のとなりに座ったエレーナは、私の顔を見て首を傾げる。私はエレーナから視線を外して、置かれた聖書の表紙を撫でた。愛くるしい思いというよりは、今ついた胸の傷を撫でる気持ちだった。
ドキドキとした緊張感が、太鼓の音のように心臓の響きとなっている。教壇の前で、ここまで案内をした黒ずくめの女性が手を鳴らした。
背には、大きな黒板が広がっている。何度も書いて消してを繰り返したのか、読めない文字がうっすらと残っていた。
「私は、エディ・ノエル。シスターエディとお呼びください。ふたりは知り合いかと思いますが、仲良くするように」
先ほど案内をしてくれた、黒づくめの女性はそう名乗った。揺れた黒のヴェールから、ひとつに結んだ白髪が見えた。シスターエディは、微笑んで両手を胸に当てる。それは、女神に祈るときにする姿勢と同じ。私には、それが違和感でしかなかった。
あいさつであれば、お辞儀を用いる。それなのに、私たちには女神のへの祈りと同じ姿勢をとるのだから。女王としての教育。これは、いかにこの王国を創った女神へ近づけられるか。ということ。
あの遊戯の発端は、女神だというのであれば、私は女神の存在とかけ離れている。もちろん、となりに座るエレーナも。
気持ちの度合いも分からないが、私と同じくらいには無くしたい願っているに違いない。
「女神の愛を……彼女たちに。ネシア……」
私は、短く息を吸った。一見すると、女神に祈りを捧げているシスター。しかし、私の目には私とエレーナに向かっているようにしか感じられなかった。横目でエレーナを見ると、彼女は嬉しそうに頬を緩ませていた。
この私の違和感は、先ほど見た聖書のせいかもしれない。いまさっきの出来事で、変な考えが巡っているだけ。そう自分に言い聞かせることにした。
シスターエディは、教壇から降りてきた。静かなこの教室に、シスターエディのヒールの音がよく響く。優雅にも聞こえるこの音は、静寂を破る。
普段からシスターは、女王のそばで仕事をこなしている。女王の助けにもなる存在として、我々国民には言い伝えられていた。しかし、私は気がついていた。彼女たちが、王国の歴史を変えることを許さない鉄壁であることを。だからこそ、この鉄壁を私たちは乗り越えていかなくてはいけない。これまでの女王ができなかった、遊戯を廃止するのだ。
ごくりと喉を鳴らす。
「さあ、そろそろ授業をしていきましょう」
シスターエディは、私たちの席に置かれているものと全く同じ聖書を取り出した。私も聖書を開く。少し憂鬱な気分で、めくる手が重たく感じる。
くるりと背を向けて、黒板に文字を書き出した。白いチョークが、粉を舞いながら流れるように文字が書かれていく。
なにも説明もなくてもわかる。ここに書かれているのは、女神のはじまりとされるはなし。誰しもが知る内容だった。目を閉じて、暗唱をしろと言われても簡単にできることだ。
「女神さま……セラヴィは、人を導く存在。光を照らす女神である。白いトリカブトが人の心を癒し、活力を与えた。人々は、子どもを増やして未来永劫健やかに過ごせる」
シスターエディは、こちらに向いて柔らかな笑みを浮かべている。それは、シスターという名に相応しい表情だろう。スラスラと黒板に書いた文字を読み上げる。
「はい」
そう言われたら、続いて同じことを繰り返すしかない。私もエレーナで、声を揃えて繰り返す。
「女神さま……セラヴィは、人を導く存在。光を照らす女神である。白いトリカブトが人の心を癒し、活力を与えた。人々は、子どもを増やして未来永劫健やかに過ごせる」
子を成すように。そして、子を産む女性が優位である。と、刷り込むためのことば。
さらに授業は、進んでいく。
最初にここまで案内してきたときのシスターエディは、もっも落ち着きを払い笑みをこぼさないのかと思わせた。それなのに、今の彼女はにこやかで穏やかだ。楽しいというよりは、愛おしく思っているようにも見える。
私は、それが鳥肌なのだ。ゾワリとする腕をさすった。
「それでは、ここからが本番」
聖書をめくる。第二章だ。
どこからともなく、パイプオルガンの音が聞こえてきた。重厚感があり空気を震えさせる。隣の部屋というよりは、もう少し遠くから。それなのに、しっかりと音がこちらにまで届いている。
音と音がぶつかるようなハーモニー。
「女神さまは、元は人間でした。少女だったのです」
シスターエディは、音の頃合いを見て口を開いた。まるで、何かの演目でも始まったかのようだ。音楽と彼女の声が重なる。