ep.1 長旅
耳をつんざくような、苦しむ声。どれだけ忘れようとしても、こべりついたものはふとしたときに戻ってくる。
「いやぁぁ!!」
「だれか……助けて!」
思い出したくないのに。
* * * *
大きく馬車が揺れる。硬いイスに長い時間座っていて、ジーンとして痛みを感じる。重たいドレスを掻き分けるようにして、私は足を組む。肘をついて、窓の外に視線を向けた。
広大なみどりが広がっている。牧場なのか、羊が草を食べているのが見えた。ほのぼのとした風景に、ため息をつく。
「リシェルお嬢さま、はしたないですよ」
「大丈夫ですわ。誰も見ていないのだから」
眉間を揉みながら、メイドのイレナは困った表情をした。しかし、いまこの馬車にいるのはイレナと私だけ。外から覗いたとしても、私が足を組んでいることなんてわからないだろう。
思わず、私はクスクスと笑い出してしまった。手を硬いイスに置いて、イレナを見る。
「イレナ? もう、私のすべきことは終えましたわ。やることがないからヒマになってしまったのですわ」
「そうですね……リシェルお嬢さま、エリオット坊ちゃんにおはなしすることは決まったのですか?」
なにやら考えるそぶりをして、私に話のタネを提供してくれるようだ。しかし、お兄さま好きの私はそんなことはすでに考えている。たとえ考えていなくとも、顔を見たら話したいことがスラスラと出てくるだろう。
「ええ! もちろんにございますわ!」
「左様にございますか」
長旅で学校の勉強も、読みたい本も読み終えてしまっていた。もちろん、イレナとの会話も。すなわち、今の私はヒマでヒマで仕方がないのだ。
天を仰いでも、なにもなく。ため息を漏らすしかなかった。仮眠を取ろうにも、硬いイスでは眠りにつけない。
お兄さまは、私の5つも年上。どんなことよりも、私を優先してくれる優しい兄。彼は、私がとあることに違和感を覚えていることも知っている。
それに、この国の最高爵位のひとつであるヴェリナ家。そこの娘として、お父さまもお母さまも期待をされている。
と、いうのも。ネルシア王国では、女神信仰をしているのだ。それもあり、女性が爵位を継ぎそれぞれの家を支えていく。
私は、自分のウェーブのついた金色の髪をサラリと指でかき分けた。
この金色の髪は、女神と同じ色。最高爵位の5つの家の女児に稀に見られる"女神の愛"の証拠。御信託を得られたら、女王となることができる。
御信託……なんて、どんなウワサかと思ってしまう。それでも、御信託によって149代もの女王が選出されてきた。これはウワサではなくて、ネルシア王国の当たり前の信仰精神。
窓を開けて、外の風を中に入れる。潮風の香りが、ふわりと漂っている。海水が口に入って、しょっぱいのを思い出す。そんな私の隣で、お兄さまがオロオロとしていたっけ。ただ口に海水が入っただけなのに。
ヴェリナ家は代々、港の管理を任されている。お兄さまは、お父さまの仕事を手伝えるようにと海外へ足を運んでいるのだ。
私のことをいちばんに考えてくれる大好きなお兄さまが、1ヶ月ぶりに帰国をする。うずうずしてしまって、私は長旅なのを我慢してでも迎えにきていた。
久しぶりに会えるかと思うと、嬉しくて楽しみだ。
ゆっくりと馬車が停車をする。キィっと音を立てて、扉を開かれた。
「リシェルお嬢さま。到着いたしました」
「ありがとう!」
私は、差し伸べられた手にしたがって馬車から降りた。馬車の中に入り込んだ海の匂いよりも強く感じる。海辺には馬車で入り込めないので、ここから歩いていく。
歩くたびに海辺に近づくからか、ブーツに湿った海砂がくっついた。ジャリジャリとした感覚が、足の裏から伝わってくる。
「イレナ、もうそろそろ着くかしら?」
「そうですね」
「あ、赤い屋根が見えてきましたわ!」
「リシェルお嬢さま、お足元にはお気をつけてくださいね。お怪我されたら、大変ですから」
「はぁい」
赤い屋根の建物は小さな小屋で、幼い頃に来て遊んでいた。海外の書物が積まれており、私は行ったこともないのに行った気になれるので楽しかった。
イラストもネルシア王国内で見るようなものではなく、言葉が読めなくても楽しめた。
その赤い屋根の小屋の先に、港が広がっている。船が何隻もとめられて、いろんな言葉が飛び交う。
「リシェル!」
ふと聞き馴染みのある、優しい声がした。顔を上げると、にこやかな表情を見せるお兄さまがいた。
「お兄さま! おかえりなさいませ!」
私と同じようなウェーブがかった黒髪が揺れた。もう15歳だというのに、お兄さまはいつまで経っても私を子ども扱いをする。
抱き上げて腕だけで、私を高く持ち上げた。冷たい海風が私たちの間を駆けめぐる。
「リシェル、ただいま」