④掃除の時間だ!マイコニドのマイコ(舞妓)はん!
──美しく咲いた花は、土に還らず。
無念と情熱が、キノコとなりて蘇る──
これは、ひとりの舞妓の魂が、白塗りの怪異へと姿を変えた、哀しき伝承
今回はホラーと残酷な描写がありますので、ご注意下さい。m(__)m
――点滅を繰り返す、古ぼけた電灯が照らす。
薄暗いアパートの通路。
かび臭い廊下の奥に、扉。
黒髪の長身を包むのは、同じ色の清掃作業員の制服。
その前で、ヒナタは無言で立ち止まり、ポケットから取り出した黒色の手袋をはめる。
そして、呟く。
「今月に入って・・早くも3件目か」
その声に感情はない。
だが、心の奥底に溜まり続ける疲労と焦燥がにじんでいた。
ヒナタは足元の音を殺し、無言のまま部屋に踏み入れた。
ドアの鍵は、すでに朽ちていた。
開け放った瞬間、鼻腔を突くのは、鉄とカビと甘い腐臭の混ざった“菌の匂い”。
天井の染みが呼吸しているように、じわじわと湿気が滲む。
壁はかつて白かったのか、今は苔と胞子の巣。
床には変色した絨毯。
裂け目から胞子嚢のような膨らみがのぞく。
部屋は、ほとんど腐海だった。
目の前、壁際――そこに、タカシがいた。
もはや人とは言えない姿だった。
左頬には菌糸が走り、白目には繊維のような網が張っている。
手の指も膨張し、関節が倍に腫れ、先端から胞子が揺れていた。
それでも、まだ人の形をした何か。
目は濁り、吐息は乾いた濁音。
顔には――どこか、昔の面影があった。
「・・来ちまったのか、ヒナタ・・・」
彼はヒナタの姿を認めると、わずかに唇を動かした。
唇が崩れ、菌糸がにゅるりと伸びる。
かつて”落ち葉狩り”と呼ばれた男。
ヒナタにとって、初めての『背中』だった。
「・・よく、ここが分かったな・・」
喉の奥で泡立つような声。
それでもタカシは、いつもの調子を取り戻そうとするかのように、かすかに笑った。
「オレたち掃除屋はワクチンを打っている・・それを過信し過ぎたよ・・」
だがそれは、痛みと哀れみの混じった、敗北の笑み。
ヒナタは黙ってうなずく。
腐敗した空気の中で、あえて息を止めず、彼を見つめた。
「俺に見つけられない菌はない・・その見つけ方は、アンタから教わったんだがな」
ただの任務だ。
ヒナタは表情を変えずに答える。
「潜伏中にクスリを嗅がされた・・その後、ヤツらは、“効果”を見るために、俺をわざと逃して、試した・・」
タカシは変貌した左手を見つめる。
「徐々にな、根を張っていくのが分かる・・それでも、誰にも感染させたくなかった。だから引きこもった。」
それが掃除屋としての矜持。
「アレは記憶を喰う・・頭の中まで染っちまう・・なのに、最後の最後で・・
お前に見つかっちまうとはな・・」
タカシは、かすかな失望を含んで肩を落とした。
「跡を追うのは簡単だった・・アンタはわざと痕跡を残していた」
ヒナタの声に揺らぎはない。
「アンタらしくない・・が、それがヤツらの手でもあり・・逆にアンタらしい」
温度もない。
これは、ただの別れだ。
「はは・・教えたのは俺か、皮肉だな・・やっぱり変わんねえな、お前は・・」
ヒナタは歩を進めた。
一歩ごとに、タカシの皮膚から菌糸がざわつき、空気を歪ませる。
「見つけてからの俺の仕事は・・」
まるでタカシの中に住まう"何か"が抵抗するように。
「菌を排除することだ」
ヒナタが低く呟く。
「ああ・・そうだったな・・」
タカシは笑ったように顔を歪め、懐から小さなマイクロチップを取り出す。
「これを、頼む。オレが潜ってた組織の“中枢”の鍵だ」
「もう限界みたいだ。最後がお前でよかったよ・・
掃除屋の“仕事”、分かってるな?」
ヒナタはそれを無言で受け取る。
「これで・・ようやく、アイツのもとに行けるな・・」
タカシの目が潤む。
それは涙ではない。
変質した体液だ。
濁った色が垂れていく。
「こんなキノコまみれじゃ・・嫌われるかもしれないが・・」
濁った目が、傍にあるテーブルを見つめる。
胞子まみれの世界の中で、不自然に清浄を示す一角。
そこには、小さな写真立てが唯一、汚されずにあった。
写真をじっと見つめながら、タカシが囁く。
「お前は、こんなことを繰り返させるな・・
これ以上、誰かが化け物になって、誰かに殺されるなんて・・
そんな悲しい掃除、終わらせてくれ」
託されたタカシの願いに、ヒナタの目が、ほんのわずかに揺れた。
「それを長年、掃除屋をしていた、アンタが言うのか?」
その言葉を聞いた直後、タカシはハッとする。
――掃除屋は跡を遺さない。
「そうか・・これも消されるんだったな・・この願いも、思い出も・・
全部、霧になっちまうんだな・・」
掃除屋自身の生きた証も。
秘密保持の為でもあり、世界を護る術でもあった。
一瞬の沈黙。
「掃除屋の俺は、アンタの痕跡を何も残さない。」
その言葉は、氷のように冷たい。
ジャキン!
それだけを言って、ヒナタは『ハンディモップ』――に見せかけた特製注入器を構えた。
モップの柄の部分から鋭い、安楽処置と同時に細胞崩壊を促す“腐蝕針”が飛び出す。
掃除屋の武器は偽装された掃除道具である。
ヒナタは注入器を構えた。
「・・アンタたちの痕跡は、オレの中だけに残す。それ以外は、全部“消す”・・」
奥歯を強く噛み締め、ヒナタはまた一歩、踏み出す。
「一匹残らず、“F”を駆除する。アンタが守ろうとしたものを、オレが全部やる」
絞り出すように言う。
タカシは人間らしく驚いたように、目を開いた。
「ははっ・・やっぱり変わりモンだよ、お前は・・昔から、お前は他のやつらとは違うんだな・・」
タカシの表情が、ほんの一瞬、少年のような安堵に変わった。
そして、静かに胸元を裂いた。
人として感じていた痛みすら、既にタカシには残されていなかった。
露出した心臓には、明らかに異常な瘤があった。
まるで“種子”のように脈打つ心臓。
心臓を包み込むように、菌糸と結晶体がねじれた黒い“核”。
「やれ・・ヒナタ・・頼む・・」
ぬるりとした感覚――液が流れ込む。
ヒナタは、何のためらいもなく、そのコアに腐蝕針を突き刺した。
タカシの瞳が細くなり、薄く笑った。
「感謝…する…ぜ……じゃあな……ダチ…こぅ……」
コアが震え、呻きと共にタカシの体が崩れ始める。
皮膚が剥がれ、骨が顕になる。
右腕が粘液を垂らしながら、肩から溶け落ちる。
ヒナタは無言で、その光景を受け止める。
そして、タカシだったモノに背を向け、静かにスプレーを取り出す。
部屋全体に広がった汚染を消却する特殊な薬剤。
(シャァァァ……)
痕跡を消すガスを吹き付けていく音。
彼の耳に聞こえるのは、自らが撒く滅菌スプレーの噴霧音だけだった。
床、壁、天井に、特殊な銀色の液体が広がっていく。
――音に包まれて、ヒナタは気づかない。
背後で、崩れたはずの何かが蠢く音を。
『…ガ、ガ…ギャァア…ッ』
肉の再結合する音。
突き刺されたモップの部分が暗転する。
“腐蝕針”を含め、燃え尽きた灰の様にハラハラと舞い落ちる。
崩れたはずの黒いコアが、粘菌のように修復されていく。
古めかしい木枠。
ふと、スプレーを撒くヒナタの手が止まる。
残された写真立てが視界に入った。
ヒナタはそっとそれを手に取る。
中には、若い男女が笑って並んだ写真。
その色は、過去への悔いか、あるいは忘却への抵抗か。
女性の顔は黒く塗りつぶされていた。
「アンタも一人の男だったんだな・・」
ヒナタの目が細められる。
その瞬間。
ヒナタの背後――奇形となった“タカシ”が、無音で立ち上がっていた。
バッ!!
死んだはずのタカシの肉が蠢き、断末魔の執念で飛びかかる。
シャッ。
空気が切れる音。
ヒナタは振り向かずに、左手を一閃した。
キンッ!!
指先から滑った黒い刃が、跳びかかる指を狙う。
「悪いが、オレにお前たちの不意打ちは効かない」
正確にタカシの五指が切断される。
チリン……
銀色の何かが、澄んだ音を立てて砕け散る。
「ア゛ア゛アア゛アアアアアアアアアアアアアアア――ッ!!」
異形は叫びを上げ、膝から崩れ落ちる。
ヒナタはようやく振り返り、床に落ちた破片を見下ろす。
「・・それがアンタの“核”だったのか」
静かに呟いた。
それは彼の“妻”が遺したもの――砕けた銀色の指輪。
「アアアアアアアアアアアアッ」
床に這いつくばった怪物は、指を無くした左手を伸ばす。
寄生した宿主と密接に繋がる為に。
「・・痕跡は、残さない」
砕け散った欠片を拾うこともせず、彼はそっと、手元の処理具を握り直す。
“Level-4 掃除用消去溶剤”
――対象の有機・無機問わず、構成情報を分解・消去する強力な薬品。
バチッ――シュウウ……
銀の粒が熱を持った泡となり、ゆっくりと煙へ変わっていった。
無言の叫びと共にタカシの躰が沈黙する。
全体が淡く光り始め、胞子が弾け、やがて崩壊していく。
ヒナタは、完全にタカシの身体が蒸気のように崩れていくのを確認した。
「――全部消す」
そう呟くと、彼は迷いなく写真立てに直接スプレーを噴射した。
ジュゥ……ッ!!
瞬間、黒ずんだガラスが溶けるように崩れ、木の縁は蒸発していく。
中の写真もまた、記録媒体としての痕跡を残すことなく――静かに消えた。
「・・残すな。すべてが感染源だ」
そう口にした言葉は、彼自身への戒めでもある。
――痕跡を残さぬこと。
ヒナタの瞳には、悲しみも惜しみもなかった。
それが“掃除屋”の絶対律。
たとえ、恩人の形見であろうと。
無情、無私、無痕。
彼が自らに課した“掃除”という流儀だった。
もう一度、部屋を見渡す。
残る湿り気、気配、臭い、光の反射、わずかな粒子。
まだ痕跡は残っている。
――掃除屋は全てを消す。
******************
部屋の処理を完璧に終えた、ヒナタが玄関を開けると――
「ちょっとー!? あたしゃここの大家なんだけどさぁ?あんた、そこの住人の知り合いなのかい!?」
ヒナタの前に立ちはだかったのは、年代物のエプロンをつけた中年女性。
「昔、事故で亡くなった奥さんと一緒に住んでたって言うから、仕方なく貸してあげたんだけど!?」
大きな声でまくし立てる。
「でも調べても、あたしん家にそんな記録も覚えもないから、気味が悪いんし、最近は夜中じゅう、ゴソゴソうるさくて迷惑なんだよ!?」
「こんな迷惑かけるようなら――」
シュッ
ヒナタは会話の途中で、スプレーを吹きかけた。
「あの部屋の鍵は壊れている・・だから、昔も今も、誰も住んでいない・・
この記憶を元に行動しろ」
白い霧が一瞬、空気を濁す。
「あら・・あたしゃ、何の話してたっけ?」
記憶中枢を霧のように包む。
大家はふらふらと、記憶を置き去りにして部屋へ戻っていく。
ヒナタはその様子を無言で見送った。
彼が今、背負っているのは“感染”だけではない。
人の記憶からも、“存在”を消すという仕事。
――ここは、かつてタカシと、亡き妻が暮らしていた場所。
ふたり分の影が重なっていた時代。
この日、この世界から一組の男女の記憶は完全に抹消された。
**************
ヒナタは一台のくたびれた黒いワンボックスカーに乗り込む。
陽は落ちかけ、交差点の角に夕暮れの影が長くのびている。
胸のポケットから、銀色に鈍く光る無銘の金属ケースを取り出す。
蓋を開ければ、中には黒曜石のように黒い紙巻きタバコが数本、整然と収まっていた。
無言で一本を抜き、口にくわえる。
使い捨てライターがカチ、とオレンジの火を着け、黒煙が上がる。
ふう、とひと息、肺に流し込む。
「タバコ」というにはあまりに異質な、焼けた土の匂いがした。
気管から肺へ、肺から肺胞へ、毛細血管を通して全身へ――燃えた煙が、内側から彼を焼いてゆく。
吸殻は完全燃焼し、灰も残らない。
それはまるで、体内に僅かでも残存する菌類を焼き払う“業火”の吸気だった。
左の空いた座席に一瞬だけ視線を置くと、ヒナタはしばし目を細めた。
誰のためでもない、一服の「儀式」。
その表情は、どこか痛々しくもあり――
逆光に浮かぶその横顔は、確かに、絵になるほどに“冷えて”いた。
一言だけ、口の中で呟く。
「・・”菌"は、全て敵だ・・」
そして、次なる痕跡――原宿の交差点を目指して、車を走らせて去って行った。
男は、右手で静かにその煙を吹き上げた。
瞬間、
「・・ゴホッ・・ゲホッ!ゲホッ!」
激しくむせ返った。
喉をつく煙に、男は顔を背け、目尻にうっすら涙を浮かべる。
「・っ、クソ・・毎回これだ・・なんで慣れねぇんだ?」
涙目で顔をしかめながらも、彼は、自分を“冷静に保つための演技”を止めない。
それが掃除屋、ヒナタという男の、矜持だった。
ヒナタ「オレはチクショー・・なんて言わないからな?」
マイコ「今回、ウチの出番あらしまへんのか?・・チキショー!?」