母の声のおかえり
宵刻の始まりごろ。
陽はすんなりと地平の向こうへ沈み、昼の熱を置き去りにしたような、ほんのり冷たい風が村を撫でていた。
空には、早くもいくつもの星が瞬きはじめている。
完全な夜にはまだ早い。空と地のあいだには、夕暮れの名残の淡い明るさがまだ残っていた。
その道を、アイカは久しぶりの家へと帰る足取りで歩いていた。
人影はなかった。
静かな道に風が吹き抜けると、肩上ほどまで伸びたアイカの銀髪がさらりと揺れ、星の光を受けて細かな光を散らす。まるで薄く砕いた月の光をまとっているようだった。
見慣れたはずの道なのに、どこか懐かしさを感じる。
家の屋根が少しずつ見えてきたところで、アイカはふと足を止めた。
ゆっくりと顔を上げ、自分の家とは反対の方角へ視線を向ける。
そこにあったのは――ハナネの家だった。
足を捻挫し、シアンと一緒に先にソウヤの家へ戻ったとき。
ハナネは、どこか追い詰められたような顔をしていた。
それが痛みのせいなのか。
それとも、今回の任務で自分の実力を思い知らされたことによる落ち込みなのか。
アイカには分からなかった。
ただ、少し気がかりだった。
(次にハナネに会えるのは、七日後か)
医師の判断で、ハナネには七日間の療養期間が与えられている。
その間、本部に顔を出すこともないだろう。
(無理やり行っても怒られるだけだしな……)
ハナネが自分をあまり好いていないことくらい、さすがに分かっていた。
これまでの言動を思い返せば、嫌でも理解できる。
それでも、距離を縮めたいのは事実だった。
先ほど見たあの暗い表情も、やはり気にかかる。
ただの休暇なら、ハナネが「しつこい」と怒ろうと、アイカは平気で話しかけに行っただろう。
だが今回は療養だ。無理に押しかけるのは違う気がした。
「まぁ、次会ったらでいいか」
ぽつりと呟き、アイカは自分の家へ向かって再び歩き出した。
◇
「ただいま」
手慣れた引き戸を、ガラリと横に開ける。
最初に目に入ったのは、居間で炉のそばに集まる家族の姿だった。
和やかな笑みを浮かべるトワ。
小動物のような無邪気な笑顔を見せるチタ。
凛とした優しい表情の母、イロハ。
そして、なぜか頬を赤らめて豪快に笑っている父、イヅキ。
それぞれの前には、まだ箸のつけられていない膳が置かれている。
そして一つ。
いつもアイカが座る席にも。
どうやらタイガを除く家族全員が、アイカの帰りを待っていたらしい。
「アイカ! おかえり!」
北門で会ったときよりもずっと弾んだ声で、チタがぶんぶんと手を振った。
アイカは笑いながら軽く片手を上げて応える。
そして、家の中をゆっくり見渡した。
いつも皆で賑やかに笑い合う居間。
母が丁寧に手入れしている焚処。
変わらない家の匂いと空気が、胸の奥にじんわりと広がった。
「アイカ姉! なんでずっとそこにいるの! 早くこっちにきてよ!」
久しぶりの我が家の空気に浸っていたアイカに、待ちきれなくなったチタが居間から飛び出した。
小さな足でぱたぱたと音を立てながら、踏み場に立つアイカの方へ駆けてくる。
「もう、家の中は走っちゃダメなのに」
その様子を見ていたイロハが、居間に座ったまま小さくため息をつき、独り言のように呟いた。
チタがこの家に来てから、イロハは一度も差別をしたことはない。
アイカやトワと同じように、まるで本当の子どものように育ててきた。
だからこそ、いけないことをした時はきちんと叱る。
「今日ぐらいはいいだろ」
しかし、隣に座るイヅキが笑いながら口を挟んだ。
「アイカが帰ってきたのが嬉しいんだ。チタはアイカが大好きだからな」
頬を赤らめた顔で豪快に笑う。
「そうね」
イロハも、しょうがないわねと言いたげに微笑んだ。
「アイカ姉! 早く!」
「待ってって、チタ」
チタはアイカの片腕を掴み、ぐいぐいと引っ張る。
その勢いに苦笑しながら、アイカは靴を脱いだ。
引っ張られるまま居間へ上がると、ふわりと香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
イロハが作る、いつもの夕膳の匂いだ。
膳へ視線を落とす。
椀には、ふっくらと炊きあがった白い米。
その横では、湯気を立てる汁物が静かに香りを漂わせている。
平たい皿の上には、こんがり揚げられた魚や野菜が並び、黄金色の衣が灯りを受けて艶やかに光っていた。
そして一番小さな皿には、箸休めの漬物がころんと添えられている。
「え!? 今日、揚げ物じゃん!?」
膳を見た瞬間、アイカの顔がぱっと明るくなった。
「久しぶりに帰ってきたんだから。好きなものを食べてほしいでしょう」
イロハが穏やかに言う。
「おかわりもあるわよ」
「ほんと? やった!!」
アイカは嬉しそうに笑った。
すると今度は、イヅキが勢いよく声を上げる。
「足りなかったら俺のも食っていいぞ、アイカ!」
上機嫌な父は、すでに箸を握っている。
野菜の揚げ物をひとつつまみ、アイカの皿へ移そうと顔を近づけてきた。
――その瞬間。
ふわっと、ツンとした匂いが鼻を刺す。
「うわっ。酒くさ!」
反射的に鼻をつまみながら、アイカはイヅキの席を見た。
そこには、すでに栓の開いた酒瓶。
膳の上には、半分ほど空いた杯が置かれている。
「この人、アイカが帰ってくるのが嬉しすぎて、もう四杯も飲んだのよ」
イロハが微笑みながら呆れた声で言った。
「仕方ないだろ〜。あっはははは」
その横で、すっかり酔いの回ったイヅキは、赤ら顔のままへらへらと笑っている。
「酔っ払いは置いて、そろそろ食べようよ」
これまでのやり取りを大人しく眺めていたトワが、アイカたちへ視線を向けて言った。
すると、その言葉が少し寂しかったのか、イヅキは「むっ」とした顔をすると、ふらりと腰を上げてトワの隣へ移動した。
そして次の瞬間、剃り跡の残る頬をトワの頬へぴたりと押しつける。
「なんだトワ、反抗期か〜。もっと優しくしてくれよ〜」
「お父さん離れて。痛いし、お酒くさいよ。僕、明日早いんだから」
明日は朝から学び舎がある。
トワは早く食べて眠りたかった。
じょりじょりとした頬の感触と、鼻先に迫る酒の匂い。
トワは顔をしかめながら、なんとかイヅキを引き離そうと両手で押し返す。
しかしイヅキは、面白がるようにさらに体重を預けてくる。
「お父さん重い!」
「ははは、逃げるな〜」
そんな光景を見て、他の家族たちは思わず笑った。
アイカも、久しぶりに見る家族のいつもの光景に、ふっと笑みをこぼす。
それから、みんなで膳を囲んだ。
湯気の立つ料理の向こうで、アイカはリグラムでの出来事を話し始める。
初めて食べた料理のこと。
村とは比べものにならないほど大きな建物が立ち並ぶ街のこと。
そして、蒸気で動く不思議な乗り物のこと。
アイカは身振りを交えながら、楽しそうに語った。
その話を聞くトワとチタは、目を丸くしながら耳を傾ける。
「そんな建物、本当にあるの?」
「蒸気で動くって、どうやって?」
驚きながらも、二人の目はきらきらと輝いていた。
三人の会話はどんどん弾み、食事の音と笑い声が居間に広がっていく。
その様子を、イロハとイヅキは静かに眺めていた。
楽しそうに膳を囲む子どもたちを、どこか愛おしそうに見つめながら。
◇
深刻の始まりごろ。
膳を食べ終え、外に造られた湯処で湯浴みを済ませたアイカは、半乾きの布を頭に乗せたまま引き戸を開けた。
戸がからりと音を立てて開くと、焚処で洗い物をしていたイロハが振り向き、アイカの姿を見るなり小さくため息をついた。
「アイカ、髪はちゃんと拭いてから来なさい」
陽はすでに沈んでいるが、真夏の夜はまだ熱気が残っている。
湯上がりの体は火照り、むしろ暑さが増したように感じられた。
面倒くさそうに立っているアイカの髪からは、ぽたり、ぽたりと水滴が落ち、踏み場の板に小さな染みを作っていく。
「べつにすぐ乾くし……」
暑い中で髪を拭くのも面倒だ。
それに短い髪なら放っておいてもすぐ乾く。
そう思っていたアイカだったが、イロハは呆れた顔で首を振った。
「だめよ。風邪でも引いたらどうするの。ほら、拭いてあげるから」
「いや、いいって……わっ」
イロハはそう言うと、そばに置いてあった手拭いで手を拭き、アイカの方へ歩み寄る。
もうそんな年齢ではない。
そう思って断ろうとしたアイカだったが、イロハはお構いなしに、頭に乗せていた布をぐいっとつかむと、しゃわしゃわと強めに髪を拭き始めた。
頭を揺らされ、アイカの言葉は途中で途切れる。
結局アイカはされるがまま、大人しくその場に立つしかなかった。
こんなふうに髪を拭いてもらうのは、もう十年ほど前のことだ。
どこか気恥ずかしくて、アイカは眉を寄せる。
そのときだった。
それまで忙しく動いていたイロハの手が、ふと止まる。
「アイカ」
静かで、凛とした声が落ちてきた。
アイカは不思議に思い、顔を上げてイロハを見た。
そこにあったのは、さっきまでの呆れ顔ではなく、柔らかくそれでいてどこか芯のある笑みだった。
イロハはゆっくりと言う。
「おかえり」
それは、本当に安心したような声だった。
母親の声だった。
「うん」
アイカは、短くそう返した。
◇
深刻の半ば前ごろ。
灯りはすでに消され、窓から差し込む月の光だけが子ども部屋をほのかに照らしていた。
寝る支度を終えたアイカは、部屋の中央に敷かれた布団に入り、肘をついて上体を起こしている。
その手には、リグラムでトワとチタの土産にと買った古本があった。
ページをめくりながら、静かな声で物語を読んでいる。
アイカの左側では、チタが自分の布団を放り出して、ちゃっかりアイカの布団に潜り込んでいた。
目を輝かせながら、楽しそうに物語に聞き入っている。
一方、右側ではトワが自分の布団に入り、静かに耳を傾けていた。
先ほど布団を敷く前、アイカが鞄からこの本を取り出して二人に差し出した。
するとチタが「読んでほしい」とせがみ、こうして読み聞かせが始まったのだ。
本の内容は、古い英雄譚だった。
世界を我が物にしようと企む悪党が現れ、
それにただ一人で立ち向かう勇者がいる。
長い戦いの末、悪党は打ち倒され、世界には再び平和が訪れた。
そして勇者は英雄として称えられ、その名は長く語り継がれる――
そんな物語だった。
夢中になって聞いている二人の様子を見て、アイカはそっと口元を緩めた。
どうやら土産は気に入ってもらえたらしい。
やがて物語を読み終えると、チタがぽつりと言った。
「勇者ってかっこいいね。誰かのために命をかけられるんだもん」
読み終えたばかりの本を腕の上に置き、チタはその表紙を見つめながら感心したようにつぶやいた。
月明かりに照らされた横顔は、さっきまで聞き入っていた物語の余韻にまだ浸っているようだった。
そして顔を上げると、ぱっと笑った。
「僕もね、いつかこんな勇者みたいにアイカ姉を守るから!」
「私を!?」
思いもよらない言葉に、アイカは思わず声を上げた。
自分が守られる側だなんて考えたこともなかったからだ。
それなのに今、六つも年下の弟が、当たり前のように言うのだ。
するとチタは、きっぱりとうなずく。
「うん!守るよ!」
迷いのない声だった。
その瞳は、さっきまでの無邪気な笑顔とは違い、まっすぐな決意の光を宿している。
その様子を見ていたトワが、静かに口を開いた。
「……お姉ちゃん、もう強いから守る必要ないんじゃない?」
布団の中で横になったまま、淡々とした口調で言う。
実際、アイカが村でもそれなりに強いことをトワはよく知っていた。
だがチタは、すぐに言い返す。
「なら僕がもっと強くなる!!アイカ姉を追い越すぐらい強くなって、守れるようになる!」
ぐっと拳を握りしめながら、力強く言った。
そして、少しだけ声を落とす。
「アイカ姉には、悲しい顔してほしくないから」
その言葉に、部屋が一瞬だけ静かになった。
窓から差し込む月の光の中で、三人の影が布団の上に淡く伸びている。
するとトワがぽつりとつぶやいた。
「……僕だって、サユちゃんを守れるように強くなる」
少し拗ねたような、けれどどこか負けたくないような声だった。
その言葉を聞いて、チタがちらりとトワを見る。
だが何も言わない。
その二人の様子を見て、アイカはくすっと笑った。
「じゃあ、チタが強くなるの楽しみにしてるよ」
「うん!!」
チタは満面の笑みでうなずいた。
窓の外では、夏の夜風が静かに吹いていた。
虫の声が遠くから聞こえ、穏やかな夜がゆっくりと更けていく。
神血の英雄伝 第89話
お読みいただきありがとうございます。
次回も読んでくださると嬉しいです૮꒰ྀི⁔.⸝⸝⸝⸝.⁔꒱ྀིა
沐所から湯処 (風呂場)に変更。
宵刻の始まりごろ→19時ごろ。
深刻の始まりごろ→21時ごろ。
深刻の半ば前ごろ→22時ごろ。




