揃わない夕膳
暮刻の終わり頃。
夜気がゆるやかに落ちてくる中、草むらからは虫の音が絶え間なく響き、静かな夜に細かなリズムを刻んでいた。
レイサは、数日ぶりに自宅へ戻り、家族とともに膳を囲んでいた。
居間の中央では炉の火が赤く揺れ、その上に掛けられた鍋がぐつぐつと静かに煮えている。ほのかな甘みのある炊きたての米の香りと、夏野菜と肉を煮込んだ濃い匂いが、温かな湯気とともに部屋いっぱいに広がっていた。
「……父さんは待たなくていいの?」
鍋から立ちのぼる湯気の向こうで、レイカが穏やかな笑みを浮かべながら具を取り分けている。
レイサは、その様子を横目に見ながら、染み渡った具材の沈む鍋へ視線を落として言った。
居間には、レイサとレイカのほかにもう一人。
目の前の鍋をじっと見つめ、今にも頬が落ちそうな顔をしているサユが座っている。
炉の火に照らされたサユの瞳は、鍋の湯気の向こうで期待にきらきらと輝いていた。
だが、ユサの姿はまだない。
ユサは今日、タイガの護衛と補佐についている。
タイガの側につく日はたいてい帰りが遅く、今日もきっと夜更け近くになるだろう。
だから夕膳は三人で済ませてしまうことも多い。
それでも、半月ぶりに帰ってきたのだ。できることなら、四人そろって食べたい。
そんな思いが、レイサの胸にふと浮かんでいた。
するとレイカは、二人の前に椀を置きながら言った。
「レイサが待ちたいなら、待ってもいいけど……帰ってくるのは、きっと宵刻の終わり頃になるわよ?」
柔らかな声でそう言いながら、レイカは焚処の小さな窓へ視線を向ける。
外では、夜の虫の声が変わらず静かに鳴き続けていた。
その言葉を聞いたサユは、すぐにレイサの方へ身を寄せた。
「えー、いいよ。お父さんなんか待たなくて」
少し拗ねたような声だった。
「ね、お兄ちゃん。早く食べちゃおう!」
目の前のご馳走を前に、おあずけをくらうのはごめんだ――そんな顔をしている。
だが、わざと強めた言い方とむっとした表情に、レイサは少し引っかかるものを感じた。
もしかして、ユサと喧嘩でもしたのだろうか。
気にはなったが、レイサは一度目を閉じ、静かに息を吐く。
自分は明日から見回りがある。
サユもきっと腹を空かせているだろう。
自分のわがままで待たせるわけにはいかない。
そう思い、レイサは再び目を開けるとサユを見て言った。
「……食べちゃうか」
「うん!そうしよう!」
サユはぱっと顔を輝かせると、レイサの腕に抱きついた。
その拍子に、炉の上の鍋が小さく揺れ、またぐつぐつと煮える音が静かな居間に広がる。
立ちのぼる湯気とともに、温かな匂いが三人を包んでいた。
◇
「サユ。これ、あげるよ」
湯浴みを終え、兄妹は屋根裏で布団を敷き、寝る支度を整えていた。
低い天井の屋根裏には、窓から入り込む夜風がほんのり涼しく、外では虫の声が静かに続いている。
レイサは荷物をまとめていた鞄の中から、リグラムでサユへの土産として買ったぬいぐるみを取り出した。
「え、いいの!?」
ぱっと顔を上げたサユが、弾んだ声を上げる。
出発前、レイサは「何か買ってくる」と言っていた。
けれど任務で忙しいだろうし、もし忘れていても仕方ないと思っていたのだ。
それでもちゃんと約束を覚えていてくれた。
大好きな兄からの贈り物に、サユの顔がぱっと明るくなる。
「ああ。大事にしてくれよ」
その嬉しそうな表情を見て、レイサはどこか安心したように言い、ぬいぐるみをサユへ差し出した。
「うん。絶対大切にする!」
サユは両手でぬいぐるみを受け取ると、何度も小さく頷いた。
そしてそれを持ち上げ、じっと眺める。
「可愛い……」
ぬいぐるみの毛並みは、春の草原を思わせる柔らかな緑色。
小さな黒い留め具で作られた瞳と鼻が、月明かりを受けてつやりと光っていた。
その愛らしさに、サユは思わず心を奪われたようにつぶやく。
「あの人に似てる……」
ぽつりと、小さく。
レイサは、満足そうにぬいぐるみを眺めるサユを見て、静かに微笑んだ。
◇
深刻の半ば前頃。
家々の灯りがぽつり、ぽつりと消えはじめ、小さな子どもたちが夢の中へと沈んでいく時間。
タイガの護衛を終えたユサは一度、守攻機関の本部へ戻り、ネシュカとセイスから任務の記録や報告書を受け取って目を通していた。
それらを一通り片づけ、ようやく自宅へ帰り着く。
筋肉のついた厚い手で、静かに引き戸を開けた。
戸を開いた先で最初に目に入ったのは、炉のそばに座り、のどかに杯を傾けているレイカの姿だった。
炉の上では大きめの鍋がまだ火にかけられている。
その横には、盆の上に並べられた空の碗と器。
隣には飯櫃と、平たい杓子が用意されていた。
「お帰りなさい。少し遅かったですね」
戸の音に気づいたレイカが顔を上げる。
すでに湯浴みを終えたのだろう、薄着の姿で、暑かったのか薄い金色の髪を一つにまとめている。
杯を床へ静かに置き、穏やかな口調で言った。
「いつも言っているが、先に寝ていろ」
レイカの柔らかな笑みとは対照的に、ユサは淡々と答える。
靴を脱ぎ、制服の上着の留め具を一つ、二つと外しながら居間へ歩いていく。
その様子を見ながら、レイカは変わらず微笑んだまま飯櫃を開き、慣れた手つきで碗に米をよそう。
「いつも言っていますが、私が好きで待っているんですよ」
碗を盆へ置き、今度は器を手に取って鍋から具を取り分ける。
その言葉にユサは何も返せず、少しだけ片眉を上げた。
そして黙ったまま、用意された膳の前へ腰を下ろす。
ちょうどその時、レイカが鍋の器を盆へ置いた。
ユサは両手を合わせ、軽く目を閉じる。
それから碗と箸を取り、静かに食べ始めた。
しばらくして、レイカが思い出したように言う。
「そういえば今日、レイサがあなたと一緒にご飯を食べようと、待とうとしていたんですよ」
おっとりとした口調だった。
その言葉を聞いた瞬間、ユサの箸がぴたりと止まる。
レイカは続けた。
「結局、サユが待てなくて食べてしまいましたが」
ユサは数秒間、何も言わなかった。
真顔のまま、黙って器の中を見ている。
「……そうか」
それだけを返し、再び箸を動かす。
だが――
器に映ったその顔は、ほんのわずかに口元が緩んでいるようにも見えた。
神血の英雄伝 八八話
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次回も読んでくださると嬉しいです૮꒰ྀི⁔.⸝⸝⸝⸝.⁔꒱ྀིა
第三章より、ナサで使われている用語を一部変更しております。
炉座→ 炉




