同じ家の中で
「あ、ハナネお姉ちゃん!」
暮刻の始まり頃。
陽が少しずつ傾き、空がほんのりと橙色へと染まり始める中、ハナネはシアンの肩を借りながらソウヤの家へと戻ってきた。引き戸を開けた瞬間、真っ先に気づいたのは末っ子のミサだった。
透明感のある、少し繊細な高い声が部屋に響く。
その声に反応して、ミサの隣で居間にごろりと横になりくつろいでいたチカも、引き戸の方へと顔を向けた。
「ハナネお姉ちゃん、おかえり」
そう言うや否や、チカはぱっと飛び起き、ハナネのもとへ駆け寄る。その後ろを、てこてこと控えめにミサがついてくる。
「ただいま」
二人の嬉しそうな様子に、ハナネも口角をわずかに緩め、小さくそう返した。
すると今度は、屋根裏の方からドタバタと、慌ただしい足音が響いてくる。
三人が屋根裏へと続く階段の方へ視線を向けると、現れたのは白髪の次女、ヒイナだった。勉強をしていたのだろう、手には炭筆を握ったまま、階段を降りながらハナネの姿を確かめる。
「お姉ちゃん。おかえりなさい。あと……」
階段を降り切り、微笑みながらそう言ったヒイナは、ちらりとハナネの背後へ視線を向ける。
「そちらの人は?」
その言葉に、チカとミサもハナネの体の陰からひょっこりと覗き込み、シアンへと視線を向けた。
「お客さま?」
「ソウヤのお友達?」
双子は揃って小さく首を傾げる。
ナサ村へ来た際に村長室で一度ユサと会ってはいたものの、シアンとは面識のないヒイナも、静かに彼を見つめていた。
その視線に気づいたのか、シアンが口を開く。
「僕は守攻機関の副隊長をしている、シアンといいます。ハナネちゃんの引き取り手であるソウヤさんに、お話があって……」
まだ「副隊長」と名乗るのが少し気恥ずかしいのか、頬に人差し指を添えながら、控えめにそう言う。
ハナネは一度、焚処や居間を見回し、他に人影がないことを確かめると、妹たちに尋ねた。
「あの人は?」
その問いに、ヒイナがハナネへ視線を戻す。
「ソウヤさんなら、もう少しで帰ってくるはずだけど……あ、ほら」
そう言って引き戸の外へ視線を向け、見慣れた姿を見つけて指を差した。
つられて全員がそちらを見ると、荷物を片手に、もう一方の手には水の入った手桶を持ち、こちらへ歩いてくるソウヤの姿があった。
顔を伏せ気味に歩いていたソウヤは、ふと顔を上げ、引き戸のそばに立つシアンと、その向こうからこちらを見ているハナネたちに気づく。
疲れの滲んだ表情の中に、どこか嬉しそうな笑みを浮かべ、歩く足を早めた。
ハナネたちの前まで来ると、引き戸の外に手桶を置き、ひと息つく。
「ハナネ、おかえり。思ってたより早くてびっくりしたよ。だったら早く帰ってきて、ご飯の準備して待ってたのにな」
汗を拭いながら笑うソウヤ。しかし、ハナネは笑顔を見せず、むしろ冷ややかな視線を向けた。
「あ……あぁ、はは」
その視線に、ソウヤの笑顔は固まり、次第にぎこちないものへと変わっていく。困ったように視線を地面へ落とし、どこか気まずい空気が漂った。
その様子を見ていたシアンは、場を切り替えるように一歩前へ出て、ソウヤへと頭を下げる。
「暑い中、お仕事お疲れ様でした」
その声に、ソウヤははっとして顔を上げた。ハナネたちも、自然とシアンへ視線を向ける。
「あなたは……副隊長さん」
長くナサ村で暮らしてきたソウヤは、シアンの顔に見覚えがあったようで、名乗られるより先にそう言った。
「はい。守攻機関副隊長、シアンです」
シアンはそう名乗り、続ける。
「今回お伺いしたのは、ハナネちゃんの引き取り手であるソウヤさんに、お話があったからです」
「俺に話……ですか」
思い当たる節がなく、ソウヤはきょとんとする。
シアンはちらりとハナネへ視線を向けてから、静かに続けた。
「実は今回の任務で、ハナネちゃんが右足を捻挫してしまいまして……」
「え!? ハナネが!?」
ソウヤは顔色を変え、勢いよくハナネへと視線をむける。
「といっても軽症です。あと五日ほど安静にすれば治ると、医師から聞いています」
「……はぁ、そうですか」
心底ほっとしたように、ソウヤは大きく息を吐いた。
「ですので、七日間の療養命令が出ています。その間は、どうか無理をさせないようお願いします」
「はい、分かりました」
ソウヤは深く頷く。
「わざわざ送っていただき、ありがとうございます。本来なら、引き取り手である私が迎えに行くべきだったのですが……」
「いえ。こちらこそ、大事な子に怪我をさせてしまい、申し訳ありません」
「いやいや……」
お互いが控えめな性格である二人は、謝罪と感謝を言い合った末、どこか気まずそうに、けれど穏やかにその場を収めた。
◇
「よーし、今日は俺がハナネの好きなものを作ろう!」
外では、周囲の家々から夕膳の匂いが立ちのぼり、村全体が食事の時間を迎えつつあった。
ソウヤは焚処で左袖をまくり上げ、仕事帰りとは思えないほど明るい声でそう言った。その顔には、疲れの影など微塵も感じられない。
そこへ、トワたちと別れて帰ってきたカイが、ぱっと表情を輝かせて駆け寄る。
「え、ソウヤさんの手作りって、初めてナサ村に来て以来じゃないですか! 楽しみー!」
ソウヤは一人暮らしが長く、家事は一通りこなせる。だがハナネたちが家に来てからというもの、「居させてもらっているから」と、家事のほとんどを彼女たちが引き受けてくれていた。
そのため、ハナネがソウヤの手料理を口にしたのは、ナサ村に来た初日くらいのものだ。
「いつも任せきりだったしな。こういう時くらい、ちゃんとしないと」
カイの無邪気な喜びにつられるように、ソウヤも笑って言う。
――けれど。
その会話を聞いていたハナネは、そっと二人の方へ歩み寄った。
「いいえ。ご飯くらい、自分で作れますので大丈夫です」
感情の色をほとんど含まない、冷えた声だった。
その一言で、ソウヤと、隣にいたカイの動きが止まる。
「でも、怪我人は休んでないとだろ。シアンさんも言ってたし、今日くらいは――」
「本当に、平気です」
ソウヤが言い切るより早く、ハナネはやや強めた口調で遮った。
その瞬間、ソウヤの笑顔からふっと力が抜け、上がっていた口角が静かに戻る。
ハナネは、その変化をちらりと視界の端で捉えたが、何も言わなかった。
そのまま二人の間にすっと入り込む。
まるで、弟妹たちとソウヤの間に、見えない線を引くかのように。
ハナネは視線を焚処へ落とし、ソウヤが使う予定で用意していた野菜に手を伸ばした。
「ヒイナ、手伝って」
「あ、うん……」
静まり返った部屋に、ハナネの冷たい声が落ちる。
空気に呑まれた兄弟たちは言葉を失い、ヒイナは呼ばれたことに一瞬遅れて反応すると、慌ててハナネのそばへ駆け寄った。
「私は、何をすればいい?」
「お米を炊いて」
「分かった」
ヒイナは落ち着いた声で応じ、二人は淡々と夕膳の支度に取り掛かる。
他の兄弟たちは困ったように顔を見合わせ、カイは小さく苦笑いを浮かべた。
一方、焚処のそばで立ち尽くしていたソウヤは、何をするでもなく、野菜を切り始めたハナネの横顔を見つめていた。
ふと、視線が合う。眉を寄せ、細められた瞳。
――いつまでそこにいるんだ。
言葉にされずとも、そう言われているのが分かった。
すぐに視線は外されたが、その無言の圧は、確かにソウヤの胸にのしかかる。
「……俺は、邪魔だな」
ぽつりとそう呟き、ソウヤは逃げ道を探すように、兄弟たちのいる居間へと歩き出した。
焚処に、包丁がまな板を叩く乾いた音が規則正しく響く。
それは、いつもより少しだけ強く、感情を押し殺すような音だった。
居間では、兄弟たちが気まずそうに身を寄せ合い、誰も言葉を発しない。
夕膳の支度が進む一方で、家の中の空気だけが、どこか冷えたまま動かずにいた。
橙色だった空は、いつの間にか藍へと沈み始めている。
それでも、ハナネの背中は一度も振り返らなかった。
同じ家にいながら、少しずつ離れていく気配だけが、静かに夜へと溶けていった。
神血の英雄伝 八七話
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暮刻の始まり頃→十八時ごろ




