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神血の英雄伝  作者: 小豆みるな
二章 リグラム、メグルロア
87/91

残された子どもたち 一

このお話は、サレックがネシュカと別れた後、彼が川辺へ帰った後の子どもたちを描いたものです。

 ネシュカとの会話のあと、サレックは何も考えず、ただひたすらに走った。

 後ろを振り返ることは一度もない。汗が全身を濡らし、息が切れ、足が重くなっても、立ち止まることなく走り続けた。


 道ですれ違う人々は、必死な形相で走るサレックに気づき、何事かと驚いたように視線を向ける。だが、そんな視線さえ、サレックの目には映らなかった。

 ただがむしゃらに、トラーナ街を目指して走り続ける。


 やがて肺が焼けつくように苦しくなり、呼吸が追いつかなくなった頃。

 トラーナ街付近の入り口に差しかかったところで、サレックはようやく足を止めた。


「……ッ、は……は、……く、……っ」


 立ち止まった途端、全身にどっと疲労が押し寄せ、呻き声混じりに荒い息を吐く。

 猛暑の中を走り続けた身体は限界に近く、今にも座り込んでしまいそうだった。視界が揺れ、頭がくらくらとする。


「……っ、……す、……っ、ふ……」


 それでも必死に呼吸を整え、サレックはゆっくりと顔を上げた。

 先ほどのように全力で走る力は残っていない。それでも、重くなった足を一歩、また一歩と前へ運ばせる。


 ――少しでも早く。


 そう自分に言い聞かせるように、サレックはトラーナ街の中へと進んでいった。





 トラーナ街を歩き、少しでも体力が戻れば再び走る。

 力が尽きれば、今度は足を止めぬまま早足になる。

 それを何度も繰り返し、川辺に辿り着く頃には、サレックはほとんど足を浮かせることすらできず、地面を擦るようにして歩いていた。


 陽は少しずつ傾き始めていたが、辺りはまだ昼間のように明るい。


「あと……もうちょい……」


 川辺に張られた天幕の影が見え始める。

 その前には、小さな影が二つと、それより少し大きな影が一つ。

 エリアと、カスルと、カスタだ。


 歩みを止めるなと自分に言い聞かせ、残った力を無理やり絞り出すように足を前へ出す。

 すると、小さな影の一つが大きく動き、続いてもう一つも勢いよく跳ねた。


「あー! サレック、かえってきた!!」


 幼い、よく通る声。カスタだった。

 小さな身体をぴょんぴょんと弾ませ、まるで親鳥を見つけた雛のようだ。


「サレックーー!!」


 その声に気づいたカスルも、負けじと叫び、二人並んで跳ね回る。

 その横で、最後に気づいたエリアだけが、静かにその場に立っていた。


 サレックは、そんな二人を見て、急がなければと足を動かす。


 三人の姿がはっきりと見える距離まで近づくと、エリアはどこか安堵したようで、それでも拭いきれない不安を宿した表情でサレックを見つめている。

 一方、カスルとカスタは想像通りの元気な顔をしていた。

 だが、次の瞬間。二人の笑顔がすっと消えた。


「あれ? アオイおにいちゃんは?」


 アオイと二人で出かけたはずなのに、戻ってきたのはサレック一人。

 そのことに気づいたカスタが、不思議そうに首を傾げる。


「いっしょじゃないの?」


 カスルも辺りを見渡しながら、そっと尋ねた。

 その問いかけに、サレックは眉を寄せ、言葉に詰まった。


「アオイは……」


 拳に力が入り、顔が歪む。

 苦しさと、悔しさと、どうしようもない感情が入り混じった表情だった。


「まいご?」

「うんち?」


 心配そうに、幼い言葉を重ねる二人。

 サレックはそれを見下ろし、さらに眉間に皺を刻み、低く吐き捨てるように言った。


「……帰ってこねぇよ」


 いつもの陽気なサレックからは想像もできない、小さく、震えた声。

 悔しさを噛み殺したその瞳は、今にも泣き出しそうだった。


「……え」

「……え」


 二人は同時に声を漏らし、ぽかんと口を開けたまま固まる。


「なんで?」


 カスタがサレックの裾をきゅっと掴み、上目遣いに見上げる。

 つい先日仲間になったばかりだが、カスタはアオイにひどく懐いていた。

 帰ってこないはずがない――そう訴えるように、小さな手に力がこもる。


 サレックは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに険しい表情に戻り、その手から逃げるように天幕へと歩き出した。


「……カンラが戻ってから話す」


 そう言い捨て、川辺の砂を踏み荒らすように乱暴な足取りで進む。


 引き止めようと、カスタが裾を掴んだが、五歳の力が十三歳に敵うはずもない。

 その手は、あっさりと離れてしまった。


 天幕の下へ入ると、サレックはごろりと仰向けに倒れ込み、しばらく天幕を見つめていた。

 だが、静かにしているほど、先ほどまでの出来事や、ネシュカに告げられた言葉が、鮮明に蘇ってくる。


 悔しさと苛立ちが胸いっぱいに膨れ上がり、サレックは両手で髪をかき乱した。


「あー……くっそ……!!」


 あからさまな苛立ちの声。

 理由の分からないカスルとカスタは顔を見合わせた、その時――ふたりの頭に、そっと柔らかな重みが乗せられた。


 顔を上げると、そこには静かにサレックを見つめるエリアがいる。

 細く、少し荒れていたが、優しい温もりを持つその手は、きっと二人を落ち着かせるために置かれたものだ。

 だが、それは同時に、自分自身を落ち着かせるためだったのかもしれない。





 十九の刻を過ぎても、カンラはまだ戻ってこなかった。

 いつもなら一刻ほど前には、チアーと一緒に帰ってきている時間だ。

 今日はエリアが休みをもらっている分、仕事が長引いているのだろう。

 そしてチアーは、いつも仕事終わりのカンラとエリアを迎えに行き、帰りを待つ。

 きっと今日も、カンラを待っているに違いなかった。


 二人とも、いつもより遅い。

 辺りを見渡しても、まだ近くにいる気配すらない。


「チアーとカンラ、おしごとたいへんなの?」

「いつ、かえってくるの?」


 天幕の下、台の上に腰を下ろしたカスルとカスタが、遊び道具にしている木の棒を握りながら、すっかり待ちくたびれた様子で呟いた。


「あと少しで帰ってくると思うよ」


 敷布に腰を下ろし、膝を抱えるように座っていたエリアが、二人を宥めるように静かに答える。


「おなかすいたーー!」

「もう、たべたい……」


 いつもならとっくに夕食を終えている時間だ。

 二人の腹は、限界を訴えていた。


「……もう、食べよっか」


 しょんぼりと籠の中の木の実を見つめるカスルと、大きな声を上げ始めたカスタ。

 これ以上待たせるのは忍びないと思ったのか、エリアはそう言って立ち上がろうとした。


「まだ準備しなくていい。カンラ待つぞ」


 不機嫌そうな声が、仰向けに寝転がったままのサレックから飛んできた。


「えっ、やーーだーー!!」


 空腹が限界だったカスタが叫び、台をどん、と叩く。


「いいから、今日は待つんだよっ!」


 サレックは跳ね起きるように上体を起こし、強い声で言い返した。


「……っ」


 その声に、カスタの身体がびくりと跳ねる。

 駄々をこねていた表情は、今にも泣き出しそうな怯えた顔へと変わっていた。

 近くにいたエリアも、サレックがカスタ相手にここまで声を荒げるのを初めて見て、思わず目を見開く。


「あ……そ、わりぃ」


 サレックは、はっとしたように顔を歪め、短く謝った。

 そのやり取りを隣で見ていたカスルが、不思議そうに首を傾げる。


「……チアーも、だよ?」


 さっきの言葉に、チアーの名前がなかった。

 言い忘れただけだと思ったカスルが、素直に指摘する。


「……」


 その一言に、サレックの視線が落ちる。

 眉を寄せ、険しい表情のまま、口を閉ざした。


 きょとんとするカスルとカスタ。

 エリアは、胸が締め付けられるような表情でサレックを見つめた。


 やがてサレックは、何かを振り切るように一度強く目を閉じ、三人をまっすぐ見据える。


「チアーとアオイは――」


 言葉を発した、その瞬間。


「――大変だよ!!」


 遠くから、高く大きな叫び声が響いた。


 聞き覚えのある声に、サレックは息を呑み、言葉を途切れさせる。

 咄嗟に顔を上げ、声のした方角を見る。

 三人も、同時にそちらへ視線を向けた。


 すると、やや赤みの差した茶髪を左右に揺らしながら、薄汚れた衣服のまま必死にこちらへ駆けてくるカンラの姿が見えた。


「みんな、大変!!」


 カンラは血相を変え、何度もそう叫びながら走ってくる。


「カンラだー!!」

「おかえり!!」


 カスルとカスタは、いつも通り無邪気な笑顔で大きく手を振った。

 だが、カンラはその笑顔すら視界に入っていないようで、普段なら必ず返すはずの仕草も見せず、ただひたすらに走り続けていた。


 その様子に、サレックとエリアはじっとカンラを見つめる。

 やがて、手を振っていたカスルが、ふと違和感に気づいたように動きを止めた。


「……チアー、どこ?」


 いつも一緒に帰ってくるはずのチアーの姿がない。

 その言葉に、隣のカスタも周囲を見回したが、やはり見当たらなかった。


「あれ……?」


 その瞬間、カンラがようやく天幕の前まで辿り着いた。


「アオイは……!?」


 息を切らしながら辺りを見渡し、アオイの姿がないことを確認する。

 だが、すぐに首を振った。


「……ううん、今はそれより……みんな、大変なの」


 はぁ、はぁ、と荒い呼吸を漏らしながらも、必死に言葉を紡ごうとする。


「カンラ、落ち着いて。苦しそうだよ」


 エリアが駆け寄り、そっと背中に手を添えた。

 カンラは視線を落とし、背中を撫でられながら何度か深く息を吸う。

 途中、喉が詰まって小さく咳き込んだが、やがて呼吸が整った。


 顔を上げたカンラの表情は、切迫していた。


「チアーが……騎士団に捕まったの!!」

「チアー、つかまったの!?」

「なんで!?」


 声を上げたのは、カスルとカスタだった。

 騎士団が何をする組織なのか詳しくは分からない。

 それでも、“悪いことをしたら捕まる”存在だということだけは、何度も聞かされていた。


 二人は慌ててカンラの足元へ駆け寄り、怯えた顔で見上げる。


「わからない……。迎えが遅いから稼ぎ先に行ったら、みんなが『騎士団に連れて行かれた』って……。理由は誰も教えてくれなかった」


 焦りに満ちた声で、カンラは言葉を続けた。


「騎士団に連れて行かれた人、ほとんど帰ってこないって……。だから、早く助けに行かないと……!」


 カンラの頭の中はそれだけでいっぱいだった。

 行くなら大勢で。きっと、みんなもそうするはずだと疑わなかった。


 だが、その考えを切り裂くように、低い声が落ちた。


「行かねぇ」

「……え?」


 あまりに冷静なサレックの言葉に、カンラは思わず声を漏らした。

 その瞬間、ようやくカンラの視界に四人の顔がはっきりと映る。


 サレックは、怒りとも苛立ちともつかない感情を滲ませた真顔で、カンラを見ていた。


「サレック……?」


 仲間が危ないと知れば、真っ先に駆け出すはずのサレックが「行かない」と言った。

 理解が追いつかない。


「何言ってるの!? チアーは仲間じゃん!!」

「ああ、仲間だよ!!」


 サレックもまた、声を張り上げた。

 その激しさに、カスルとカスタがびくりと肩を震わせる。


「でもあいつはな……捕まって当然の、クソみてぇな真似しやがってたんだ!!」

「チアーがするわけないからっ!!」

「したんだよ!!」


 カンラも感情的になり、声を張り上げた。

 だが、それを上回る勢いでサレックの声が川辺に響き渡る。

 あまりの迫力に、カンラは思わず言葉を呑み、次の言葉を失った。


「……いや……」


 かすれた声が、喉の奥から零れる。


 チアーが、そんなことをするはずがない。

 いつも優しく、困っている人を放っておけないチアーが、悪さをするはずがなかった。

 ましてや、騎士団に連行されるほどのことをするなんて。

 もし何かあったのだとしたら、きっと偶然巻き込まれたか、脅されていたか。

 そうに違いないと、カンラは信じて疑わなかった。

 それは、事情を知る前のサレック自身も、同じように考えていたことだった。


 だが、サレックの叫びはあまりにも真剣で、切実で、川辺に叩きつけるように響いた。

 その声に、カンラは言葉を失った。


 サレックの表情は真剣で、どこか苦しそうで、痛みを押し殺しているようだった。

 嘘をついているようには、どうしても思えなかった。


 沈黙が、その場に重く落ちる。

 誰も、すぐに言葉を発することができなかった。


 やがてサレックは、一度大きく息を吐いた。

 だが、歯を食いしばったままの口からこぼれる吐息は、荒く、震えていた。


 次に、ゆっくりと息を吸い込む。

 そして視線を強め、カンラたちを真っ直ぐに見据えた。


「チアーは――」


 その一言に、カンラたちは一斉にサレックへと視線を向ける。


 サレックは、昼にアオイと共に天幕を離れた時から、何があったのかを、静かに語り始めた。





「そんな……嘘だよ」


 話を聞き終えたカンラは、困惑した声を漏らした瞬間、その場に崩れ落ちた。

 足から力が抜け、どさりと地面に倒れ込む。右手で顔全体を覆い隠し、左手は耳元から左目にかけて縋るように添えた。


 信じられない――そう訴えるように、カンラの肩は小刻みに震えていた。


 チアーが、金欲しさにサレックを利用し、子どもたちに「いい仕事だ」と嘘をついて、違法行為を行う連中へ売っていたこと。

 そしてアオイは、両親を亡くした孤児などではなく、そもそもリグラムの住人ですらなかった。

 南にあるナサ村の守攻機関クガミ。この地でいう騎士団に似た組織に属する人間で、任務のためトラーナ街に潜み、違法行為に関わる者を探していたこと。

 調査を終えた後、仲間とともにチアーを騎士団へ引き渡したこと。


 どれも現実とは思えなかった。


 そして、カンラの脳裏に、以前チアーとなぜほかの子どもたちにも仕事を紹介するのかを興味本位で尋ねた時の会話がよぎった。


『悲しい思いをしている子どもたちを、少しでも減らしたいんだ』


 あの時、そう言って優しく笑ったチアーの顔は、穏やかそのもので。なのに、どこか同情を滲ませていた。


 アオイのことも同じだ。

 両親は死んだと言い、寂しそうに俯いていたあの表情は、どう見ても大切なものを失った子どもの顔だった。

 この四日間、一緒に過ごしてきた中で、文字が読めることや所作の綺麗さに違和感を覚えたことはあった。

 それでも、不器用で真面目なあの姿が、嘘をついているようにはどうしても思えなかった。


 今聞かされた話が、すべて嘘であってほしい。

 そう願う気持ちが、カンラの胸をぐちゃぐちゃにかき乱していた。


「信じられねぇかもしれないけど……嘘じゃねぇんだよ」


 サレックは視線を川へ逸らし、眉を寄せる。

 右の口角だけを不機嫌そうに吊り上げ、そのまま低く言った。


 それ以上、誰もすぐに言葉を続けられなかった。


 カンラは理解が追いつかず、頭の中が混線したまま動かない。

 エリアは唇にわずかに力を込め、視線を落としている。


 しかし、カンラは何かに気づいたようにはっと顔を上げ、サレックを見据えた。


「サレックはなんで無事なの――!?」


 チアーがサレックを騙していたとはいえ、実際に条件の合いそうな子どもを見つけ、声をかけていたのはサレックだ。

 しかし、同じく関与していたはずのサレックだけが、なぜこうして無事でここにいるのか。


「なにか手があったんじゃないの!?」


 もし手立てがあったなら、チアーだってまだ助けられるかもしれない。

 チアーが何をしたのかは聞いた。それでも仲間は仲間だ。

 それだけで切り捨てて終わりにするわけにはいかなかった。


 淡い期待に目を潤ませながら、カンラはサレックを見上げた。


 サレックは一度だけカンラを見た。その目に、カンラの期待が全部透けて見えたのだろう。サレックは表情を強張らせ、声を低くした。


「……ねぇよ、んなもん。そんなのあったら俺だって知りてぇよ」


 サレックは視線を逸らしたまま、苛立ちを押し殺したような口調で返した。


「俺は無関係だから帰れって言われただけだ」


 ネシュカの言葉を思い出したサレックは、奥歯を噛みしめ、足元の小石を川へ思い切り蹴り飛ばした。


「じゃあ……チアーを助けられる方法は、ないの……!?」

「あるわけねぇだろ」


 縋るような声で問いかけるカンラに、サレックは苛立ちと諦めの混じった声で言い返した。

 その一言で、カンラの肩から力が抜けたように落ちた。


 その時、小さな声が横から漏れる。

 カスルだった。


「……チアーと、アオイ……もう、あえないの?」


 ゆっくりサレックたちに近づきながら、震えた声を漏らした。その声は今にも泣き出しそうで……いや、もう泣いていた。


 隣のカスタも、同じように震えた声を漏らし、ずる、と鼻水を啜る音が聞こえた。


 三人は揃って二人の方を見た。

 大きな瞳からぽろぽろと大粒の涙が零れ落ち、川辺の地面に染み込んでいく。


 カスルは顔を真っ赤にし、カスタは口元まで鼻水を垂らしていた。

 幼いながらに、もう二人には会えないのだと。それだけは理解してしまったのだろう。

 二人は声を殺すこともできず、ただ泣き続けていた。


「カスル……カスタ……」


 カンラは泣きじゃくる二人を見て、そっと近づいた。静かに身体を向けると、二人の手を片方ずつ取る。安心させたいという思いだけが先に立っていた。


 だが、それだけで幼い二人の涙が止まるはずもない。カンラ自身も混乱の渦中におり、どう声をかければいいのかさえ分からなかった。

 それでも、二人を守らなければという姉のような感情だけが、かろうじてカンラに冷静さを取り戻させていた。


「……ごめんね」


 それが、ようやく出てきた言葉だった。だが混乱した頭は言葉を続けられず、カンラの胸には別の後悔が刺さる。


(もし私が気づいてたら……チアーを助けられたのかもしれないのに)


 あれほど近くにいたのに、どれ一つとして気づけなかった。その不甲斐なさが重く沈殿し、胸を締めつけた。


 その後は、重苦しい沈黙だけが流れた。


 エリアが気を利かせて夕食の支度をし、サレックが手伝った。空腹が満たされたおかげか、カスルとカスタはようやく涙が止まったものの、昼間のような元気は影も形もない。

 カンラも頭の整理ができず、夕食の間ほとんど誰も口を開かなかった。


 ただ静かに、淡々と、食事と片付けと水浴びが終わっていった。


 普段、カスルとカスタの水浴びはチアーとサレックが交代で担当していた。

 今日はチアーの日だった。そのせいか、水をかけられた二人の頬には、もう泣き止んでいるはずなのに小さな涙が静かに流れ続けていた。





 二十一の刻。


 泣き疲れて瞼を赤く腫らしたカスルとカスタは、台の上で互いに抱き合いながら眠りについていた。

 カンラは混乱と後悔で頭が回らないまま、それでも明日の早朝には稼ぎに出なければならない現実に追われ、無理やり目を閉じた。エリアも静かに横で眠っていた。


 その天幕から少し離れた川辺で、サレックはひとりしゃがみ込んでいた。


 何度も瞼を閉じては眠ろうとした。しかし閉じるたびに、昼間の光景が鮮明に蘇る。

 騙していたのに平然と笑っていたチアーの顔。

 申し訳なさそうに眉を下げ、「悪かった」とだけ言ったアオイの顔。

 二人に嘘をつかれていた苛立ち、そして「無関係だから帰れ」と突き放されたネシュカへの苛立ち。

 さらに、チアーを置いたまま帰ってきてしまった自分への苛立ち。


 思えば思うほど、胸の内側が荒れていった。


 サレックは、川面を眺めれば少しは落ち着くかもしれないと考えた。自然には心を休める力がある、とトラーナ街の老夫が言っていたのを思い出したのだ。


「……くそ、全然おさまんねぇじゃねぇかよ!」


 怒りが捌け口を失い、堪え切れず舌打ちが漏れた。近くの石を掴み、川へ向けて思い切り投げつける。石は勢いよく飛び、水面へ落ちるとジャポンと大きく音を立てた。風が吹き、サレックの髪を軽く撫でていった。


 その直後だった。


「八つ当たりは良くないよ」

「はっ!?」


 苛立ちで周囲の気配を完全に遮断していたサレックは、突然背後から声がして驚き、勢いよく振り向いた。


 本来なら眠っているはずのエリアが、静かに立ちサレックを見ていた。三つ編みを解いた肩までの栗色の髪が、夜風に揺れていた。


「起きたのかよ」

「起きてたよ。目、瞑ってただけ」


 サレックの驚きに対し、エリアは平然と返すと、サレックの隣に少し距離を置いて腰を下ろした。視線は川の流れへ向けられた。

 サレックもそれにつられ、身体を向け直し、再び川に目を落とした。


 二人はしばらく言葉を交わさなかった。川の流れの音だけが、夜の帳の中で淡く響いていた。


 サレックは横目でエリアの横顔を盗み見る。エリアの表情は、いつものように淡々としていた。


 それを見たサレックは一度口を開き、閉じ、そしてもう一度小さく開いた。


「……お前は平気なのかよ」


 その声には抑揚がなく、どこか震えていた。

 エリアはそっと顔だけサレックの方へ向ける。


「チアーとアオイが一気にいなくなっただろ」


 エリアは感情を表に出さない。だが本当は、カスルやカスタのように泣きたいほど悲しいのかもしれない。サレックはそう思ったからこそ、言葉を投げた。


 エリアはすぐには答えず、ただサレックの険しい横顔をじっと見つめた。それから視線を落とす。


「悲しいよ。でも、しょうがないから」


 サレックは勢いよく顔を向ける。エリアは視線を落としたまま言葉を続けた。


「チアーが悪いことをしたのが本当なら、それはチアーが悪いと思う。それに、ならなんであの日、急にアオイが現れたのかも納得できる。……あとは私まで悲しんだら、みんなもっと不安になるよ」


 そう言って、エリアは天幕の方へ視線を向けた。

 サレックもつられるように、ぐっすり眠る三人の方へ目を向けた。


「……そっかよ」


 サレックは視線を落とす。


 エリアが平然としている理由は、感情がないからではなく、自分まで崩れたら、あの三人はもっと混乱し、不安定になるから。

 それに気づいたサレックは、納得と同時に胸の奥が少しだけ痛んだ。


 どさり、と背中から川辺の砂利に倒れ込むと、サレックは大きく息を吐いた。

 夜空に視線を向ければ、いくつもの星と、それより強い満月の光が目に入る。


「チアーはよ……俺らがあんな天幕じゃなくて、ちゃんとした家で暮らせるようにやってたんだと」


 独り言のように漏らしたサレックの声に、エリアは川を見つめたまま静かに耳を傾ける。


「だったらよ……最初から相談しろって話だろ」

「そうだね」


 苛立ちながらも寂しさを混ぜた声に、エリアは短く頷いた。


「アオイもさ……いい奴だって思ったのに、俺らに近づくために嘘ついてたとか……」


 サレックの声には、吐き出されるたびに怒りと困惑、そして喪失の色が滲んでいた。

 アオイに両親がいないという話は、本人が語ったから事実なのだろう。だが、アオイがどこまで知り、どこまで計算して自分たちへ近づいてきたのか。

 自分たちをどう見ていたのか。その本心は結局、何ひとつ分からなかった。


 数秒の沈黙を置いて、エリアが口を開いた。


「アオイは……最初からチアーが関わってたなんて知らなかったよ」


 意外な言葉に、サレックは横目でエリアを見る。

 エリアは膝を抱え、指先にほんの少し力を込めていた。


「……は。なんでそう思うんだよ」


 サレックの問いに、エリアは即答した。


「だってアオイは、チアーじゃなくて最初にサレックを連れてこいって――あの人に言われた時、すごく驚いてた。サレックのこと、庇ってたよ」


 いつもの平坦な声とは違い、少し熱を帯びていた。

 その違いに、サレックの瞳がかすかに見開かれた。

 だが、サレックが驚いたのはそれだけではない。


「……誰だよ、それ。ていうか、お前……アオイのこと、知ってたのか!?」


 知らない人物の存在と、まるでサレックから聞かされるより先にアオイの事情を把握していたようなエリアの口ぶり。

 それにサレックは反射的に身を起こし、エリアとの距離を一気に詰めた。


「……」

「おい、答えろって!」


 詰め寄られたエリアは反射的に身体を引き、気まずそうに視線を逸らした。その反応は、知らなかったでは通らないものだった。


 サレックは苛立ちを隠さず声を荒げた。


 エリアは片瞼を閉じ、耐えるように息を吸うと、突然立ち上がった。


「明日早いから、もう寝る」


 それだけ言って天幕へと駆けていった。


「エリア!!」


 サレックの声が夜気に溶けたが、エリアは振り返らずそのまま天幕の中へ滑り込んだ。


 中では、音と振動に反応したのかカンラがもぞりと動き、ぼそりと文句を漏らした。


「……うるさいよー、サレックー……」


 夢の中にいるような声で眉間に皺を寄せて寝返りを打つ。


 サレックは一瞬肩をびくりとさせ、隣に横になったエリアに視線を向けた。

 エリアが寝ているはずはない。しかし先ほどの拒絶で、問い詰める気も削がれてしまった。


 チッ、と小さく舌打ちをして、サレックは再び川の方へ身体を向けた。

神血(イコル)の英雄伝 第八一話

読んでいただきありがとうございました。

次回も読んでくださると嬉しいです૮ ˶ᵔ ᵕ ᵔ˶ ྀིა

あともう一話、サレックたちのお話が続きます!

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