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神血の英雄伝  作者: 小豆みるな
二章 リグラム、メグルロア
86/91

任務の終わり

 子攫いの件がリグラム中に知れ渡ったのは、少女たちが騎士団へ連行されてから、三日後のことだった。


 リグラムで配られている新聞には、【トラーナ街で頻発していた子ども誘拐事件】として大きく掲載されていた。

 正式な許可を得ていない仲介屋が、貧困層や孤児の多いトラーナ街を狙い、夜な夜な子どもたちを誘拐。金儲けを目的に、貴族や臓器売買へと売り渡していたという内容だった。


 主犯の男二人と、事件に関与していた孤児二人は処刑。

 また、取引を行っていた貴族や病院には、四千リザンという高額な罰金が科された。


 処刑された男二人については、名前と顔写真が掲載されていた。

 写真は「カメラ」と呼ばれる機械で撮られたものらしく、絵と違い、まるで時間を閉じ込めたかのように、実物そのままの顔がそこに写っていた。

 一方で、孤児である二人は身元不明とされ、顔写真のみが載せられていた。


 アイカは、その技術に驚くより先に、掲載されていた少女の顔写真に胸がちくりと痛んだ。


 そして、リイトの存在は、最初からいなかったかのように、記事のどこにも見当たらなかった。

 ネシュカの推測では、おそらく家が多額の金を支払い、罪を揉み消したのだろう、という。


 罰を免れたとしても、今後は騎士団の監視がつくはずだ。

 もう、以前のように好き勝手はできないだろう。ネシュカはそう言っていた。


 それでも、記事の中で裁かれたのは、表に出た者だけだった。

 アイカは新聞から視線を離し、胸の奥に残った小さな痛みを、ただ黙って噛みしめていた。



◇◆◇



 それからさらに三日が経過した、市刻の始め。


 アイカたちが部屋でそれぞれの時間を過ごしていると、トントントン、と扉を叩く音がした。

 六人が一斉に視線を向けると、扉の向こうからやや張りを失った声が聞こえてくる。


「あんたたち、いるかい?」


 扉越しに、ネシュカが返事をした。


「はい」


 その声を受けて、扉がゆっくりと内側へ開く。

 姿を現したのは、この宿の女主人だった。


「あんたたちに会いたいって、ナサ村から来た人がいるよ」


 和やかな笑みでそう告げられた瞬間、アイカとレイサの肩が同時に跳ねた。

 他の四人も、それぞれわずかに反応を見せる。


 数秒の間を置いて、ネシュカが微笑みながら口を開いた。


「ありがとうございます。すぐに伺うと伝えていただけますか」


 女主人はゆっくりと頷き、静かに扉を閉めて去っていった。


 扉が閉まるや否や、アイカとレイサは顔を見合わせ、自然と笑みを浮かべる。


 アイカはすぐにネシュカへと向き直った。


「ナサ村に帰る!?」


 弾んだ声に、ネシュカは優しく頷く。


「ええ。だから、準備をして」


 その言葉を聞き、レイサも満面の笑みを浮かべた。


「やっとサユに会える」


 その呟きを聞いたハナネは、瞼を細め、眉を寄せる。

 口角をわずかに下げたままレイサを見ており、明らかに引いているのが分かった。


 六人は手早く身支度を整え、忘れ物がないかを確認して部屋を出た。

 鍵を閉め、ネシュカを先頭に廊下を進む。

 続いてセイス、その後ろにアイカとレイサが並び、最後尾にはアオイとハナネ。

 ハナネは片手で手すりを掴み、もう片方の手でアオイの制服を軽く掴みながら、慎重に階段を下りていく。

 アオイはネシュカに言われ、ハナネの隣で歩調を合わせていた。


 一階へ降りると、出入り口の前に一人の男が立っていた。

 黒い薄衣に、肩口まで捲り上げた半纏(はんてん)を羽織り、下衣は黒い半股。

 リグラムへ向かう際、舟でウェイナールについて教えてくれた舟手だった。

 階段を下りてくる六人に気づき、舟手は軽く手を上げる。

 アイカも手を振り返し、先頭のネシュカは軽く頭を下げた。


「ここまで来ていただいて、ありがとうございます」

「いいさ。こっちも仕事だからな」


 舟手は、にかっと笑って答えた。


 その後、舟手はアイカとレイサへ視線を向け、レイサの頬に貼られた傷当てに気づく。

 守攻機関(クガミ)の隊員が怪我をする場面は何度も見てきたが、まだ子どもほどの年齢の者が傷を負っているのを見ると、どうしても胸が痛んだ。


 舟手は大きく息を吐き、続けて深く吸い込むと、ぽつりと言った。


「……お疲れさん」


 突然の深呼吸に六人は一瞬驚いたが、その言葉に込められた労いを感じ取り、静かに頭を下げる。


 その後、舟手から昼刻の始め頃にミラストを出てランセル港へ向かうラゴンを手配していること、

 市刻の半ば前に出るヴォランクに乗る必要があることを聞かされる。

 六人は女主人に鍵を返却し、すぐにナビンへと向かった。





 ナビンに着くと、前回と同じく、建物の外からでも分かるほど人で溢れかえっていた。

 出入り口の上に取り付けられたガラスは、蒸し暑さを感じさせるほどの快晴を映し出すように、陽の光を受けて青く輝いている。


 中へ入ると、人混みはさらに増した。

 ネシュカの話によれば、この時刻は一日の中でもっとも人の出入りが激しい時間帯らしい。

 アイカたち七人は、人波に押し流されるようにしながら、通行口の列へと並んだ。


 三十分ほど待ち、板で仕切られた通行口の前まで進む。


「どちらまで行かれますか?」

「ミラストまで。七人分、お願いします」


 係員の問いに、舟手が一度アイカたちへ視線を向けてから、窓口に向き直って答えた。


「かしこまりました。お一人様、二十ソアになります」


 和やかな笑みで告げられると、アオイが鞄から硬貨を取り出し、係員へ手渡す。

 係員は硬貨を確かめ、「確かに」と頷くと、脇に置かれた箱から七枚のチケットを取り出し、まとめてアオイに渡した。


「こちらがミラスト行きのチケットです。紛失されますと、到着時に改めて料金をいただきますのでご注意ください。

なお、ミラスト行きのヴォランクは、向かって真ん中の二番線から出発します」


 説明を終えた係員は、ゆっくりと扉を開けた。


「いってらっしゃいませ」


 軽く頭を下げ、アイカたちはそのまま先へ進む。

 通路の先で、一本だったプラットは三つに分かれると、係員の言葉どおり向かって真ん中のニ番線へ進んだ。

 ちなみに、中央の二番線はメグルロアとミラストを結ぶ路線で、左側の一番線はユーレナ側のネファリへ向かう。

右側の三番線は、ノルヴェエル方面にあるルネアとメグルロアを行き来するらしい。


 二番線のプラットには、すでに一台のヴォランクが停まっていた。

 アイカたちは近くの扉から車内へと乗り込む。


 車内は前回と同じ造りだった。

 一本の通路を挟み、三人ほどが座れる背もたれ付きの長椅子が向かい合わせに置かれ、その一組が左右と後方へ並んでいる。

 窓にはガラスの代わりに二本の横棒が渡され、天井は緩やかに湾曲し、床は板張りだった。


 すでに数人の客は乗っていたが、想像していたほど多くはない。

 先ほどまでの人混みを思い出し、満員を覚悟していたアイカとレイサは、がらんとした車内を見回して思わず目を瞬かせた。


「……あれ? 人少なくない?」


 アイカが首を傾げて尋ねると、ネシュカは車内を一度見渡してから答えた。


「ミラスト周辺に住んでいる人自体が少ないの。それに、ナサ村へ行く人はほとんどいないでしょう?」

「そっか……」


 言われてみれば、ナサ村を訪れる人の多くは、他地域の代表や仕事関係者ばかりで、それも年に数回程度だったことを思い出す。


「とにかく、座りましょう」


 ネシュカの声に促され、七人は空いている席を探した。

 空席はまばらで、扉近くの両側と、少し奥にいくつか残っている程度だ。


 遠くへ行く必要もないと判断し、二手に分かれて腰を下ろす。

 右手側にはネシュカ、アイカ、レイサが並び、窓際からアイカ、隣にネシュカ、その正面にレイサ。

 一本の通路を挟み、左手側には舟手とセイスが並び、その向かいにアオイとハナネが座った。


 アイカとレイサは、横棒の隙間からプラットの端を眺めていた。

 そこには、細い支柱の先に、時計と呼ばれる丸い円盤が据え付けられている。円盤の縁には数字が少し間隔をあけて描かれ、長針は十を指し、短針もまた、まもなく十に重なりそうな位置で止まっていた。


 二人は、まだ動かないその針を、「いつ動くのだろう」と言いたげに、じっと見つめている。


 そんな様子を見て、ネシュカが穏やかに微笑んだ。


「まだ動かないわよ」


 そう言って、静かに時計へ人差し指を向ける。


「あの長針が十二に重なって、短針が十を指したら出発するの」


 ネシュカの説明に、アイカとレイサは感心したように小さく頷き、今度は針の動きを見逃すまいと、さらに真剣な表情で時計を見張り始めた。

 それを見たネシュカは、考え込むように指を下ろし、第二関節を唇の下に添える。


「……やっぱり、ナサ村にも時計はあったほうがいいわね」


 ぽつりと漏れた独り言に、アイカが時計から視線を外してネシュカを見た。


「なんで、ナサ村には時計がないの?」

「時計のない生活に慣れてしまっているのとね、あまり文化を発展させすぎず、自然と協調して生きるのを大切にするって、隊長から聞いたことがあるわ」

「そうなんだ」


 アイカは、この十五年間ナサ村から出たことがなく、これまで他の地域との違いを深く意識したことはなかった。

 けれど、ここ数日リグラムに滞在してみて、確かにここは、ナサ村よりもずっと文化が発展していると感じていた。

 技術が盛んなのはリグラムだけなのだろうか。

 他の地域も、同じように発展していたらどうなるのだろう。

 そんなことを考えていると、隣からネシュカの独り言が聞こえてくる。


「でも、このままだと他地域と交流する時に不便なのよね……。隊長経由で、村長に伝えてもらおうかしら」


 ぽつりぽつりと零れるその横顔を一度見てから、アイカはそっと視線を逸らし、セイスたちの座る席へ目を向けた。


 セイスは窓の近くで壁に軽く頭を預け、わずかに眉を寄せたまま目を閉じている。

 アオイは無表情で窓の外を眺め、ハナネは足元へ視線を落とし、舟手は大股に足を開いて座っていた。

 誰も言葉を交わさず、静寂が流れている。けれど、そこに気まずさはなく、ただそれぞれが、それぞれの時間を過ごしているだけだった。

 アイカはその様子を確かめると、再び窓の方へ顔を戻し、時計を見つめた。





 時計を見つめているうちに、いつの間にか数分が過ぎていた。

 短針はすでに十にほとんど重なり、長針も、あとわずかで十二の中央に届こうとしている。


 そのとき、外から張りのある声が響いた。


「一番線のヴォランク、出発します。ご利用の方はお急ぎください」


 アイカが棒の隙間から覗くと、旗を持った係員がプラットを歩きながら声を張り上げていた。

 一番線のプラットには、これから乗り込もうとする人影はほとんどない。係員は周囲を一度見回し、前方の車両へ向き直ると、大きく旗を掲げた。

 同時に、時計の長針が十二の中央に重なる。


「お、発車じゃね?」


 向かいの席で時計を見ていたレイサが、弾んだ声を上げた。


 次の瞬間だった。


 ガタン、と大きな音がして車内が揺れ、身体が一斉に引っ張られる。

 アイカとネシュカ、アオイとハナネは背もたれへ、レイサとセイス、舟手は前方へと体勢を崩した。


「あぶねっ」


 レイサはとっさに横棒を掴み、どうにか耐える。

 一方、アイカは勢いのまま背もたれに頭をぶつけ、鈍い音が車内に響いた。


 ――が。


「……あ、ぶつけた」


 それだけ言って、けろりとしている。

 ネシュカは横目で見て、ほんのわずかに目を丸くした。


 窓の外では、荒い石で組まれたプラットと時計、ベンチの並ぶ光景が後ろへ流れ、やがて石造りの建物が立ち並ぶメグルロアの街並みへと変わる。

 さらに進むと、人やラゴンの姿も途切れ、視界は一面の草原へと開けていった。


「え!? もう草原!?」

「やっぱ速えな!」


 前回の注意もすっかり忘れたのか、アイカとレイサは窓に張りつく勢いで声を弾ませる。


 通路を挟んだ向かいの座席からの声が耳に届いた瞬間、セイスの片眉が、わずかに動いた。


「……アイツら」


 低く漏らし、組んだ腕のまま、人差し指で前腕を規則正しく叩く。怒鳴らないのは、ネシュカがいるからだろう。


「まだ十五だ。村を出たのも初めてなんだから許してやれよ」


 隣の舟手が、にかっと笑って言う。


「……チッ」


 舌打ちし、セイスは指の動きを止め、外へ視線を逸らした――その直後。


「……子ども」


 冷えた声が、すぐそばで落ちた。


「あ?」


 獣じみた低音で返すセイス。


「セイス先輩には言っていません」


 ハナネは氷のような目で睨み返す。二人の間に、見えない火花が散った。


「まぁまぁ」


 舟手が間に入ると、張りつめた空気はかろうじてほどけた。


 アオイはその一連をちらりと見ただけで、再び窓へ視線を戻す。

 横棒の隙間から入り込む生ぬるい風を受けながら、ただ流れていく景色を静かに眺めていた。





 ヴォランクに乗って数十分が経過した頃、車体はゆっくりと速度を落とし始めた。

 制動がかかると同時に、乗客の身体がぐらりと揺れる。


 やがて完全に停車すると、外から声が響いた。


「ミラストに到着しました。ご乗車の皆さんは速やかに下車してください」


 その合図とともに、同じ車両に乗っていた乗客たちが静かに立ち上がり、順に扉の方へ向かっていく。


 ヴォランクの木床から石造りの地面へ足を下ろすと、正面には間隔を空けて並ぶ柱に支えられた、長い屋根が続いていた。

 その下では、降車した乗客たちが一列に並び、係員へ乗車札を手渡している。


 アイカたちも列に加わり、一人ずつ札を渡して屋根をくぐった。


 屋根を抜けると、足元は草混じりの地面へと変わり、視界には石造りの建物が点在していた。

 メグルロアの喧騒とは違い、ここには落ち着いた静けさが漂っている。


 賑やかな都会というより、街道沿いの穏やかな町。そんな印象だった。


「こっちだ」


 舟手が五人より三歩ほど前へ出て声を上げ、そのまま前方へ歩き出した。

 皆もそれに続く。


 ジャリジャリと、土と草を踏みしめる音を立てながら進んだ先に、一台のラゴンと、二人の男の姿が見えた。

 こちらに気づいたのか、そのうちの一人が大きく手を上げる。


 舟手もそれに応えるように、軽く手を上げ返した。


 距離が縮まるにつれ、二人の姿がはっきりとしてくる。

 一人は、アイカたちと同行している舟手と同じ装いで、頭に白い布を巻いたもう一人の舟手。

 そしてもう一人は、こんがりと焼けたパンのように日焼けした中年の男だった。


「あれ……?」


 アイカは目を細め、前方の中年男性をじっと見つめた。

 どこかで見たことがある。そんな記憶が、胸の奥で引っかかる。


「ナサ村に帰る連中ってのは、やっぱりお前らだったか」


 中年男性は近づいてくる七人を認めると、腰に両手を当てて大柄な声を上げ、豪快に笑った。

 その声に、アイカははっとして声を上げる。


「あー! ラゴンに乗せてくれたおじさん!!」

「よお、数日ぶりだな!」


 驚いたように叫ぶアイカに、中年男性はがははと笑いながら応じた。

 以前、港からミラストまでラゴンで送ってくれた男だった。


「この人が、俺たちを港まで連れて行ってくれる人だ」

「ここでこんなふうに金儲けしてるのは、俺くらいなもんだからな」


 舟手の言葉に、中年男性はおおらかに笑って肩をすくめた。

 それから八人はラゴンへと乗り込み、中年男性が御者台に座ると、馬を進めてトランセル港へ向かった。


「そういや、リグラムは堪能できたか?」


 手綱を操りながら、中年男性がすぐそばのアイカへ声をかける。


「色々あったけど、すごい楽しかった!」

「そりゃあよかった」


 景色を眺めながら答えるアイカに、中年男性は満足そうに頷いた。


 それからアイカは、リグラムで食べた料理の話などを中年男性に語り、ほかの者たちはラゴンの奥で静かに腰を下ろし、トランセル港へ着くまでの時間をそれぞれに過ごした。





 トランセル港の渡り場へ着くと、八人はラゴンを降り、中年男性へ支払いを済ませて礼を述べた。


「また来たときは、いつでも頼れよ。まぁ、そのときはもうちょい金を弾んでもらうけどな」

「いや、これでも高いしっ!!」


 人差し指と親指で輪を作り、にやりとしながら言う中年男性に対し、アイカは思わず声を張り上げる。

 中年男性は、かははと大きく笑うと、八人へ最後に手を振り、そのまま去っていった。


 八人も渡り場でその背中を見送ると、係留されていた舟へと向かう。

 乗り込もうとしたそのとき、舟手が声を上げた。


「酔うかもしれねぇが、辛抱してくれ」


 その言葉に、ハナネは今にも酔いそうだと言わんばかりに、わずかに顔を曇らせた。

 それを見て、レイサははっとしたように鞄を漁り始める。


「ハナネ」


 呼ばれて、ハナネは睨むような視線のまま、静かにレイサへ身体を向けた。


「なに」

「俺さ、ハナネに渡したいものがあったんだ」


 そう言って、レイサは先日薬屋で買った、酔い止めの薬が入った封筒を差し出す。


「これ。吐き気少し楽になるらしい」


 軽く笑いながら言うレイサに、ハナネは細めた瞳で封筒をじっと見つめた。

 やがて、ゆっくりと視線を上げ、冷えた口調で言う。


「……わざわざ、私の分まで買ったの」

「あ、いや、俺が買ったっていうか……」


 どこか歯切れ悪く言いながら、レイサは思わずセイスの方へ視線を向けた。

 その瞬間、会話を聞いていたセイスが、言外に圧を含んだ視線を返してくる。


 ーー余計なこと言うな。


(げっ……)


 肩をわずかに震わせたレイサは、これ以上触れない方がいいと悟り、曖昧に笑った。


「……まぁ、そんな感じ」


 その様子を数秒見つめていたハナネは、何も言わず、そっと封筒へ手を伸ばす。


「……どうも」


 感情のこもらない、冷えた声でそう告げると、ハナネはぷいっと顔を背けた。


 素っ気ない態度だとは思ったが、それでも受け取ってくれたことに、レイサは胸の奥で小さく息を吐く。

 無駄にはならなかった。そう思えただけで十分だった。

 やがて、レイサとハナネがそれぞれ薬を飲み終えると、八人を乗せた舟は、静かにナサ村へ向けて出航した。





 海は強い波風もなく、とても穏やかだった。

 快晴の空から降り注ぐ陽光が海面に反射し、まるで無数の小さな宝石が、あちらこちらに散りばめられているかのようにきらめいている。

 空には、羽をぱたぱたと羽ばたかせながら飛ぶ鳥の親子。海の中は僅かに透き通り、ゆらゆらと優雅に魚の群れが泳いでいた。景色だけを見れば、とても良かった。


 この暑さを除いては。


 暑い季節の快晴の海を南へと進む舟は、乗り込んでいる八人の体力をじわじわと削っていく。

 ただ腰を下ろしているだけでも、汗が身体を伝い、まとわりつくような不快感に喉が渇く。

 頭がくらりとするほどの暑さだった。


 水を飲んでも、暑さのせいで飲み壺の中の水はすでに生ぬるい。

 喉を潤した気にもならず、身体はさらに冷たい水を欲していた。


「暑い……」


 舟に背を預け、上を向いたまま、アイカが心底うんざりした声を漏らす。

 南へ進んでいるせいか、進むにつれて気温が少しずつ上がっているのがはっきりと分かった。


 舟手の二人も慣れてはいるものの、さすがに汗は隠せず、全身に玉のような汗を浮かべている。


「ナサ村には、いつ頃到着するんですか?」


 レイサは鞄から取り出した手拭いを首に当てながら、舟手の方を向いて尋ねた。

 舟手の一人は少し考えるように黙り込み、それから答える。


「この調子なら、夕刻の半ばだな」

「夕刻の半ばですか……」


 まだまだ先だな、と言わんばかりに、レイサはわずかに顔を曇らせた。

 ハナネもまた、聞いた途端にこの暑さに辟易したような表情を浮かべる。


 一方、ネシュカはこの六人の中では外の任務に出ることが多いだけあって、比較的落ち着いていた。

 とはいえ、手には手拭いを握り、首元に汗が流れるたび、こまめに拭っている。


 アオイは無表情のまま座っていたが、額には小さな汗が浮かび、それが頬を伝っていた。

 それでも手拭いを使うことはなく、そのままにしている。

 汗に濡れていても、整った顔立ちは崩れず、どこか絵になるのが悔しいところだ。


 セイスは顔を歪め、制服の襟元を乱暴に掴んで引きはがすようにし、少しでも熱を逃がそうとしていた。

 だが、それは気休めにもならず、暑さが和らぐことはない。

 むしろ、苛立ちが募った分だけ、セイスの表情は猛獣のように険しくなっていた。





 そんな暑さの中、舟に揺られること数時間が経った。

 今は、夕刻の始めだろうか。陽は少しずつ傾き、舟の上にもほんのわずかだが暑さが和らぎ始めている。

 それに、舟手の二人が少しでも早く到着しようと力を尽くしてくれたおかげで、予定よりも早くナサ村へと近づいていた。


「あ、レイサ! 石壁見えてきたよ!! ほら!」


 前方に、ナサ村を囲む高い石壁が姿を現す。

 それを見つけたアイカは興奮した様子で前方を指差し、隣に座っていたレイサの肩を思い切り揺さぶった。


 強い力で肩を掴まれたレイサは、疲れていた肩に痛みを覚え、反動で頭がぐらりと揺れる。


「おい、ちょ、痛えって……アイカ。わかったから、やめろ」


 薬のおかげで前回よりも酔いはだいぶ軽減されていたし、もうすぐナサ村に着いて、大好きで大切な妹に会える。

 本当は内心、飛び上がるほど嬉しかった。


 ――だが、それどころではない。


 アイカの手を振りほどこうと腕を掴むが、力比べでは一度として勝ったことがない。

 結局、レイサはそのまま数秒間、肩を掴まれたまま揺さぶられ続けた。


 さらには、その勢いが舟にまで伝わり、舟も大きく揺れ始める。

 それに気づいたセイスとハナネが、険しい視線をアイカとレイサへ向けた。


(俺のせいじゃねえんだけど……)


 その視線を受け、レイサは心の中で小さく呟く。


「アイカ、レイサの肩を離してあげなさい」


 正面に座っていたネシュカが、二人に向かって静かに声をかけた。

 その言葉に、アイカははっとして身体を少し捻り、レイサから手を離す。


「あ、ごめん」


 ようやく解放されたレイサは、安堵の息を吐き、前方へと視線を向けた。

 ナサ村を囲む石壁はすぐそこまで迫り、北門と渡り場もはっきりと見えてきている。


 ネシュカ、セイス、アオイ、ハナネも、それぞれ前方へと目を向けた。


 この数日間。初めての任務、初めて訪れる土地、そして数えきれないほどの経験。

 最初は三人だけで任務を全うできるのか、不安しかなかった。


 それでも、なんとかやり遂げることができた。


 舟はゆっくりと速度を落とし、ナサ村の渡り場へと近づいていく。

 夕刻の風が、火照った肌をなぞるように吹き抜けた。


 帰ってきた。


 その事実を噛みしめるように、誰もが黙って前方を見つめていた。

神血(イコル)の英雄伝 第八十話

読んでいただきありがとうございました。

次回も読んでくださると嬉しいです૮ ˶ᵔ ᵕ ᵔ˶ ྀིა


これでアイカたち三人の初任務は終了です!

なんか年明けまでに間に合いました⸝⸝•̀֊•́⸝⸝)

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