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神血の英雄伝  作者: 小豆みるな
二章 リグラム、メグルロア
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借りと利子

 アイカは、泣いた疲れと、少女との戦いで神選者アロスの力を使いすぎた反動、そして初めて訪れた土地の環境も重なり、ぐっすりと眠り込んでいた。

 時刻はすでに、市刻の半ばを過ぎていた。


 二つの窓から差し込む陽射しが、寝ているアイカを挟むように室内を照らしていた。窓は開いていて、風も入ってきているはずなのに、まったく涼しくない。

 むしろ、陽の熱と混ざって、部屋の中はじっとりと暑かった。


「……なに、この暑さ……」


 アイカは小さく呻きながら、横向きに丸まっていた身体をぐいっと伸ばし、大の字になる。

 それでも暑さは引かず、じわりと汗がにじんでくる。

 重たい瞼に力を入れ、ようやく上半身を起こした、その時だった。


「起きたのね」


 机の方から、落ち着いた大人の声がした。

 アイカは眉を寄せたまま、そちらへ顔を向ける。

 まだ眠気が抜けきらない目をゆっくり開くと、机の上に紙を広げ、筆を持ったネシュカがこちらを見ていた。


 その右隣には背筋を伸ばして座るアオイ、左にはレイサ。

 さらに視線を動かすと、右のベッドではハナネが床に背を預け、本を静かに読んでいる。

 左のベッドには、枠にもたれるようにして座るセイスの後頭部。

 どうやら、起きるのが一番遅かったのは自分らしい。


「みんな起きたことだし、手紙を出しに行くついでに昼膳でも食べて、そのあと少し周ろうかしら」


 ネシュカはそう言って、筆を筒に戻し、ちらりと窓の外を見てからアイカに視線を戻す。


「いいの!?」


 一瞬で眠気が吹き飛んだ。

 アイカはぱっと顔を輝かせ、声を弾ませる。


「ええ。ただし、買い物をするなら自分のお金でね」

「わかってる!!」


 元気よく返事をすると、アイカは勢いよくベッドから飛び降りた。


 ――ドンッ!


「うわ、すげぇ音」


 レイサが片耳を押さえ、苦笑しながら呟く。獣の神選者である彼には、特に響いたのだろう。


「……他の客に迷惑でしかない」


 ハナネは本を持ったまま、冷ややかに言い放つ。


「ごめん……」


 アイカは眉を下げ、少しだけ首を傾けながら、気まずそうに笑った。





 ハナネは理由をはっきりとは口にしなかったが、先日足を捻挫したことが原因なのだろう。一人、宿で留守番すると言った。

 そのため、ハナネを除いた五人は、アイカが身支度を整えるのを待って部屋を出た。

 捻挫と呼ぶほどではないにせよ、両足首を打撲しているはずのアイカが、普段と変わらず動いている。その様子を見て、レイサは苦笑いを浮かべた。


 まず五人向かったのは、ナビンのそばにある配達屋だった。


 街の中心に近い場所にあるだけあって、人の出入りは絶えず、建物の外にはすでに列ができていた。

 年齢層は幅広く、家計を任されていそうな主婦の姿が目立つ一方で、身なりの整った男や、作業服に大きな荷を抱えた者も混じっている。


 手紙を預けるまでに、かかった時間はおよそ一時間。

 それでも無事にナサ村宛ての配達を頼むことができ、五人はほっと息をついた。


 そのままスカリット街付近へと足を伸ばし、通りを歩いていると、視界に入ったのは赤茶色の石で造られた一階建ての食堂だった。

 中央の扉の左右に二つずつ窓が並び、どこか落ち着いた雰囲気を漂わせている。


「ここ、よさそうじゃないかしら?」


 ネシュカの言葉に、五人はその食堂へ入った。


 中へ入ると、外観と同じ石造りの壁に、年季の入った木の床。机と椅子もすべて木製で、椅子は三人ほどが腰掛けられる長椅子だった。

 室内にはすでに数組の客がおり、静かに杯を傾けながら本を読む者もいれば、女同士で身近な不満を小声でこぼし合う姿もあった。


 アイカたちは、右手側に並ぶ空き席の奥を選び、今回は男女で向かい合って座ることになった。


 それぞれ品書きに目を通し、頼むものが決まると、ネシュカが静かに手を挙げた。

 従業員の女性が書き物を片手に駆け寄り、注文を一つずつ書き留めていく。


「少々お時間をいただきます」


 そう言って、女性は軽く会釈し、その場を離れた。


 料理が運ばれてきたのは、それから二十分ほど後だった。


 アイカとレイサの前に置かれた皿には、堂々とした大きさの牛肉が乗っている。

 表面は香ばしく焼かれ、塩と胡椒が控えめに振られていた。

 添えられた白いたれと、脇を固める芋や野菜が、妙にその存在感を際立たせている。

 立ち上る香りが、二人の鼻先をくすぐった。


「うわ……っ! 美味しそう!!」


 アイカは突き匙と肉刀を握ったまま、目を輝かせる。

 今にも涎が落ちそうだ。


「すげぇ……」


 レイサも、思わず息を呑んだ。

 普段食べる肉といえば鳥がほとんどで、こんな大きな牛肉を一皿まるごと、という経験は初めてだ。


「こんな贅沢、初めてかも……」


 そんな二人を見て、ネシュカは弟のコンのことを思い出し、くすりと小さく笑った。

 セイスは「子どもだな」と言いたげに横目で眺め、アオイは相変わらず淡々としている。

 ふと、アイカが思い出したようにネシュカへ顔を向けた。


「これって、タルネアの時みたいに切ってから突き匙で食べるの?」

「ええ、そうよ」


 ネシュカはそう答えると、自分の皿に手を伸ばした。

 突き匙で衣のついた肉を軽く押さえ、肉刀を小刻みに動かす。

 刃の重みで、肉はざくりと小気味よい音を立て、驚くほどあっさりと切れ込みを受け入れた。そうして、あっという間に一口大へと分かれる。

 ネシュカはその一切れを突き匙で刺し、静かに口元へ運ぶ。

 無駄のない所作には、自然と品が滲んでいた。


「おぉ〜……」

「おぉ〜……」


 アイカとレイサは、ほとんど同時に感嘆の声を漏らした。

 二人とも、ネシュカの一連の動作にすっかり見惚れている。


 やがて、アイカははっと我に返り、自分の皿へと視線を戻した。

 頭の中で、今見たばかりの動きをなぞりながら、突き匙で肉を押さえ、肉刀を入れる。

 慣れない手つきのせいで、刃先が皿に当たり、皿から乾いた音が小さく響いく。


 それでも諦めず、ぎこちないながらも刃を動かし続ける。

 ようやく一口大に切り分けると、今度は勢いよく突き匙を口元へ運んだ。

 噛んだ瞬間、分厚い牛肉から溢れた肉汁と胡椒の香りが、一気に口いっぱいに広がる。


「……っ!」


 思わず、目を見開いた。

 歯応えはしっかりしていて、簡単には噛み切れない。

 けれど、そのぶん、噛むたびにじわじわと旨みが滲み出てくる。


「これ……すごい……!」


 一方、レイサは白いたれをたっぷりと絡めて口に運んでいた。

 ほんのりとした甘みの中に、香辛料の風味が重なり、牛肉の味を引き立てている。


「……合うな、これ」


 二人は顔を見合わせることもなく、ただ口角を上げ、夢中で皿に向き合っていた。

 その表情はあまりにも分かりやすく、見ている側まで腹が鳴りそうになるほどだ。

 やがて、アイカとレイサは言葉を交わすことも忘れ、残っていた牛肉と野菜を一気に平らげていった。


 ネシュカたち四人も、そんな二人を横目にしながら、それぞれの料理へと静かに手を伸ばした。


 ネシュカが選んだ品は、アイカやレイサのものとは違い、明るい茶色の衣をまとった揚げ肉だった。

 皿の半分を占めるほどの量があり、肉刀を入れるたび、突き匙を差し入れるたびに、衣がざくり、ざくりと小気味よい音を立てる。

 肉の中央には、丸く平たく切られた酸味のある果実が一枚添えられており、その果汁が衣に染み込み、揚げ油の重さを程よく和らげていた。

 衣に包まれた肉の旨みと、果実の爽やかな酸味が混ざり合い、後を引く味わいを作り出している。


 セイスの前に置かれた品は、少し高さのある器に盛られていた。

 ところどころに香ばしく焼けた斑が浮かび、溶けた乳白色の層がなだらかに表面を覆っている。近づくと、温められた乳の匂いに、塩気のある燻製肉の香りが混じり合い、腹の奥をじわりと刺激した。

 中には、平たい短い麺と刻まれた肉が絡み合い、焼き上げられたことで全体がほどよく一体になっている。

 突き匙を入れると、表面の層が軽く割れ、内側から湯気とともに柔らかな麺が姿を現した。

 一口運べば、濃厚ながらもしつこさのない味わいが舌に広がる。

 脂の旨みと塩味がしっかりと効いており、派手さはないが、空腹の身体にはやけに染みる。


 アオイの前に置かれたのは、底に深みのある皿だ。

 赤茶色のスープの中には、あらかじめ一口大に刻まれた肉や野菜がごろりと沈み、表面には細かな油が淡く光っている。

 皿の端には、やや硬そうな、ぱりっと焼き上げられたパンが二つ添えられていた。

 香辛料が強く効いているらしく、六人の料理の中でも、ひときわ香りが立っている。匙ですくい上げると、スープにはわずかなとろみがあり、持ち上げた拍子に匙の裏を伝って、とろりと落ちた。


 やがて五人は、それぞれの皿を空にすると、従業員が片付けやすいように皿と杯を一箇所にまとめた。

 会計を済ませて店を出た後、弟たちへの土産を買いたいというアイカの要望もあり、雑貨店や書店、薬種屋が軒を連ねる通りへ向かうことになる。





「なあ、どんなものを買うかは決めてるのか?」


 石畳を踏みしめながら、レイサが隣のアイカに問いかける。

 アイカは少し考えるように視線を上へ向けた。


「うーん……まだ。でも、やっぱり食べ物がいいかなぁ」


 その瞬間、前を歩いていたネシュカが、歩調を緩めることなく口を挟んだ。


「食べ物は、やめておいた方がいいわよ」

「えっ?」

「この暑い時期に舟移動するでしょう? まず傷むわ」

「あー……」


 レイサも納得したように頷き、アイカは小さく息を吐く。


「そっかぁ……腐るか」


 弟たちにも、この街で初めて味わった料理を食べさせてやりたかった。その思いが、ほんの少し胸に引っかかる。

 けれど、アイカはすぐに気持ちを切り替えるように顔を上げた。


「じゃあ、赤本みたいな、子ども向けの物語ががあるやつにする。トワもチタも、覚えるの好きだし」

「アイカと違ってな」

「はぁ!?」


 即座に返されたレイサの言葉に、アイカは噛みつくように声を上げた。

 そんなやり取りを前に、ネシュカは小さく息を吐いた。


「それなら、書店に入りましょうか」


 視線の先には、落ち着いた佇まいの書店が見えている。

 そのとき、後ろを歩いていたレイサが、ぽつりと声を上げた。


「あの。俺は、薬屋に行ってもいいですか」


 ネシュカが振り返る。


「どうして?」

「酔い止めの薬が欲しくて……」


 レイサはにこりと笑みを浮かべて答える。


「なら、セイスをつけるわ」


 レイサが視線を向けると、セイスは「文句あるか」と言わんばかりに睨み返す。

 レイサは視線を受けて肩をすくめ、困ったように笑いながら半歩身を引いた。


 こうして、ネシュカ、アオイ、アイカは書店へ。

 セイス、レイサは薬屋へと、それぞれ足を向けた。





 アイカたち三人は、セイスたちと別れると、目的の書店へ足を踏み入れた。


 店内は、外の喧騒が嘘のように静まり返っている。

 右の壁際に二つ、左の壁際にも二つの書棚が並び、室内には数人の大人の客が、本を手に思い思いの時間を過ごしていた。右側の書棚には装丁の整った本がずらりと並び、左側は上段こそ同じように本が並んでいるものの、下段には巻物が収められている。


 アイカは右側の書棚へ近づき、一冊の本を手に取った。

 傷ひとつない硬い表紙は、背表紙や裏表紙までしっかりと作られており、指先に伝わる感触からして、丁寧に扱われてきたことが分かる。

 本の間には値段の書かれた小さな栞が挟まれていた。


 片手で本を支え、もう一方の手でそっと頁を開く。

 紙はなめらかで、ナサ村で見慣れたものとは明らかに違っていた。

 ナサ村の本は、ここまでしっかりしていなかった。

 表紙はざらつき、頁も少し厚いだけで、糸で綴じられただけの簡素なものばかりだった。


 ぱらりと頁をめくると、そこにはヴォランクをはじめ、リグラムで使われている乗り物や機械の仕組みが、簡単な挿絵付きで説明されていた。


(これ、いいんじゃない……!!)


 土産にぴったりだと顔を綻ばせ、値段を確認した、その瞬間。


「……二十ティル? たかっ」


 思わず声が漏れ、アイカは慌てて口を押さえた。

 持ち金を考えると、気軽に手を伸ばせる金額ではない。

 けれど、この装丁と内容を思えば、高いのも当然だとも思えた。


 名残惜しそうに本を閉じ、元の場所へ戻すと、今度は自分の財布事情でも買えそうな本を探し始める。

 右側の書棚を一通り見終え、眉を寄せながら左の書棚へ向かったとき、ふと違和感に気づいた。

 左側の本は、背表紙に細かな傷が目立つものが多い。

 試しに一冊手に取ると、表紙にも擦れた跡があるが、中を開けば頁は綺麗なままだった。

 値段も、先ほどの本より少し安い。


(……古本、かな)


その瞬間、本を片手に持ったまま、トワとチタの顔が脳裏に浮かんだ。


(チタは、古物とか気にしないからな)


 普段から、アイカやトワのお下がりを受け取っても、チタは気にする素振りを見せない。

 むしろ嬉しそうに笑うことすらあり、その無邪気さが少し不思議に思えたこともある。

 だから、チタに関しては問題ないだろう。


 けれど――。


(トワは……)


 綺麗好きなトワの顔を思い浮かべ、アイカはわずかに指先を止めた。

 中古品を好まないのではないか、そんな考えがよぎる。

 それでも、新品を買ってやれるほどの余裕がないのも事実だった。


(まぁ……本なら、大丈夫でしょ)


 多少は気にするかもしれない。

 けれど、内容さえ良ければ、きっと文句は言わない。


「……よし」


 小さく息を整え、アイカは左の書棚から慎重に本を選び始めた。

 二十分ほど迷った末、手に取ったのは、年頃の男の子が好みそうな、英雄が悪を打ち倒す物語だった。


 それを受付台へ運び、支払いを済ませる。

 そして、右側の書棚で時間を潰していたネシュカとアオイのもとへ、小走りで戻った。


「終わったの?」


 視線を向けたネシュカに、アイカは明るく頷く。


「終わったー」

「そう。じゃあ、セイスたちと合流しましょう」


 ネシュカはそう言って、アオイへ声をかけた。


「アオイ、行くわよ」

「はい」


 三人は書店を後にし、薬屋のある通りへと向かった。





 セイスとレイサは薬屋に足を踏み入れると、室内の奥には部屋を仕切るように受付台が設けられており、その背後には薬草の入った瓶を収めたガラス張りの棚がずらりと並んでいた。

 受付台の手前側はすっきりとしており、置かれているのは長椅子がいくつかあるだけだ。


 レイサは、ちらりと店内を見回した。


「あんま、変わんないんだな」


 ぽつりとこぼした言葉通り、この薬屋はナサ村のものと大きな違いはなかった。

 強いて言えば、薬を保管する棚が木製ではなくガラス張りであることくらいだろう。

 ナサ村では、薬草は紙で包まれ、正方形に区切られた木製の引き出し棚に種類ごとに収められている。

 少しは違いを期待していただけに、レイサはどこか肩透かしを食らったように息を吐いた。


 次に入ったセイスは、店内の様子には特に興味を示さず、無言のまま長椅子へと腰を下ろした。


「いらっしゃいませ」


 薬棚の整理をしていた、やや長めの髪を低い位置で一つに束ねた男性の薬師が、二人に気づいて振り返る。

 レイサは受付台の前に立つと、にこりと微笑みながら言った。


「えっと、酔い止めに効く薬が欲しいんですけど……」


 レイサが尋ねると薬師は一瞬瞬きをしてから、にこりと笑った。


「……酔い止めか。ならショウキョウを使った薬がいいな」


 薬屋はそう言うと、再び棚へ向き直り、「どこだったかな」と独り言を呟きながら瓶を探し始める。

 数分が経過すると、薬師が「あったあった」と言いながら、棚から一本の瓶を取り出した。


 そのとき、レイサはふと思い出したように口を開いた。


「あ、二人分ください」


 声をかけると、薬師は軽く頷いて受付台へ戻る。

 取り出された瓶は手のひらより少し大きく、木栓がはめられ、中には細かく砕かれた粉薬が七割ほど入っていた。


「二つとも、何日分いる?」

「一日分でお願いします」


 迷いなく答えながら、レイサは胸の内で小さく息を吐く。


(ハナネも、あの舟で酔ってたよな……)


 リグラムへ向かう途中の舟を思い出す。顔色を崩し、どこか辛そうだったハナネの横顔が脳裏に浮かんだ。

 どうせなら、ついでに買っておこう。そう思っただけのことだ。


 薬師は頷くと、四角い黒鉄の台座に、丸い皿の取り付けられた器具を引き寄せた。

 その皿の上に薬包紙を広げ、瓶から木栓を抜いて、さらさらと粉薬を流し入れる。

 重みを受けて皿がわずかに揺れ、薬師は台座の部分をじっと見つめた。


(秤……か)


 形こそ違うが、用途はナサ村で使われているものと同じだろうと、レイサはぼんやりと思う。

 量を確かめると、薬師は丁寧に薬包紙を畳み、白い封筒へ収める。

 同じ作業をもう一度繰り返し、二つの包みを受付台に並べた。


「五十ソアだね」


 レイサはすぐに硬貨袋を開き、硬貨を取り出そうとした――が。


「……え」


 中身は、ほぼ空だった。


 その反応に、レイサは背後の長椅子から、鋭い視線が突き刺さるのを感じた。


(ない……)


 瞬間、数日前にサユへの贈り物としてぬいぐるみを買ったことが脳裏をよぎった。

 あの時、ほとんど使い切ってしまったのだ。


 しまった、と思うと同時に、焦りが胸の奥に広がる。

 払わなければ窃盗になる。

 だからといって、セイスに借りるのも気が引けた。

 数秒考え、レイサは諦めかけて口を開く。


「あの、やっぱり俺はなしで――」

「はぁぁ……」


 しかし、レイサが言い終える前に、重く、苛立ちを隠そうともしない溜め息が背後から落ちてきた。


 レイサが振り返ると、セイスが長椅子から立ち上がり、かったるそうな足取りでこちらへ歩いてきていた。

 床を踏む音すら面倒くさそうに、受付台の前まで来ると、セイスは乱暴な手つきで鞄から硬貨袋を取り出す。


「ちょうどやろ」


 そう言って、袋から掴み出した硬貨を受付台へ放るように落とした。

 突然のことに呆気に取られ、レイサはただ、セイスの横顔を見つめていた。

 鷙鳥(しちょう)のように鋭く、感情を読ませない目つきをしている。

 薬師が硬貨を確かめ、「確かに」と短く告げて受け取ったその瞬間、はっと我に返ったレイサは、慌ててセイスへ声をかけた。


「俺はいいです。先輩に出してもらうなんて――」

「もたもたしとるからやろ。もう遅いわ」


 言葉を重ねる前に、荒い口調で被せられる。

 思わず怯んだレイサをよそに、セイスは視線を受付台へ落としたまま続けた。


「心配せんでも、お前みたいなガキに金返せ言うほど、落ちぶれてへん」

「……なっ」


 一瞬、そんな言い方はないだろうと反射的に言い返しかけ、口を開いた。

 だが、金がなかったのは事実だと思い直し、レイサは瞼を閉じて、息を吐き顔を上げる。


「……必ず返します」


 睨むように目を細めて告げると、セイスの鋭い視線がゆっくりとこちらを向いた。

 一拍の沈黙。


「……ほーん。ほな、利子つけて返してもらおか」


 声を落として吐き捨てるように言われ、本気とも冗談ともつかないその響きに、レイサの肩がびくりと跳ねた。


 その直後、扉の方からカランと小さな鈴の音が鳴り、続いて扉がぎぃと軋む音を立てた。

 二人はそろって、そちらへ顔を向ける。


 扉の向こうから姿を現したのは、書店へ向かっていたネシュカだった。


「そっちは終わった?」


 扉を閉めながらそう声をかけると、セイスが身体をネシュカの方へ向ける。


「ええ」


 短い返事に、ネシュカは「そう」とだけ応じた。


「外で、アオイとアイカが待っているわ」


 それを聞くと、レイサはすぐに薬を鞄へしまい、薬師へ礼をして頭を下げた。

 三人はそのまま薬屋を後にする。


「あ、きた!」


 外へ出るなり、こちらに気づいたアイカが声を上げた。

 レイサは軽く手を上げて応え、アオイとアイカのもとへ歩み寄る。


 五人が揃うと、ネシュカは一人ずつ視線を走らせ、全員いることを確かめた。


「あとは、ハナネの昼膳と夕膳に食べるものでも買って、宿に戻りましょうか」


 そう言って歩き出すネシュカを先頭に、五人も自然と後に続く。


 それから五人はスカリット街の露店を巡り、それぞれ必要なものや食べたいものを買い求めて宿へと戻った。

 宿に戻ると、部屋で待っていたハナネと合流し、パンを手渡す。あとは各自が思い思いに時間を過ごした。


 やがて順に湯浴みを済ませ、夕膳を取り終える頃には、身体に溜まっていた疲れが静かに表へ出てくる。


 灯りが落とされると、それぞれが言葉を交わすこともなく床に就き、長い一日は穏やかに終わりを迎えた。

神血(イコル)の英雄伝 第七九話

読んでいただきありがとうございました。

次回も読んでくださると嬉しいです૮ ˶ᵔ ᵕ ᵔ˶ ྀིა

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