月の下で少しだけ
少女たちが乗ったカレットを見送った後、アイカたちは数日泊まるための宿を探していた。
任務はこれで終わったが、すぐに帰ることはできない。
歩きながらアイカたちがネシュカから聞いた話では、舟手の人たちをリグラムに呼ぶには、まずナサ村へ迎えの手紙を送らなければならないという。
手紙は配達屋に届けてもらうのだが、ナサ村までの距離や、手紙が無事に届き、舟手の人たちがリグラムに来るまでを考えると、早くても三日か四日、遅ければ八日ほどは待たなければならない。
実に不便だ。
もちろん、手紙を出さずに直接帰ることもできる。その場合は、自分たちでミラストまで行き、舟を扱う人に頼んで連れて行ってもらうことになる。
しかし、そうするとナサ村まで舟を出してくれる人は休憩のため一晩泊まることが多く、その宿代や食代、湯屋代などもこちらが負担しなければならない。
さらに、ミラストまで歩いて行く分には費用はかからないが、ヴォランクを使う場合は、その分の代金もかかり舟代だけでなく大きな出費になる。
そのため、アイカたちは配達金だけで済む手紙を送る方法を選んだのだった。
「やっぱり、どこも高いわよね……」
宵刻の終わり頃。
薄紫の空の下、スカリット街に戻ってきたアイカたちは、いくつもの宿を回りきったところだった。どの宿も値段は似たり寄ったりで、六人が泊まるとなればそれなりに痛い金額になる。
ネシュカが、指を曲げた右手を顎に添え、左手で肘を支えながら小さく呟く。
ため息には、疲労と焦りが少し混じっていた。
ネシュカの手持ちの金は、すでに使い切っている。
残るはアオイとセイスが所持している二百五十リザンのみ。八日滞在を考えると、決して余裕があるとは言えない。
(あの金が残っていればな……)
アオイとセイスは一瞬だけ同じことを思ったが、口にすることはなかった。
「どうしようかしら……」
ネシュカの独り言に、六人は足を止め、しばし沈黙する。
空はもう真っ暗に近く、街灯がひとつずつ灯り始めていた。
「――あ、じゃあさ!」
ぱっとアイカが顔を上げ、勢いよく右手を挙げた。
「私たち、この前泊まった宿にお願いするのはどうかな!」
その声に、五人の視線が一斉に集まる。
ネシュカはアイカを見つめた。
少女との別れのあと、アイカは背を向けて乱暴に涙を拭い、振り返ったときにはいつもの笑顔を作っていた。
戻ったように見える。けれど、それは無理に戻しているだけ。
瞼の赤みはまだ消えていない。
ネシュカだけでなく、他の四人も気づいていたが、それでも誰も触れなかった。
セイスは不機嫌そうに眉を寄せ、アオイは平静を保ち、ハナネは冷えた横目を送り、レイサはいつものようにアイカを見守るように見つめていた。
「そうだな……」
アオイが腕を組んだまま低く返事をする。
そこへネシュカが、考える間も惜しいという顔で尋ねる。
「安いの?」
ネシュカがアオイを見やる。
「五人で泊まった時は六十ソアでした。回った宿では一番安かったです」
「六十ソア……」
ネシュカは顎に添えた指で軽く頬を叩きながら考え、やがて小さく頷いた。
「――行ってみましょうか。その宿に」
決断の声に五人が返事を返す。
「やった!」
アイカはぱっと明るくなり、アオイ、レイサ、ハナネも頷いた。
案内役としてアオイが先頭に立ち、隣にはネシュカ。
二人の後ろをセイス、さらに後ろをアイカ・レイサ・ハナネが並んだ。
歩き出すと、すぐにセイスが舌打ちをし、髪をぐしゃりとかき乱した。
「ちっ……またアオイと寝なあかんやんけ」
小声のつもりだったが、ネシュカにはしっかり聞こえていた。
「借りたのは一部屋だけだったの?」
歩きながら問いかけると、アオイは前方へ視線を向けたまま答えた。
「はい。何かあった時のため、お金はできるだけ残した方がいいと思いました」
「そうなのね」
ネシュカは静かに、それでも納得したように返した。
「ねえねえ! 今度は隣で寝ようよ~!」
後ろでは、アイカがレイサを挟んでハナネに楽しそうに話しかけていた。
「嫌」
ハナネはわざと反対側へ顔を向け、瞼を閉じたまま氷のような声で言う。
「え~、なんでー……」
アイカが頬を膨らませる。
(……はいはい。どうせまた俺が真ん中だろ)
会話を聞いていたレイサは心の中で小さくため息をついた。
彼らの足音は、夜に沈むスカリット街の石畳に規則正しく響いていく。
◇
「おや、また来るのが早かったね」
宿の中へ足を踏み入れると、この前と同じように、受付台の奥に腰を下ろした宿の女主人が、少し驚いたようにあんぐりと口を開けた。
「夜遅くに、すみません」
アオイが声を落として言うと、女主人はすぐに破顔し、手をひらひらと振った。
「いいのよ、いいの。ここはお客も少ないし、むしろ来てくれたほうが嬉しいくらいよ。それに、まだそんなに遅くもないしね」
ゆったりとした口調でそう言われ、アオイはどこかほっとしたように小さく息を吐いた。
すると、隣にいたネシュカが一歩前に出る。
「六人で、一部屋お借りしたいのですが」
女主人は少しだけ考える素振りを見せてから、穏やかにうなずいた。
「六人ね。それなら、八十ソアでいいよ」
「分かりました」
ネシュカが答えると、アオイが前に出て、鞄から硬貨袋を取り出す。
受付台に置かれた金属音が、静かな宿内に小さく響いた。
「ちょうどです」
「確かに」
女主人は引き出しを開け、鍵を一つ取り出すと、差し出した。
「三階の左の部屋を使いな。足りないものがあったら、あとで持っていくから」
アオイが手のひらを広げると、鍵は軽く、そこへ落とされた。
「……ありがとうございます」
アオイが礼を言い、身体を横にして後ろのネシュカたちへ顔を向ける。
「ありがとうございます」
ネシュカも穏やかに微笑み、改めて礼を述べた。
六人は受付台の横にある階段へと向かい、ネシュカが先頭で一段目に左足をかけた、その時。
「――そういえば、あんたたち」
背後から、呼び止める声がする。
「ご飯は、もう済ませたのかい?」
ネシュカは足を下ろし、振り返った。
「いえ、まだですが……」
言い終わるより早く、女主人は微笑んだ。
「なら、簡単なものでよければ、うちで出すよ」
「え、ほんと!?」
「いいんですか!?」
弾むような声を上げたのは、アイカとレイサだった。
二人の表情が、一気に明るくなる。
ハナネも声こそ出さなかったが、わずかに身を乗り出し、期待を隠しきれない様子で女主人を見ていた。
セイスとアオイは、言葉を挟まず、静かにネシュカを見る。
ネシュカは一瞬、迷うように視線を落とし、それからアイカたちを見た。
小さく息を吸って、女主人に向き直る。
「……では、お言葉に甘えさせていただきます」
「いいんだよ」
女主人は、どこか照れたように笑った。
「歳を取るとね。こういうお節介が、楽しくなるのさ」
「おばさん、ありがとう!」
アイカが真っ先に礼を言い、レイサも続く。
「ありがとうございます」
ハナネとアオイも、控えめに頭を下げた。
セイスは、ほんの少しだけ顎を引き、それで十分だと言うように視線を逸らした。
◇
スープが温まるまで少し時間がかかるから、部屋で休んでいなさい――そう言われた六人は、階段を上り、鍵を渡された三階左の部屋へと入った。
それぞれ荷物を下ろし、思い思いに腰を下ろす。
「ひっろ!!」
室内をぐるりと見渡し、アイカが瞳を輝かせて声を上げた。
部屋は、前に泊まったものより一回り以上広い。
大人二人が余裕で寝られそうなベッドが三つ、等間隔に並び、その間には人が通れるだけの空間がある。
窓は中央のベッドを挟むように二つ。丸い机の周りには、四脚の椅子が向かい合うように配置されていた。
どうやら、元々は大人数用の部屋らしい。
「ベッドが三つですね」
真っ先にベッドへ視線を向けたレイサが、ぽつりと言った。
そう言いながら、すぐにネシュカたちへ目を向ける。
「寝る時の組み合わせ、どうしますか?」
これなら、アイカとハナネに挟まれて暑苦しい思いをせずに済む。
そんな期待を胸に秘めつつ、レイサは問いかけた。
「そうね……」
ネシュカは一度レイサを見てから、五人全員へと視線を巡らせた。
まだ二日ほどの付き合いではあるが、後輩三人の関係性は、なんとなく見えてきている。
アイカとレイサは幼馴染。言葉を交わさずとも、自然と並ぶ距離感がある。
レイサとハナネは、拒絶はあれど断ち切るほどではない。仕事の話なら問題なく会話が成立する関係だ。
――問題は、アイカとハナネ。
ハナネは、はっきりとアイカに苦手意識を持っている。
距離を詰めるのが早すぎるアイカの性格が合わないのだろう。
宿へ向かう道中も、タルネアを食べていた時も、ハナネは終始それを隠そうとしなかった。
「アイカとレイサが一緒」
そう判断し、ネシュカは二人に顔を向けて告げる。
続いて、ハナネのほうへ視線を移した。
「ハナネは、私と一緒でもいいかしら?」
「はい」
短く答えたハナネは、わずかに肩の力を抜いた。
「レイサかー」
ハナネと一緒に寝られなかったことに、アイカは少し残念そうな声を出す。
けれど、それも慣れた様子で、すぐに笑って続けた。
「いつも通りだね」
「だな」
レイサも、特に気にした様子はない。
ネシュカは、今度はアオイとセイスへ視線を向けた。
「二人も、それでいいかしら?」
名前を呼ばれなくとも、残りは自分たちだと理解している。
ネシュカの、静かだが有無を言わせない采配が、二人にも伝わっていた。
「はい」
アオイは淡々と頷く。
一方セイスは、口の端をわずかに歪め、視線を逸らして小さく息を吐いたが、文句は言わなかった。
「ありがとう」
違う反応を見せる二人に、ネシュカは柔らかく微笑んだ。
アオイは隣が誰であっても気にしないだろうし、セイスも不満はあっても、必要以上に騒ぎ立てる性格ではない。
そういう点で、この組み合わせは、彼女にとってもありがたかった。
やがて六人は一階へ降り、宿の中にある小さな食堂へと足を踏み入れる。
食堂には、左右に向かい合う形で置かれた縦長の机が二組あり、それぞれに五脚ずつの椅子が並んでいた。
右手の壁際には、この季節にはまだ使われていないものの、丁寧に灑掃された暖炉が備え付けられている。
一組の机の中央には、木製の丸い器と平皿が置かれ、その上にはパンが左右に三つずつ並べられていた。
六人は、右側にネシュカ、セイス、アオイ。
その正面に、アイカ、レイサ、ハナネの順で腰を下ろす。
女主人が用意してくれたスープは赤みを帯び、小さく刻まれた野菜と小粒の豆がたっぷり入っていた。
添えられたパンは、中央に十字の切れ込みが入った、ふっくらと丸みのあるものだ。
スープを口に運ぶと、熱すぎず、冷たくもない、ちょうど良い温度だった。
香辛料がほどよく効き、わずかな辛味が後を引く。
パンは弾力があり、噛むほどに素朴な甘みが広がった。
食事を終え、皆で皿や器をまとめていると、ちょうど女主人が様子を見に現れ、空になった器に目をやって満足そうに微笑んだ。
六人は、せめてもの礼にと洗い物を申し出たが、
「お客さんは、ゆっくりしてなさい」
そう笑顔で断られてしまう。
その後、部屋へ戻った六人は、ハナネ、アイカ、レイサ、アオイ、ネシュカ、セイスの順で湯浴みを済ませた。
湯上がりのあとは、それぞれが思い思いに過ごす。本を開く者もいれば、小声で言葉を交わす者、静かに報告書をまとめる者もいた。
だが、そんな時間も長くは続かない。
夜が深まるにつれ、疲れ切った身体に、じわじわと眠気が忍び寄ってきた。
やがて深夜を迎える前には、六人ともそれぞれのベッドへ潜り込み、静かに眠りへと落ちていった。
だが、その中で、アイカだけはどうにも寝付けずにいた。
暗い部屋の中、ベッドに横になったまま、じっと瞼を開いたままでいる。
(散歩でもしよ……)
一向に眠気が訪れない。
気分を変えようと、アイカはそう決めると、そっと上半身を起こした。隣で眠るレイサを起こさないよう、静かにベッドから足を下ろす。
そのときだった。
「どこへ行くの?」
静かな声が、闇の中から落ちてくる。
びくりと肩を跳ねさせ、アイカは声のした方へ顔を向けた。
そこには、上半身を起こしたネシュカが、真っ直ぐこちらを見据えていた。
一瞬、驚いたように目を見開いたアイカだったが、すぐにいつもの笑顔を作る。
「さんぽー」
軽くそう答えると、ネシュカはしばらくアイカを見つめ、やがて少しだけ眉尻を下げた。
「一人は危ないから、ついて行くわ」
「え、いいよ! 一人で平気平気だから」
慌ててそう言ったが、ネシュカは首を横に振る。
「ここはナサ村と違うのよ」
そう言いながら、ネシュカはゆっくりと床に足をつけ、立ち上がった。そして、そのまま扉の方へ向かう。
アイカは一瞬ためらったものの、結局その背を追うように立ち上がった。
◇
宿の外へ出ると、夜の道には、ぽつりぽつりと街灯が灯り、石畳に淡い明るさを落としていた。
空には星が満遍なく散り、それぞれが小さく、けれど確かに光を主張している。
アイカは、まるで幼い子どものように、その星空に心を奪われた。
やがて、星々の中でもひときわ強く光を放つ、まんまるの満月が目に入る。
満月は、ただそこにあるだけで、息を呑むほどに美しかった。
月を見つめていると、隣に立つネシュカが、不意に微笑み、静かに声を落とした。
「さっきの女の子……」
その言葉に、アイカははっとしてネシュカの方を向く。
視線が合うと、ネシュカはわずかに目を伏せ、儚げな笑みを浮かべたまま、続けた。
「ナサ村にいた子よね」
「え……」
アイカは思わず声を上げ、目を丸くした。
あの少女とは、襲撃の時、セイスとハナネ以外は面識がないと思っていた。
まさかネシュカが知っていたとは、想像もしていなかった。
「知ってるの……!?」
驚いたまま身体ごとネシュカの方へ向けると、ネシュカは静かに頷いた。
「ええ。私が新人だった頃、見回りの途中で何度か見かけたことがあるもの。……そう簡単に忘れるわけがないわ」
そう言ってから、ネシュカは視線を上げ、アイカを真っ直ぐに見つめた。
その声音は優しく、けれど迷いがなかった。
「アイカは、あの子を助けられなかったことを、どこかで後悔しているのかもしれない。でも私は、貴方は正しいことをしたと思っているわ」
アイカは息を呑み、黙ってその言葉を聞く。
「もし、貴方があの子を逃がしていたら……あの子のために犠牲になった人たちは、報われなかった。
どんな過去があっても、誰かに命じられていたとしても――最終的にその道を選んだのは、あの子自身よ」
ネシュカの眼差しは、まっすぐで、揺るぎがなかった。
「犯してしまった罪は、必ず償わなければならないの」
その言葉に、アイカは無意識に手に力を込めた。
ネシュカの言うことは、きっと正しい。
それでも、それを素直に飲み込めない自分が、確かにいた。
視線を落とし、黙り込んでいると、ネシュカが小さく言った。
「ずっと引きずるのは、良くないわよ」
そして、少し間を置いて続ける。
「あの子は、自分のことを最後まで恨んでいたと思ってる?」
「……」
核心を突かれたようで、アイカは一瞬、胸を強く打たれた。
けれど、誤魔化すことはせず、そのまま言葉を紡ぐ。
「うん。だって私は、あの子に取り返しのつかないことをしたし。恨まれ続けて当然だと思う」
「それは、少し違うんじゃないかしら」
ネシュカは軽く息を吐き、穏やかな声で言った。
その言葉に、アイカは驚いたように目を瞬かせ、きょとんとした表情を向ける。
「確かに、今までアイカのことを恨んでいた時期はあったかもしれない。
でも、最後まで恨んでいたなら……あんな笑顔は作れないわ」
「……笑顔」
アイカは、ぽつりと呟いた。
「そう。最後の最後、あの子は泣いていたけれど……笑っていたでしょう」
その言葉に、アイカはあの少女の最後の顔を思い出す。
嫌悪も、罵倒も、痛いほど向けられた。
それなのに、最後は涙を浮かべたまま、確かに少女は、アイカに笑顔を向けた。
なぜ、あの時笑ったのか。
アイカには、ずっと分からなかった。
「あれはね」
ネシュカが、静かに続ける。
「どんなに小さくても、アイカに救われたと思えたから、向けた笑顔だと思うの」
アイカは、ほんの一瞬時が止まったように感じ、やがてゆっくりと眉を下げ、小さく笑った。
「……だと、いいな」
その言葉に、ネシュカはほっとしたように肩の力を抜き、柔らかく微笑んだ。
ふと宿の扉へ視線をやり、微かに開いていることに気づくと、困ったように瞬きをし、静かにアイカを見つめた。
「どうする? せっかくだし、もう少し外の空気を吸っておく?」
「うん、そうする!」
ネシュカが尋ねると、いつもと変わらない笑顔を浮かべて、アイカは答えた。
「そう。私はもう眠いから、先に戻るわね」
「うん! ネシュカ、ありがと!」
ネシュカは静かに踵を返し、扉の方へ歩いていった。
アイカは、その背中に元気よく礼を告げ、姿が見えなくなるまで見送った。
◇
ネシュカが扉の近くまで歩み寄ったとき、室内から慌ただしく走り去るような、小さな足音が微かに遠ざかるのを耳にした。
取っ手に手をかけ、音を立てないよう静かに扉を開く。
すると気配はすでに廊下を抜け、階段の方へ移動していた。
ネシュカがそっと視線を向けると、踊り場の折り返し付近で、暗がりの中に髪が一瞬だけ揺れ、すぐに視界から消える。色までは判別できなかった。
だが、足音は完全には消えず、忍ぶように階段を上っていく気配が残っていた。
ネシュカは扉を静かに閉じると、まぶたを伏せ、ひとりの名前を呼ぶ。
「……レイサ。出てきなさい」
その名が落ちた瞬間、足音がぴたりと止まった。
数秒の沈黙ののち、今度はゆっくりと、階段を下りてくる音がする。
やがて、踊り場の縁から靴の先が覗き、続いて、琥珀色の髪を揺らしながら、苦笑いを浮かべたレイサが顔を出した。
「……なんで俺だって分かったんですか?」
気まずそうに笑いながら、レイサは左頬を指先で軽く掻く。
ネシュカは階段へ向かって歩み寄り、背後で手を組んだまま、穏やかに微笑んだ。
「セイスやアオイは、あんなに素早く走れないわ」
ネシュカとアイカが話していた場所は、宿の扉からそう離れてはいなかった。
ネシュカが取っ手に手をかけ、扉を開くまでのわずかな間に、そこから階段まで駆け抜けるのは容易ではない。
だが、人並み以上に俊敏な脚力を持つ獣の神選者ならば、それも可能だ。
ネシュカはそのことを、レイサの父であり隊長でもあるユサの姿から、何度も見て知っている。
「……バレないと思ったんですけど」
諦めたように笑うレイサを見つめ、ネシュカは察する。
きっと、アイカが気になったのだろう。
「女同士の内緒話を、男の子が盗み聞きするものじゃないわ」
レイサの前に立つと、人差し指を唇に当て、少しだけ首を傾ける。
「……はい」
レイサは小さく頷き、申し訳なさそうに笑った。
二人は言葉を交わすことなく、静かに部屋へ戻っていった。
◇
アイカは、ネシュカの背を見送ると、外にひとり残り、もう一度夜空を見上げた。
満月と、無数の星が満面に広がる空。
先ほど交わしたネシュカとの会話を思い返しながら、その光景を胸に刻む。
ネシュカと話すまでは、やはりあの少女のことが重く心にのしかかっていた。
けれど今は、不思議とその重みが、少しだけ軽くなった気がする。
もし、ほんのわずかでも、最後の最後にあの少女の心を軽くすることができたのなら、それは嬉しい。
そんなことを思った、その瞬間だった。
「クシュんっ……!」
気が緩んだせいか、急にくしゃみがこみ上げる。
暑さが残る時期とはいえ、薄衣のまま夜風に当たっていれば、さすがに身体が冷えてくる。
「……さむ」
アイカはそう呟き、鼻を軽くつまんで啜ると、「戻ろ」と小さく言って、宿の扉へと歩き出した。
石畳に落ちる自分の足音だけを聞きながら、アイカは宿の扉を押した。
きい、と小さく軋む音が夜に溶ける。
満月の光を背後に残し、温かな空気の中へ戻っていく。
胸の奥に残る想いはまだ少し消えないけれど、それでいい。
アイカはそっと扉を閉め、静かな宿の中へと足を踏み入れた。
神血の英雄伝 第七八話
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次回も読んでくださると嬉しいです૮ ˶ᵔ ᵕ ᵔ˶ ྀིა




