少女
角灯の淡い光と、鉄格子から漏れ込む夜の灯りだけが揺れるカレットの中で、少女は隅にうずくまっていた。両膝を立ててその上に顎を乗せ、小さく息を吐く。
暗闇に包まれた静けさのせいだろうか。
ふと、病室のベッドで意識が朦朧としていたあの時間が胸の奥によみがえる。
あのときの自分は、熱いのか寒いのかさえ分からず、身体のどこが痛むのかも曖昧で、ただ「痛い」と「だるい」が濁った水のように胸の底で渦を巻いていた。
その朧げな意識の底で、少女はひとつの夢を見ていた。
過去の記憶がそのまま蘇ったような、鮮明すぎる夢を。
いま、カレットの中で揺られる振動に身を任せながら、少女はその記憶の断片へと自然に沈んでいく。
◆◆◆
最初に聞こえたのは、薄暗い部屋に微かに響く泣き声だった。
『……だれか、たすけて。おねがいだから……』
湿った布団の中で、泣き声を押し殺しながら漏れたその弱々しい声が、自分自身のものだと気づくまで、少し時間がかかった。
やがて、記憶の幕がめくられるように、ひとりの男の姿が浮かび上がる。
翡翠のような瞳を細め、唇だけで作り物めいた笑みを形作る男。
――サクヤ・クオネ。
クオネ・サクヤに捕まった、あの日。
身動きひとつ取れない幼い少女を見下ろしながら、サクヤは翡翠の瞳を細め、唇だけで笑みをつくった。
本来なら売り飛ばされるはずだった少女に、サクヤふいに呟いたのだ。
少女はその声の気味悪い響きを、今でも忘れられない。
『あぁ、いいこと思いついた。売るのはやめて、君は僕のそばに置いておこう。いつか青い目ちゃんの前に出したら……絶対、面白いことになる』
幼い子どもをあやすときのような、滑らかで穏やかな声音でそう告げた。
その声の優しさとは裏腹に、言葉の中身は底冷えするほど残酷だった。
微笑んでいるはずなのに、そこにあるのはただ 表情の形だけ。
まるで作られた人形に、笑みの面をそのまま貼り付けたような顔だった。
その表情には、感情と呼べる温度がまるでない。
少女には、それが本当に人間の顔なのか疑わしく思えた。
『あ、でも……せっかくだから君自身が選びたいよね』
優しい声でそう言いいながら、サクヤは少女の頬に指先を触れさせた。
冷たい指先が、頬から顎へと逃げ道を確かめるようにゆっくりとなぞる。
そしてそのまま首筋へ回され、壊れ物を抱くように優しいのに、どうあがいても逆らえない力で固定した。
『金持ちの玩具になって一生を終えるか。それとも、僕の駒になって、その時が来るまで生きるか。どっちがいい?』
どちらを選んでも、行き着く先は地獄だ。
金持ちに飼い殺される未来も、この男に使い潰される未来も、救いなどどこにもなかった。
ーーそれなら。
少女はそっと顔を上げ、まっすぐサクヤを見返した。
サクヤは、ほんの一瞬だけ動きを止める。
そして次の瞬間、面白い玩具を見つけた子どものように、肩を震わせた。
『……いいね、その目。そういう眼も、僕は好きだよ』
薄い笑みをつくる唇とは裏腹に、瞳だけは一切笑っていなかった。
そして次に思い出したのは、まったく別の光景だった。
浮かび上がってきたのは赤い炎のような髪を逆立てた、大柄な青年ーートウガ。
刈り上げた横から鋭い輪郭がのぞき、筋肉の塊のような体躯は、幼い少女には壁にも見えた。
最低限使えるようにと、サクヤに命じられて少女の指導を引き受けた男だった。
視線を上げるだけで圧に押しつぶされそうな迫力がある。
拳の握り方すら知らない少女を、トウガは容赦なく何度も地面に叩き伏せた。
『使いもんにならねぇならーーお前が死ぬだけだぞ!!』
ぎらりと赤い柘榴石のような瞳が光る。
乱暴で荒々しい声音だが、誇張でも脅しでもない。
その言葉が事実であることを、五歳の少女でさえ理解していた。
倒れるたび、トウガは乱暴に襟をつかんで引き上げる。
『ほら、立て』
少女が何か一つでも「できる」兆しを見せるまで終わらなかった。
涙をこぼそうが、怪我に呻こうが、成長の気配が見えるまでは、容赦のない指導は続いた。
少女は必死に耐えた。
ここで折れれば、サクヤに殺されるよりひどい死に方が待っている。それを知っていた。
駒として生き延びるには、痛みに耐えて動けるようになるしかなかった。
その痛みを思い出したまま、少女の記憶は次の光景へと滑り込んでいく。
今度は、最初に見たあの部屋だった。
三帖ほどの狭い空間。木目の茶色い床、白い壁。
扉の正面、少し高い位置には小窓があり、面格子がはめられていて脱げ出せる隙間などどこにもない。
木製の机と椅子。そして、ベッドと薄い毛布だけの、簡素で何もない部屋。
それでもこの時の少女にとっては、ここだけが唯一、心を休められる場所だった。
夜になると光はほとんど届かず、少女は小さな布団の中で腫れ上がった身体を抱え、声を殺して泣き続けた。
泣くたびに、まるで逃げ場を求めるように、ナサ村で過ごした穏やかな日々の記憶が胸の奥に浮かんだ。
父はいなかったけれど、母と二人でつつましく囲んだ夕膳。
友達と人形遊びをして笑い転げた、あたたかい午後。
戻れるものなら戻りたいと、何度も、何度も願った。
だが、戻りたいと願う記憶と同じ深さで、少女の心にはもうひとつ、消えない光景がこびりついていた。
サクヤが「青い目ちゃん」と呼んでいたお姉ちゃんの姿だ。
連れ去られる直前、少女は必死に手を伸ばして助けを求めた。
けれどその人は、一歩も動かなかった。
ただ、少女が連れていかれるのを見ているだけだった。
後に、そのお姉ちゃんが大地の神選者だとサクヤから聞いた。
だからこそ、少女には理解できなかった。
あの人が手を伸ばしてくれていたなら。
自分は、こんな地獄に落ちずにすんだのではないか。
身勝手だと分かっていても、恨まずにはいられなかった。
その恨みは毒のように静かに胸の底に沈み、気づけば少女の中で、折れずに立つための薄くても確かな支えになっていた。
少女が駒として使えるようになった頃には、その恨みはもう消える気配もなく、むしろ濁るように濃くなっていった。
初めて人を殺したときの、鼻につく煙の匂い。
皮膚に空い、どこまでも生々しい小さな穴。
何度瞬きをしても消えず、吐き気に襲われた。
サクヤの命令に失敗した日の罰も、脳裏にこびりついて離れない。
壁に背中を押しつけられ、いきなりツタで吊し上げられた。
細い枝のようでいて、内部にはびっしりと棘を潜ませた植物。
右腕に巻きついた瞬間、生き物のように締まりつき、棘が皮膚を割って奥へ潜り込む。
サクヤが指先をひねるたびに、枝の内部で植物が成長し、棘はさらに深く、奥へ、奥へと広がっていった。
少女は時間の感覚さえ曖昧になるほど耐え続けるしかなかった。
その激痛の中でさえ、少女は心のどこかで思ったのだ。
──あれも、これも、あのお姉ちゃんのせいだ。
恨みは積もり、積もった分だけ濃く沈んだ。
だが、恨みが深くなるほどに、ふと、ひやりとした別の考えが、少女の頭をよぎる瞬間があった。
……もし自分が、あのお姉ちゃんの立場だったとしたら。
あの時、絶対に動けなかっただろう。
それなのに、少女はあのお姉ちゃんのことだけは平気で責めていた。
もし、お姉ちゃんが自分可愛さに動けなかったのなら。
サクヤの命令とはいえ、生き延びるために人を殺めてしまっている自分はどうなのかと。
そんな矛盾に気づいてもなお、少女の中でお姉ちゃんへの怒りが消えることはなかった。
サクヤの命令を遂行できなかった二度目。
ミアラが嬉々とした声で「青い目の子を見つけた」と報告した瞬間、少女の頭の中は真っ赤に塗りつぶされた。
胸の奥が、ぐらりと揺れる。
焼けるような痛みと一緒に、言葉にならない怒りが、音もなく込み上げてくる。
どうして自分だけが、こんなにも苦しんでいるのに。
あの人は平和な場所で、生きているのか。
少女は拳を握りしめた。
指先が白くなるのも分からないほど、感情は熱く、反対に体は冷たくなっていった。
自分が味わい続けた痛みも、流した涙も、あのお姉ちゃんは、きっと何も知らない。
それが、どうしようもなく許せなかった。
だから、少女は、全てお姉ちゃんのせいだと 恨むことを選んだ。
ただそのほうが、心のどこかが少しだけ軽くなる気がしたから。
◆◆◆
そこまで思い返したところで、夢の中で見た過去の記憶は、ふっと途切れた。
胸の奥に残った痛みだけが、微かに波紋のように広がる。少女はその感覚に耐えるように、そっと眉を寄せた。
気づけば視線は、自分の右腕へ落ちていた。
患者衣の袖に隠れているその腕を、左手の指先でなぞる。痛みはないけれど、布の下には今も薄く棘の跡が残っている。
うっすらと残るその痕を見つめたまま、少女の意識は自然と昨日へ引き戻された。
七年ぶりにお姉ちゃんと再会したあの瞬間、少女の心の中にあったのは、恨みと怒りだけだった。
けれど、対峙するうちに胸の奥で別の感情がゆっくりと顔を出した。
あの七年間、誰にも救われず、ひとりで泣きじゃくっていた頃のような、どうしようもない悲しみだった。
それが、怒りや恨みよりもずっと強く膨らんでしまった。
だから、最後にお姉ちゃんの前で押し負けてしまったのだと思う。
殺される。そう覚悟していたのに、お姉ちゃんは少女を殺さなかった。
ただ強く抱きしめて、七年分の謝罪と、「生きててくれてありがとう」と、「今度こそ絶対に助けたい」と言ってくれた。
少女は、もうとうに誰かに助けを求める気持ちなど捨てていた。
しかも相手は、七年間ずっと恨みを向けてきた相手だ。
……それでも、ほんのわずかに思ってしまった。
このお姉ちゃんなら、もしかしたら。
そんな感情を抱いてしまったからだろう。
少女は、サクヤに「用済み」と判断された。
けれど、それでもお姉ちゃんは必死に手を伸ばしてくれた。
恨みをぶつけられ、一度は本気で殺されかけたというのに、自分に向き合おうとしてくれた。
その瞬間、少女の中で怒りも恨みも、ふっと音もなく消えた。
代わりに押し寄せてきたのは、七年間分の悲しみと、胸を締めつけるような罪悪感だった。
その気持ちは、今日。
病室のベッドで意識がはっきりし、お姉ちゃんを視界に捉えた瞬間も同じだった。
恨んでいたはずの相手に、罪悪感や希望なんて抱いてしまった。
その事実が、何よりも少女を嫌な気分にさせた。
結局いま、処刑を受けるためにカレットで護送されている。
自分のせいで、多くの犠牲が生まれたのだから仕方のないことだ、と諦めもついていた。
それでも、もしあの時。
サクヤの駒として生きる道を選ばず、お姉ちゃんと再会できていたのなら――こんな結末にはならなかったのだろうか、と。
そんな考えがよぎる自分自身にも、また嫌気がさした。
神血の英雄伝 第七七話
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