引き渡し
ネシュカが病室を出て二十分ほど経過した後。
病室に残された七人は、スカリット街へ向かうため簡単な身支度を終えていた。
とはいえ、持っていくものといえば鞄と武器だけ。準備に時間などほとんどかからなかった。
「……よし。みんな、行けるな」
室内をぐるりと見渡しながら、アオイが声をかける。
「はい! 俺はもう大丈夫です」
真っ先に返事をしたのはレイサだった。
いつも通りの大きな声。焦りも迷いもない。
アオイはレイサに一度視線を向け、それから他の面々へ目を移す。
ハナネは無言。
そのまま静かにアオイを見ているだけだが、準備は整っていることが表情に出ていた。
セイスはというと、横を向いて深々とため息を吐いている。
それでも立ち方ひとつ崩れておらず、行動の意思があるのはわかる。
リイトは、じっとチアーを睨みつけていた。
数分前、勝手に情報を売られた怒りはまだ冷めていないらしい。
だがチアーは気にした様子もなく、淡々とした涼しい表情のまま壁にもたれている。
――そして。
ひとりだけ、まだ視線が少女の寝ているベッドに残っていた者がいた。
「アイカ」
アオイの声が呼んだ瞬間、アイカは肩を小さく震わせ、ようやく視線を上げた。
ゆっくり立ち上がる。
「……うん。行ける!」
小さく頷いたあと、ほんの少しだけ声に力を込めてアオイの方へ身体ごと向いた。
「行くぞ」
短く告げ、アオイが先に扉を開け廊下へ出る。
続いてレイサ、ハナネ、リイト、そしてチアーの順に歩き出す。
アイカは一度だけ振り返り、少女を見た。
ほんの数秒。それだけで十分だった。
そして歩き出す。
最後に、セイスが無言で扉を閉めた。
◇
七人は、リズムレイ苑の石畳を歩いていた。
周囲は穏やかな空気に包まれている。門のそばでは婦人たちが談笑し、庭先では犬が尻尾を振りながら散歩を楽しんでいる。窓辺では洗濯物を取り込む人影が見え、どこも生活の温度があった。
大きなラゴンが通るたびに、七人は自然に道の中央から外れ、列を整えながら進んでいく。
初めて来た時とは違い、アイカもレイサも騒ぎはしなかったが、まだ物珍しいのか、きらきらした目で整った家並みを見回している。
先頭を歩くアオイは、視線を前に据えたまま一度も振り返らない。背中には責任感が滲み、歩幅も迷いがなかった。
ハナネもまた静かに歩き、ふと横目でアイカとレイサを見やった。先日、ここを通った時の二人の騒がしさを思い出す。
(……いつもこれくらい静かならいいのに)
淡々とそう心の中で呟き、また前へ視線を戻した。
そのとき、家並みを眺めながら歩いていたレイサが、不意に視線を外し、両手を頭の後ろで組むようにしてアイカへ身を寄せた。
「……なぁ、アイカ。大丈夫か?」
明るく、普段と変わらない口調。
けれど、その声には確かな心配があった。
しかし真面目な顔で伝えるのではなく、あえて軽く笑いに紛れさせる。そういうところが、レイサらしかった。
「え、レイサ、熱でもあんの?」
「はぁ!? 人が気にして聞いてやってんのに……」
アイカが本気で驚いたように目を丸くすると、レイサはすかさず噛みつくように言い返した。
その反応がおかしくて、アイカは耐えきれず吹き出す。
「ぷっ……あはは!」
澄んだ笑い声が静かな道に響く。
レイサはむっすりした顔のまま、しかしどこか安心したようにアイカの横を歩き続けた。
前を歩くハナネは、気怠げに視線を横へ滑らせる。
(……なんなのよ)
ため息こそつかないが、表情だけで十分語っている。
そのさらに後ろ、セイスは眉をひそめ、二人の背中を睨んだ。
(騒ぐな。目立つやろ)
声にしない苛立ちが空気に混ざる。
けれどアイカは笑い終えると、ふっと息を整え、レイサへ向き直った。
「……嘘だって! 大丈夫。ありがと、レイサ」
今度は柔らかく、落ち着いた声。
無理に明るく振る舞ったわけでも、強がったわけでもない。
それは、気持ちに区切りをつけた声だった。
レイサは「何だよ」とぼやきながらも、足取りをほんの少し緩めた。
アイカの歩幅に、自分の歩みをそっと合わせる。
「……っと、そういえばよ。ついたら、俺たちって何すんだ?」
歩きながら、レイサが話題を変えるように声をあげた。
「仲介屋捕まえるんじゃないの?」
アイカは当然と言わんばかりの即答。
レイサは「だよなぁ」と頷きかけ
「アホか。お前らにそんな大役回ってくるか」
その言葉が背後から飛び、二人の足が止まりかける。声の主はセイスだ。
「え、違うの!?」
アイカが大きく目を開き、レイサも肩を落としながら振り返った。
「違うに決まっとるやろ。誰がそんな大仕事、お前らみたいなひよっこに任せるかボケ」
セイスの声には呆れと若干の怒気が混じっていた。
「……じゃあ、俺たちは何を?」
レイサが身を乗り出し問い返す。ほんの少し、期待が滲んだ声だった。
「知るか」
即答。
だが次の瞬間、セイスはわずかに顎を上げ、前を見たままぽつりと付け足した。
「まあ――せいぜい、“あいつら”の見張りくらいやな」
すると、アイカとレイサはゆっくり前を歩くリイトとチアの背中へ視線を向けた。
セイスの声は遠慮という概念を知らない。当然、後ろの二人にも丸聞こえだ。
リイトは眉間に皺を寄せ、チアは「怖いなぁ」とでも言いたげに口元を引きつらせながら、無理やり前だけを見る。
二人の背中には、聞こえてるけど反応したら負け、そんな無言の圧があった。
先頭を歩くアオイは、そんな空気を全身で受け取りながら小さくため息をつく。
(……もう少し静かにしてくれ)
◇
スカリット街に着いた七人は、露店の灯りが並ぶ通りで、ネシュカの到着を静かに待っていた。
だが、その静けさを破るのは、通りいっぱいに漂う香りだった。焼かれた肉の焦げる匂い、香草の刺激的な香り、蜜に似た甘い香り。
そしてどこか懐かしい、家で嗅いだことのある温かな匂いまで混ざり合っている。
アイカとレイサは無意識に露店のほうへ顔を向けていた。
朝から何も食べていない身体が、遠慮なく「食え」と訴えてくる。
早い時間帯のせいか、思ったほど混雑はしていない。それでも、道が埋まるほど人はいて、皆好きな料理を選び、楽しそうに食べている。
レイサの喉が、ごくり、と鳴った。
アイカは目を輝かせ、今にも駆け出しそうな勢いで露店を凝視する。
それを横目に見たアオイが、淡々と言った。
「今は無理だぞ」
その短い言葉には、迷いも甘さもなかった。
ネシュカを待っている間とはいえ、これから仲介屋の拠点へ踏み込むという状況だ。腹を満たしている余裕などあるはずもない。
分かっていたはずなのに、改めて言われると効く。
アイカとレイサは「……ですよね」と言わんばかりに肩を落とし、しゅんと下を向いた。
「結構待ったかしら?」
澄んだ声が響いた。
七人が声の方向へ振り向くと、金髪を光に揺らしながらネシュカが歩いてくるところだった。儚げなのに、ひどく存在感がある。
「いえ。俺たちも今来たところです」
アオイが淡く微笑んで応じると、ネシュカも満足げに頷く。
「なら良かったわ」
そう言うと、視線をチアへ向けた。
「案内、お願いね」
柔らかく微笑むネシュカに、チアはほんの一瞬サレックの不在を確認し、静かに微笑み返した。
「……はい。もちろん」
八人は歩き出す。
露店の賑わいを抜け、人通りがまばらになった区域に入ると、酒場や食堂が並び始める。
窓の奥にはすでに客が入り、酒を飲み、楽しげに笑っていた。別の店では開店準備を急ぐ店員の姿が見える。
そんな街の気配を横に感じながら、チアが立ち止まった。
「──ここです」
指した先には、二階建ての建物。
細い柱で支えられた屋根が入口を覆い、立て看板には簡素な品書き。扉には「開店前」と札がぶら下がっている。
ぱっと見れば、どこにでもある普通の酒場だった。
「ここが……」
アイカが呟く。
驚きと、少しの緊張が混ざっていた。
「間違いないわね?」
確認すると、チアも小さく頷いた。
ネシュカはくるりと振り返り、全員を見渡す。
「じゃあ、役割を伝えるわ」
その瞬間、空気が張り詰めた。
アイカたちは無意識に息を呑む。
「中に入ったら、まずセイス。あなたと私で内部の制圧。アオイは子どもがいた場合、保護を最優先。いい?」
「了解です」
「はい」
静かに返事が並ぶ。
ネシュカは次に、後輩三人を見た。
「あなたたちは、入り口で逃走阻止」
短く告げる声に、空気が一段と張りつめた。
「リイトたちの見張りは?」
アイカが問うと、ネシュカはゆっくりと首だけ動し、リイトとチアーへ視線を滑らせた。
「この二人には……もう逃げる意思なんてないでしょう」
淡く微笑む。それなのに、有無を言わせない断定だった。
「もちろん逃げようとしたら対処はするけれどね」
穏やかで、ふんわりした声音。
けれどその言葉は、冷たい鉄の鎖のように逃げ道を塞いだ。
誰も口を開かないまま、一瞬の静寂が落ちる。
「──行きましょう」
その一言が、合図になった。
ネシュカは振り返らず歩き出す。
指先まで無駄がなく、軽やかなのに、揺るぎない強さを背中に宿していた。
アオイが自然とその後ろにつく。
ハナネも同じ方向へ視線を固定し、静かに歩幅を合わせた。
その目には、先輩たちに追いつくための鋭い光が宿っている。
アイカとレイサは、一瞬だけ立ち止まった。
気圧されたように息を吸い、レイサが背筋を伸ばす。
「……よし」
吐き出した声は小さいのに、迷いに区切りをつける音だった。
そのまま歩き出し、ネシュカたちの背中を追う。
アイカも拳を握る。
心のどこかに残る迷いを、ぎゅっと握った拳の奥へ押し込んだ。
肺いっぱいに冷たい空気を吸い込み、震えそうな心を無理やり前へと押し出す。
「――っ」
そして、アイカは大きく一歩踏み出した。
セイスはそんな後輩たちの背中を横目にちらりと見やり、ふん、と短く鼻を鳴らした。
(――ひよっこどもが)
吐き捨てるような心の声とは裏腹に、その足取りは驚くほど静かだ。
軽口に似た毒を胸の奥へ押し込んだまま、セイスは音ひとつ立てず後輩たちの背を追う。
◇
ネシュカが扉に手をかけ、ゆっくり押し開いた。
ギ……ギギィ……
湿った木がきしむ音が、静かな空間に低く響く。
扉の隙間から陽の光がゆっくり室内へ流れ込み、一人、また一人と入る影を壁へ映した。
ネシュカ、アオイ、リイト、チアー、ハナネが順に中へ入っていく。
アイカが踏み込むと、外の陽射しはすぐに遠のいた。
窓近くに落ちる細い光だけが室内を照らしているが、奥までは届かず、空間全体は薄闇に沈んでいる。
目が慣れるにつれ、部屋の形が少しずつ浮かび上がる。
中央には、一本の支柱で固定された丸い机。
その周囲には椅子ではなく、使い古された樽が三つ、四つ、雑に置かれていた。
同じような机と樽の組み合わせが、室内にいくつも点々と並んでいる。
視線をさらに奥へ向けると、床が不自然に途切れている。
そこから先は段差になっていて、部屋の三分の二ほどが一段高い台座のようになっていた。
残る細い通路だけが台の横を抜け、奥へと続いている。
その先には、いくつかの小部屋。扉の影、並んだ取っ手。
そして奥の暗がりに、ゆるやかに沈んだ階段の影が見えた。
そしてその台の内側。
そこに、ひとりの男がいた。
日焼けした皮膚は荒れており、頭は後ろまで綺麗に剃られている。
だが、後頭部だけ黒い髪が短く残され、まるで雑草のように突き出ている。
右側頭部には、斜めに走る十字の傷跡。
薄い肌着を一枚羽織っているだけの身体には、盛り上がった筋肉が浮かび上がり、
腕はアイカの二倍はあろうかという太さだ。
その腕の片方を台につき、男はゆっくりこちらへ顔を向けた。
「なんだァ!? テメェら!!」
入った途端、低く濁った怒声が店内に叩きつけられた。
声の爆発に、ハナネの右目の下がぴくりと痙攣する。
アイカとレイサもびくりと肩を跳ねさせた。
(声、デカすぎ……!!)
思わず耳を塞ぎたくなるほどの怒鳴り声。
「外の札が読めねぇのかぁ!? 開店前って書いてあんだろ!! ほら、とっとと失せろや!!」
男は机に置いていた手を乱暴に振り払う。
勢い余って唾が飛びそうなほど口を開き、片方の眉を釣り上げ、苛立ちを露骨に顔へ乗せた。
再びドンッッと台を叩く。木が悲鳴を上げた。
(うわっ……めっちゃキレてる)
レイサが心の中で半歩引く。
だが、ネシュカも、セイスも、アオイも、微動だにしない。
目の前で吠える獣などどうでもいいと言わんばかりの無表情。
そして、男がさらに怒鳴り声をあげようと息を吸った、その瞬間。
「私たち、客じゃないの」
柔らかく、けれど空気を切り裂く声。
ネシュカだった。
「……あぁ?」
男が苛立ち混じりに顔をしかめた次の瞬間、視界に馴染んだ影を捉える。
金髪の子ども。育ちの良い立ち居振る舞い。学院服。
そしてその隣には、薄汚れた服を着た黒髪の子ども。
「……リイト? チアー……?」
ようやく口にした名は、疑いと不快が混じっていた。
リイトが来たということは、新しい客を紹介しに来たのか、と一瞬思った。
だが、違和感はすぐに刺さる。
リイトがここへ来る時は必ずひとり。
役割は客の要望を伝えるだけで、客を連れてくるなんて今まで一度もない。
そして隣にはチアー。
二人とも顔見知りではある。だが、二人が揃ってここに来るなど、絶対にあり得ない。
その事実がじわりと脳に染み込み、嫌な予感が男の背筋を静かに冷たく撫でた。
しかし、遅かった。
気づいた時にはセイスが男へ向かって全力で駆け出していた。
「はぁっ!? おい、待て!!」
怒鳴り声は悲鳴に変わる。
男は目を剥き、口を開けたまま後ずさる。
通路に逃げようと、体を捻りながら必死に足をバタつかせたが、セイスが台端へ左足を踏み込み、そのまま跳ねるように飛んだ。
重たい空気を裂くようにセイスの足が宙を蹴り、一直線に男へ向かう。
「ゔぇっ──!」
鈍い呻き声が転がる。
セイスの右足が、日焼けした男の背中へ容赦なく叩き込まれた瞬間だった。
男の身体は前につんのめり、両腕を投げ出したまま斜めに崩れ落ちる。
ドンッ!
床板が割れるのではないかと思うほどの衝撃音が響いた。
男は顔面から床に沈み込み、空気を吐き出すように喉を鳴らす。
セイスは迷いなく背中に背負っていた大剣を抜き、
男の頭の横へ突き刺すように叩きつけた。
「ひっ──ひぃぃあ!!」
男は目をひん剥き、首を硬直させたまま必死に距離を取ろうとする。
だが、セイスの全体重が背中に乗っていて、腕も足も震えるだけで動かない。
その様子にアイカたちはただ立ち尽くした。
気づけばもう、勝負は終わっていた。
「おい!!どうした!!」
怒鳴り声と足音が奥の通路から響く。
側扉が乱暴に開かれ、別の男が飛び込んできた。
白髪で背が高い。
百九十近い体格、乱れた長い前髪、そして腰の後ろに隠した短剣。
「仲間……!」
その気配に、アイカの背筋が跳ねる。
レイサもハナネも瞬時に構え、呼吸が鋭くなる。
「誰だテメェら!」
白髪男が叫びながら短剣を抜いた。だが、動いたのはネシュカの方が早かった。
柔らかな動きなのに、一切の無駄がない。
低く滑り込むように距離を詰め、男の膝へ蹴りを叩き込む。
「ッがあぁ!!」
白髪の男が崩れ落ち、尻を床に落とした瞬間。
ネシュカはその胸ぐらをつかみ、そのまま馬乗りになる。
腰から取り出した曲刃の剣。
その刃が、白髪の男の喉元へぴたりと添えられる。
「ここに子どもたちはいる?」
男の喉元に刃先が押し当てられ、白髪男の呼吸が詰まる。
「いるの? いないの?」
ネシュカがさらに刃を押し込むと、白髪男の肩がビクリと揺れた。
「……ち、地下だ……」
震えながら吐き出すように言葉が落ちた。
「アオイ」
白髪の男が言うと、ネシュカは視線を逸らさず小さく呟いた。
「はい」
短く返事をすると、今までアイカ達の前にいたアオイが淡々と歩き出す。
ネシュカやセイスを追い抜き、細い通路を進んで階段へ向かう。
トン、トン、トン。
階段を降りる靴音が響いた瞬間、それが合図であるかのようにネシュカは剣先を離し、代わりに柄を白髪の男の首元へ勢いよく打ちつけた。
「っが──!」
苦悶の声が漏れると同時に、白髪の男はそのまま意識を失って崩れ落ちる。
ネシュカは倒れた身体をうつ伏せにすると、落ち着いた手つきで縄を取り出し、親指同士をきつく縛り、さらに手首ごと固定した。
「ふう……」
息を一つ吐くと、ネシュカはまだ男を押さえつけたままのセイスへ歩み寄る。
「セイスは……平気そうね」
ネシュカが覗き込むように顔を寄せると、セイスは獲物を逃す気のない猛獣のような目のまま短く答えた。
「あたりまえですわ。舐めんとってください」
こんな奴ににげられるわけがない。最初からそんな確信に満ちた声だった。
ネシュカはそのまま日焼けした男の頭のほうへ移動し、先ほどと同じように曲刃を後頭部へ突きつける。
「あなたたちが子攫いをしている仲介屋で間違いないわね?」
「あ、あぁ!そうだ!」
怯えた声が即座に返る。
「客の名簿、目録、その他全部。どこにある?」
柔らかい笑みのまま問いながら、刃先が男の後頭部へじわりと食い込む。
細い血が流れ始める。
「奥の部屋だよ!!」
叫ぶように吐き出した男に、ネシュカは微笑みを深めた。
「そう。ありがとう」
その言葉と同時に、柄で男の頭を打ち抜く。白目を剥いて男が崩れ落ちたのを確認すると、セイスが起き上がり縄を取り出して同じように拘束していく。
そして
「うっそ……」
ようやく声が出たのは、固まっていたアイカだった。
仲介屋を捕えろなんて言われてはいない。
けれど、もし動く必要があるのなら、自分だって動くつもりだった。
……そう思っていたのに。
踏み出そうとするより先にすべてが終わっていた。
(……なに今の……速すぎ……)
目では追えた。
確かに二人の動きは見えていた。でも、理解が追いつかなかった。
踏み込み、判断、攻撃、制圧。
それがまるで一つの動作のようで、流れる水みたいで、切れ目がなかった。
自分が立っている場所だけが取り残されているような感覚が、ぞくりと背中を走る。
ネシュカは柔らかい雪のような印象から、一瞬で雹に変わった。
柔らかく微笑みながらも、言葉と動きだけは容赦がない。
セイスは野生の獅子そのものだった。
けれど荒っぽいだけじゃない。
足捌きも、踏み込みも、力の配分すら計算されていて、無駄がない。
(……これが、先輩たち)
アイカは圧倒されながらも、胸の奥で小さく何かが灯るのを感じた。
そう感じたのはレイサもハナネも同じだった。
驚きに目を見開き、息を呑みながらも瞳の奥で、同じ火が揺れていた。
それから間もなく、地下に降りていたアオイが、いつもの無表情のまま階段を上がってきた。
ただ──制服の上衣は着ておらず、薄い下着のような上衣だけを身につけている。
そのすぐ後ろには、小さな女の子が隠れるように立っていた。
アオイの制服の上衣を羽織っており、袖も丈も大きすぎて、手も脚もすっぽりと覆われている。
「その子一人だけ?」
「はい」
ネシュカの問いに、アオイは即座に短く答える。
女の子は視線を落とし、唇を固く噛みしめ……身体をこわばらせていた。
怯えが体温のようにまとわりついている。
アイカはその姿を見た瞬間、出会ったばかりのチタの姿と重ねてしまった。
その後は淡々と作業が進んだ。
ネシュカとアオイは手分けして奥の部屋から書類を集めた後、セイスとアオイが気絶した仲介屋を一箇所にまとめる。
「……あーくそ。なんでコイツこんな重いねん」
セイスが文句をこぼしながら男の腕を引きずると、アイカは少しだけ苦笑した。
書類の確認を終えたネシュカは、近くの詰所にいる衛兵を呼びに行くようアオイへ指示を出す。
その言葉に、アイカはふと首を傾げた。
「……衛兵ってなに?」
問いかけると、ネシュカはこちらに向き直り、落ち着いた声で答えた。
「衛兵は、地域内の見回りとか、簡単な揉め事の仲裁をしてる人たちのこと。
簡単に言えば守攻機関に近い仕事かもね」
「へぇぇ……」
アイカはうなずきながら、ふと別の疑問を思い出した。
「あれ、イナトは騎士やってたって聞いたけど、それはまた違う仕事なの?」
「騎士は衛兵より立場が上なの。地域の代表、またはそれに近しい人たちの護衛、それから罪人や事故の処理なんかを担当するわ。
守攻機関で例えるなら、騎士が隊長、副隊長の立場で、衛兵が私たち第一部隊と、あなたたち第二部隊の立場かしら。
……まあ、第一部隊は状況によっては騎士と同じ仕事もするけれど。
今は、とりあえず衛兵を呼んで、そのあとで騎士へ繋いでもらう流れね」
ネシュカが柔らかい口調で説明を終えると、
「そんなんだ」
アイカは、新しいことを覚えたのが少し嬉しいような、関心したような声を漏らした。
衛兵がアイカたちのもとへ来るのは、思ったより早かった。
肩まわりや胴まわりを革の防具で覆い、細長い槍を片手に持った二人組の男が現れる。
本来は三人いたらしいが、一人は先に騎士団を呼びに行くため、ナビンのある方へ向かったとのことだった。
ネシュカが傭兵たちに事情説明と証拠を渡す。
アイカは一瞬、「自分たちが怪しい者だと疑われるのでは?」と不安がよぎった。
だが、傭兵に同行してもらう際、アオイが制服についていた印飾を見せたこと、そしてアイカたちが着ている守攻機関の制服によって、守攻機関の正式な隊員だとすぐに分かったらしい。
二十分ほどが経つと、ガタガタと車輪の音と馬の駆ける音が外から響き、六人の騎士団と、彼らを呼びに走った一人の衛兵が到着した。
「これで全員ですか?」
衛兵とネシュカから状況を聞いた騎士団は、拘束されている仲介屋二人を無理やり叩き起こし、ふらつく身体を引きずるようにして外へ連行した。
続けて、室内に残っていたリイトとチアーも拘束される。
さらに、地下で保護されていた少女には、アオイの制服の上衣と交換に毛布が渡された。
「いいえ。まだ子攫いに関与した少女が一人、重傷を負ってリグラム中央学院近くの診療所にいます」
ネシュカが答えると、騎士団のひとりが短く頷く。
「では、その子もこちらで引き取ります」
リグラムでは、罪を犯した者は怪我の有無に関わらず騎士団へ連行される決まりらしい。怪我人の場合は、騎士団のほうで治療が行われるとのことだった。
そのため、騎士団から二人と衛兵二人が、アイカたちに同行して診療所へ向かうことになった。
◇
外に出ると、大きめのカレットが二台並んでいた。
つい先日見たものとは違い、どちらも装飾は一切なく、黒い鉄で作られた無骨な構造だ。やや高い位置に小さな鉄格子の窓があり、頑丈な扉には細長い鉄の棒が横に差し込まれていて、内側からは開けられない仕組みになっている。
そのうち一台の前には騎士団が集まっており、リイトとチアー、そして仲介屋に捕まっていた少女が乗せられていた。
リイトは悔しさを隠さない顔で歯を食いしばっていたが、チアーはどこか諦めたような、しかし悲しげな笑みを浮かべてカレットへ入っていった。
扉が閉まり、細い棒で鍵が差し込まれると、リイトたちを乗せたカレットはそのまま出発した。
それを見送り、アイカたちももう一台のカレットへ乗る。
このカレットは罪人用らしく、騎士が「少しの間だけ我慢してください」と申し訳なさそうに言った。
景色は見えず、鉄格子の小窓から差し込むわずかな光と、蝋燭の揺れる灯りだけが内部を照らしていた。
石畳を走るガタンという振動が、身体にじんじんと響く。
三十分ほど揺られたころ、ようやくカレットが止まった。
扉が開き、外に出る。
宵刻の半ば。陽はすでに落ち、月が淡く空に浮かんでいる。
アイカたちは騎士団と衛兵とともに、静まり返った診療所の中へと入っていった。
◇
診療所の扉を開けると、夜の静けさと薬草の匂いがふわりと押し寄せた。
茶髪の看師と黒髪の看師が待合室の掃除をしていた。二人は入ってきたアイカたちに気づき、すぐにその横に立つ騎士団と衛兵に視線を移すと、瞳を大きく見開き驚いた顔をした。
こんな夜更けに騎士団。この診療所で働く誰かが罪を犯したのだろうか。そんな不安が二人の胸をよぎる。
「ここに先日、少女が運び込まれたと聞いた。その少女はどこにいる?」
騎士団の一人が淡々と告げる。
「え……あ、はい! こちらです!」
一瞬理解が追いつかず固まった茶髪の看師だったが、すぐに慌てて返事をし、少女のいる二階へ案内した。
ほのかな灯りに照らされた階段を上がり、病室の前へたどり着く。
「こちらです。まだ意識は戻っていませんが……」
茶髪の看師が静かに扉を押し開けると、薄明かりの病室が広がった。
中に入ると、少女はぐったりと眠っていた。
額には濡れ布が置かれ、かすかに漏れる呼吸音だけが部屋の静寂を破る。
(まだ……起きてない)
その姿を見た瞬間、アイカの胸がぎゅっと締めつけられた。
レイサも眉を下げて少女を見つめている。罪を犯した子とはいえ、この状態を見れば胸が痛むのは当然だった。
「この少女ですか?」
一人の騎士が少女の顔を確認すると、ネシュカへ視線を向けた。
「はい。そうです」
ネシュカが即答すると、騎士は小さく頷き、後ろの衛兵へ声をかけた。
「よし、連れて行け」
言葉と同時に、金髪の騎士と衛兵二人がベッドに近づく。
その気配に、アイカは思わず上半身を前へ傾け、制服の下衣をぐっと握りしめた。
声は出ない。ただ痛いほど胸が締めつけられる。
(待って……!!)
確かに少女には償いが必要なのは分かっている。
──けれど。
自分はまだ少女とほとんど話せていない。
やっと再会したのに、言いたいことは何ひとつ伝えられていない。
もっと謝りたい。
聞きたいことが山ほどある。
少女はきっと自分を恨んでいるかもしれない。話したくないかもしれない。
それでも――。
(最後に……話せたら……)
ほんのわずかな希望を抱いたそのとき。
「……ん」
少女の唇から、小さな声が漏れた。
その場にいた全員が少女へ視線を向ける。
ただの痛みによる呻きかと思った次の瞬間、少女の肩がぴくりと震えた。
「待て」
金髪の騎士が低く言い放つ。
衛兵たちの動きが一斉に止まる。
そして――少女のまぶたが、ゆっくりと、ほんの僅かに開いていった。
少女は天井の薄暗い影を、ただ茫然と見上げている。
やがて、ゆっくりと首だけを横に傾け、アイカたちのほうへ視線を向ける。
焦点はまだあやふやで、揺れていた。意識が深い眠りの底に残っているのか、認識が追いついていない。
視線がゆっくりと定まり、認識が戻っていく。
そして、掠れた声で少女はつぶやいた。
「……さい……あく」
ただ、その二文字だけだった。
少女が目覚めたことに、アイカたちは驚きを隠せなかった。
「意識はありますか?」
低く落ち着いた声で、金髪の騎士が少女に問いかける。
少女はゆっくりと視線を移し、騎士を見た。
ほんの一拍置いて、まるで全ての力を手放すように、目を伏せる。
「今から君を、違法取引に関与した容疑で身柄を預からせてもらう」
淡々とした言葉が告げられた瞬間、少女は小さく呼吸を洩らし、しかし抵抗はしなかった。
その肩からは、戦う意思も逃げる意思も感じられない。ただ、諦めだけが沈んでいた。
「連れて行け」
金髪の騎士の声に、衛兵が少女に近づく。
シーツが揺れ、金属具がわずかに触れ合う音が響く。
その瞬間だった。
「っ……待って――!!」
アイカの声が、張り詰めた空気を裂いた。
衛兵たちの動きが止まる。
騎士も仲間たちも、ネシュカですら驚いて振り返る。
ぼんやりした目ながら、少女もゆっくりとアイカのほうを見た。
アイカは、肩を震わせていた。
拳を握りしめすぎて、白くなった指先が小刻みに震える。
「アイカ……?」
レイサが小さくつぶやいた。
その声すら、アイカには届いているのかどうか。
アイカは、深く息を吸い込み、途切れそうな声を必死に押し出した。
「その子と……二人で……話がしたい」
静寂が落ち、全員が思わず息を呑んだ。
ネシュカが、戸惑いを滲ませながらそっと言う。
「こんな状況で……何を話すつもりなの?」
セイスもアオイも、じっとアイカを見つめる。
当然、金髪の騎士はきっぱりと言い放った。
「それは認められない」
その瞬間、アイカは顔を上げた。
諦めない瞳。
泣き出しそうなほど必死で、それでも強く光を宿していた。
「……お願い、します」
今にも折れそうな声なのに、芯だけは揺れていない。
騎士はアイカをじっと見つめた。
何かを測るように、何かを読み取るように。
長い沈黙が落ちる。
そして――ふっと小さく息を吐いた。
「……少しだけなら」
その瞬間、アイカの目が大きく見開かれる。
ネシュカたちも驚き、けれど騎士の判断に従って静かに頷き、部屋を出て行った。
扉が音もなく閉まる。
静かな病室で、アイカと少女はついに二人きりになった。
七年前の出来事が、まだ距離を置いたまま二人の間に横たわっていた。
神血の英雄伝 第七五話
読んでいただきありがとうございました。
次回も読んでくださると嬉しいです૮ ˶ᵔ ᵕ ᵔ˶ ྀིა
やっと仲介屋を捕まえたところまできました(´ー`)




