川辺での生活 終
陽はすでに高く、湿った空気がじりじりと肌を焼いていた。昼刻の半ばを少し過ぎたころ。
遠くでは、先ほどのサレックの叫び声を聞きつけたのか、数人のトラーナ街の住人が集まり、アオイたちの方を遠巻きに見つめていた。
「なんか子どもが囲まれてるぞ」
「何かやらかしたんじゃないの、可哀想に」
通りの人々には、トラーナ街の子どもが、たまたま街に来たお偉い人に粗相をして咎められているように見えているのだろう。
『一緒にきてくれるわよね』
ネシュカにそう言われたサレックは、拳を握りしめたまま黙っていた。
従いたくなんてない。だが、ここで「嫌だ」と言っても逃がしてはもらえない。かといって、おとなしく頷く気にもなれなかった。
数十秒間、沈黙が続く。
ネシュカは小さく息を吐くと、アオイの方へ視線を向けた。
「アオイ、制服に着替えてきて」
その言葉に、アオイは一瞬サレックを見やる。
セイスが顎をくいっと動かし、早く行けと促した。
アオイは無言のまま、仮拠点の中へと姿を消す。
アオイが去ったあとも、沈黙は続いた。
サレックは、何度かセイスの方を盗み見ては、隙を探るように足をずらした。だが、そのたびにセイスも同じように動き、一切の逃げ道を与えなかった。
やがて、数分後。
垂布をめくってアオイが戻ってくる。
その姿を見たサレックは、思わず息をのんだ。
「……おい、アオイ、なんだよその格好」
掠れた声が出る。
ネシュカとセイスと同じ、良い素材の制服。
トラーナ街出身のアオイからは想像もつかない姿だった。
アオイは目を伏せ、小さく口を開く。
「悪い……騙すつもりはなかった」
申し訳ないと謝ったところで、悪気はなくとも、結果的に騙していたのだから同じことだ。
アオイはそう思いながら、俯いた。
ネシュカが静かに言葉を添える。
「アオイにあなたたちと仲良くするよう指示したのは私。だからアオイは悪くないわ」
サレックは、ただアオイを見つめ続けた。目を逸らせなかった。
「それじゃあ、行きましょうか。チアーって子は、少し先の酒場で作業してるのを確認してる」
そう言うとネシュカはくるりと踵を返し、歩き出す。
「おい、歩け」
背後でセイスが荒い声を飛ばした。
「セイス」
ネシュカが一度立ち止まり、呆れたように名前を呼ぶ。
セイスは舌打ちを飲み込むと、今度は少し落ち着いた声で言った。
「……はよ進め」
サレックは渋々足を動かす。
ふと視界の端に、うつむいたアオイの姿が映った。
一瞬だけ視線を落とし、それからネシュカの背を追う。
セイスはその後ろにぴたりとつき、アオイも少し離れて続く。
四人は、チアーのいるという酒場へ向かって歩き出した。
◇◇◇
チアーは、よく荷運びをしている酒場に空になった酒瓶や樽を回収し、ラゴンに積み込む作業をしていた。
真夏の暑さの中、空瓶が詰まった重い木箱を運ぶこと四往復目。額や背中にはじわりと汗が流れている。
ラゴンの中に木箱を置き終えると、チアーは右手で額の汗を拭い、「ふぅ……」と一息吐いた。
その時――
「チアー、どこにいる?」
外から声が響いた。
チアーは顔を向け、「はいっ!」と返事をしてラゴンから降りる。
地面に足をつけると、後ろ髪をひとつに束ねた男がこちらに気づき、顎を上げた。
「お前に客だ」
男は拳を握ったまま親指だけを突き出し、少し離れた方角を示した。
視線を向けると、黒い衣服をまとった金髪の女性が立っていた。
見覚えがない。
チアーは記憶力には自信があったが、その女性のことはまったく知らなかった。
(誰だろう……? 僕に何の用?)
チアーは小走りで駆け寄り、笑顔で声をかけた。
「お待たせしてしまってすみません。僕に何かご用でしょうか」
女性は静かに微笑んで言う。
「私はナサ村の守攻機関・第一部隊所属のネシュカ・ルニマ。お仕事中に呼び出してしまってごめんなさい」
ネシュカの言葉を聞き、チアーは以前、トランセル港で耳にした会話を思い出した。
『この前、守攻機関の隊員見たんだよ』
『ほんとかよ、嘘だろ』
『いや、本当だって。あの黒い制服は間違いなく守攻機関だ!』
(確か、ナサ村で有名な人たちだっけ……)
詳しくは知らない。けれど、すごい人たちらしい。そんな噂くらいは耳にしたことがある。
そう思っていると、ネシュカが続けた。
「あなたと少し話がしたいの。着いてきてもらえる?」
チアーは「あっ……」と声を漏らし、先ほどの男を見た。
男は顎を軽く突き出して「行ってこい」と言うように促す。
チアーはネシュカへ向き直り、「分かりました」と返した。
ネシュカは「ありがとう」とだけ言って歩き出す。チアーもその背を追った。
しばらく歩くと、作業場から離れた人気のない場所に出た。
そこでチアーの視界に、見覚えのある人物が映る。
(……サレック? それに……)
川辺にいるはずのサレックが、拳を握り、唇を結んで俯いていた。
その傍らには、ネシュカと同じ黒い服を着た長身の男。そして、もう一人ーーその奥に見えたのは、
(アオイ……?)
アオイは、ネシュカと男と同じ服を身にまとい、深い青髪を静かに揺らしていた。
その髪は、今まで出会った誰のものとも違う色で、強く印象に残っている。
陽の光を受けたそれは、まるで深海の水面に差し込む光のように澄んで見えた。
チアーは、守攻機関の制服を着たアオイに視線を向けながら歩き、静かにそう思った。
この三日間、チアーはアオイと過ごす中で、どこかに違和感を覚えていた。
火を起こしたことがなかったり、森に入ったことがないだけなら、トラーナ街にも時々いる。けれど、アオイはそれだけではなかった。
文字が読めたのだ。
稼ぎにも出たことがなさそうなのに読める。その時は、死んだ親のどちらかが教えたのかもしれないと思った。だが、それ以外にも気になることがあった。
アオイの体つきは、程よく引き締まり、明らかに鍛えられていた。
重労働をしていた様子もないのに、なぜーーと、何度も考えた。
そして今目の前にいるアオイは、ネシュカや男と同じ服を着ている。
おそらくそれが、彼らの所属する《守攻機関》の制服なのだろう。
その姿を見てチアーはその引っかかりの正体に気づいた。
アオイは、最初からトラーナ街の出身なんかではない。
親が死んだという話も嘘で、女性と同じ守攻機関に所属しており、偽って自分たちに近づいた。
――では、なぜ自分たちに近づいたのか。
サレックの姿を見つめながら、チアーはその理由を、なんとなく察していた。
◇◇◇
アオイは、セイスとともに、サレックとチアーを呼びに行ったネシュカを、人気のない酒場の建物から少し離れた隅で待っていた。
先ほど、ネシュカからチアーが仲介屋と繋がっている人物だと聞かされたときは、さすがに驚いた。
サレックに注意しろとセイスから言われたときも驚いたが、まさかチアーまでそんな話が出るとは思っていなかった。
どうしてネシュカがそう判断したのかも分からない。
自分と別れていた間に何か調査でもしたのだろうか――。
アオイはそんなことを考えながら、少し落ち着かない様子で周囲を見回した。
その横で、セイスは面倒くさそうにため息をつく。
アオイの不安げな様子が目に入ったのかもしれない。
その時、前方から石畳を踏む音が近づいてきた。
アオイが顔を向けると、そこには背筋を伸ばし、堂々とした足取りで歩いてくるネシュカと、その後ろに静かに続くチアーの姿があった。
(チアー……)
アオイは歩いてくるチアーに視線を向ける。
チアーの顔は、暑さのせいかほんのり火照り、額にはうっすらと汗がにじんでいる。
それでもその表情には、どこか落ち着きと涼しさがあった。
ネシュカとチアーがこちらに近づくと同時に、サレックが思わず一歩踏み出した。
走り出そうとしたその瞬間、ふとセイスの方へ顔を向ける。
先ほどの威圧がまだ効いているのだろう。サレックは一瞬たじろぎ、出しかけた足をゆっくりと戻した。
セイスは、相変わらず目つきこそ鋭いが、先ほどのように睨みつけることはもうなかった。
サレックは、もうここまで来たのなら逃げるようなことはしないと確信したのだろう。
ネシュカとチアーがアオイたちのもとへ来ると、サレックはチアーの方へ顔を向け、必死に声を張り上げた。
「チアー! こいつらがさ、お前が悪い奴らと繋がってるとか、わけわかんねぇこと言い出すんだよ!
それで、俺に仕事を紹介したのは、子どもをその悪い奴らに渡すためだったんじゃないかって疑ってんだ!!
おまけにアオイまで嘘ばっかでよ……なぁ、お前がそんなことするはずねぇだろ! チアーからも何か言ってやれよ!」
「……」
チアーは、何も言わずに静かに笑みを浮かべた。その笑顔は穏やかで、逆に怖いほどだった。
ネシュカもセイスも、アオイも、その表情をじっと見つめる。
「……なに黙ってんだよっ! 言わねぇと疑われたままだぞ!」
「……」
沈黙。チアーは視線を下げたまま動かない。
サレックは焦りを滲ませ、次の瞬間、はっと顔を上げて言った。
「あ、そうか! チアーも知らなかったんだろ!」
そう言ってサレックは笑い、ネシュカへ向き直った。
「そうだよな! お前がそんなことするはずねぇよ! ほらチアーも何も知らねぇよ!」
「……知ってたよ」
「は?」
その言葉が落ちた瞬間、時間が止まったようだった。
サレックは呆然とチアーを見返し、ネシュカとセイスも静かに目を細めた。
アオイは、瞼を大きく見開いたまま固まった。まさか、そんなあっさりと。
チアーの顔は涼しげで、いつも通りの柔らかい表情だった。
そのままサレックと目を合わせ、穏やかな声で言う。
「僕がサレックを騙して、子どもたちを仲介屋に紹介してた。それが悪いことだって、ちゃんと知ってた」
何でもないことのように言うチアーに、サレックは言葉を失った。
一瞬、理解が追いつかない。やがて、掠れた声で言う。
「……っ、いや、嘘だろお前っ……冗談でも笑えねぇって……!」
「嘘じゃないよ」
淡々とした返しに、サレックの唇が震えた。
やがてサレックは無理やり笑って言う。
「あ……れか。そいつらに脅されて、仕方なくやったんだろ。な!」
「僕は脅されてもないし、自分で選んだんだよ」
チアーはすぐに言い返した。その表情は相変わらず穏やかで、まるで何の罪悪感もないかのようだった。
「でも、まさかこんな形でバレるとは思ってなかったけどね」
その笑みを見て、ネシュカは視線を落とし、静かに語り出した。
セイス、アオイ、サレック、そしてチアーまでもが、チアーに顔を向ける。
「昨日、セイスからあなたたちがどんな稼ぎ先で働いているか報告してもらってね。それで稼ぎ先と森を見に行ったの。ちょっと気になるものを見つけたのよ」
ネシュカは制服の隠しから、ひとつの縄の切れ端を取り出した。
硬く、太く、手のひらに収まる程度の長さ。
チアーの笑みがわずかに固まる。
(あの縄……)
アオイは、その縄にどこか見覚えがあった。だが、どこで見たのかまでは思い出せない。
「この縄ね、水に強くて、漁業で使われることが多いの」
ネシュカは縄に視線を落とし、淡々と続けた。
その言葉を聞いた瞬間、アオイはハッとした。
――そうだ。この縄は、ナサ村で船戸の見回りをしているとき、何度も目にしていたものだ。
「森の奥で、これと同じ縄を見つけたの。古くなって捨てられていたものとは別に、新しいものが一本、木に巻きつけられてたわ」
そう言って、ネシュカはチアーの方を見やる。
「それで思い出したのよ。あなた、時々トランセル港に行くって報告があったわね。それで気になって、昨日行ってみたの」
「昨日……行ったんですか?」
アオイは思わず声を上げた。ここからトランセル港までは、決して近くない。
「ええ。帰ってきたのは深刻の終わり頃になっちゃったけどね」
ネシュカは少し疲れたように微笑み、再びチアーへ視線を戻した。
「そこで聞いたの。あなたがここ数ヶ月、川辺で使うからと“余った縄”を譲ってもらっていたって」
その言葉に、サレックは驚いたようにチアーを見た。
そんな話、聞いていない。
そう言いたげな目だったが、チアーは何も言わず、静かに微笑み返すだけだった。
ネシュカが話し終えると、チアーは小さく息をつき、穏やかに口を開いた。
「確かに、縄は譲ってもらいました。でも……僕が森で使ったっていう証拠は、あるんですか?」
それを聞いたネシュカは、落ち着いた口調で再び話し始めた。
「そうね。これだけだと弱い。だから、今日もう一度――森で見つけた縄を調べたの」
そう言うと、ネシュカは先ほどとは反対側の隠しから、透明な袋に入った別の縄の切れ端を取り出した。
先のものより黒ずみ、ところどころに灰のような汚れがこびりついている。
「こっちは森の奥に捨てられていた方。見ての通り、灰が付着して黒ずんでいるの。普通の煤や土埃とは違う」
その言葉に、チアーがわずかに瞬きをした。
アオイは、その仕草に胸の奥がざわめく。
「これは炭の跡」
それを聞くと、ふとチアーが普段、下の子たちの分まで焼き魚を捌いて分けている姿がアオイの脳裏に浮かんだ。
「あなたたちは朝と夕食、決まって焼き魚を食べている。特にチアー、あなたはいつも炭火で魚を焼いていたわね」
ネシュカの言葉に、チアーは自分の手のひらをゆっくり見つめた。
指の節のあたりには、薄い焦げ跡が残っていた。
「あなたは読み書きができることも知ってたし……それで、サレックと一緒に仲介屋に協力したんじゃないかと思ったの。まぁ、サレックの方は何も知らずに手を貸しただけみたいだけどね」
ネシュカはわずかに微笑んで言ったあと、軽く肩をすくめた。
「人の指紋って、似てるようで違うのよね。リグラムやノルヴェエルでは、それを照合する術も進んでるらしいわ。もし気になるなら、今から一緒に調べに行く?」
その穏やかな声に、チアーは数秒黙り込み、鼻から小さく息をこぼす。
そして、ゆっくりと肩を下げ、微笑んだ。
「いいえ。……ここに来た時点で、もう隠していません。騎士団に突き出すなり、好きにしてください」
チアーの声は静かで穏やかだった。ネシュカもまた、柔らかく微笑み返した。
「そう」
そして話が終わろうとしたその時、そばでずっと黙って聞いていたサレックが掠れた声を漏らした。
「……んで」
その声に、全員の視線がサレックへ向いた。
「なんで」
サレックは驚きが隠せない表情でチアーを見つめていた。
どうしてそんなことをしたのか――サレックにはまったく理解できなかった。
アオイは、そんなサレックを見つめる。
サレックは本気で「チアーはそんなことをしない」と信じていたのだ。いつも笑って接してくれていた相手の裏切りに戸惑うその顔は、アオイの胸に少しだけ痛みを残した。
そんなサレックを見て、チアーは笑みを崩さないまま口を開いた。
「なんでって、それはもちろんお金が必要だからだよ」
サレックは混乱しているのか、曖昧な言葉を吐き出した。
「だからって、そんな……じゃあ、俺が紹介した子どもたちはどうなったんだよ」
アオイはわずかに眉根を寄せた。
行方不明になった子どもたちがどうなったかは誰も知らない。
良い待遇を受けているとは思えない。最悪の場合――と胸の奥で嫌な想像が浮かびかけたその時、チアーが淡々と言い放った。
「さぁ?わからない」
あまりにも変わらない態度に、サレックは怒りを爆発させ、勢いよくチアーに掴みかかった。
「ざけんなよっ!!金のためなんかに、そんなことまでできんだよ!」
アオイは止めようと手を伸ばしかけた。しかしネシュカとセイスに視線を向けると、二人とも止める気配を見せず、ただサレックの行動を見守っていた。それを見て、アオイは伸ばしかけた腕を静かに戻した。
――指示がない。止めるべきではない。
そう判断したのだ。
胸ぐらを掴まれ、至近距離で怒鳴られたチアーは、サレックの睨む瞳をまっすぐ見返し、穏やかな声を返した。
「金なんかってサレックは言うけど……お金は大事だよ」
「はっ!?」
淡々と微笑むチアーの言葉が理解できず、サレックはさらに困惑する。
「お前、荷運びでもらってんじゃねぇかっ!!」
「でも、それだけじゃトラーナ街からは出られない」
「出てく必要なんてねぇだろ!」
「じゃあ、ずっとトラーナ街で過ごすの?」
「ダメなのかよっ!!」
サレックの怒声とは対照的に、チアーはいつも通りのテンポで言葉を返す。
「嫌だよ。あそこに住んでるだけで差別されて、少ない給金で見合わない労働。もううんざりなんだよ。サレックだって、トラーナ街の子どもってだけで差別されたこと、あるでしょ?」
「っ……それは……」
サレックはたじろいだ。
「少ない給金にも、差別にももううんざりなんだ。だから、みんなでトラーナ街を出られるようにしようと思ったんだよ」
その言葉に、サレックの手にわずかに力が抜けた。
チアーはその隙を見逃さず、さらに言葉を継ぐ。
「方法は確かにあれだったかもしれない。でも、他の子どもたちのことまで考えてたら、僕らが生きていけないよ。僕やカンラたちだって、いつ仕事を切られるかわからない。そこがサレックの甘いところだと思う。自分たちのことだけを考えるべきだよ」
サレックの表情には葛藤と怒りが混じり、何とも言えない影が差す。
チアーは相変わらず柔らかな笑みのままサレックを見つめていた。
アオイは二人のやり取りを黙って見守っていた。
チアーの行いは許されない。
しかし、抜け出したいという気持ちそのものは理解できた。
だが――そのために他の子どもを犠牲にできるという考えには、とてつもない嫌悪が胸を満たした。アオイは右手をわずかに握りしめた。
セイスも同じだったのか、険しい表情を浮かべていた。
ネシュカは二人の様子を横目で確認し、静かにチアーへと歩み寄りながら口を開いた。
「確かに、あなたのやり方は自分たちのことを考えたという点では間違ってないと思うわ」
その声に、アオイもセイスもネシュカへ視線を向けた。
サレックとチアーも、近づいてくるネシュカをじっと見つめる。
「人は結局、自分が可愛いもの。自分の幸せのためなら、他人を利用することだってある。よくあることよ」
そう言いながら、ネシュカはサレックの後ろ襟をつかみ、チアーのそばから勢いよく引き離した。
「うぇっ……!」
サレックは三歩ほどよろけ、そのまま尻をついてしまった。驚いた表情でネシュカを見上げるサレック。その視線を横目に、チアーがネシュカへ顔を向けた瞬間――
――バチンッ。
鋭い音とともに、チアーの左頬がはじかれた。
数秒、時が止まったように静まり返る。
サレックも、後方のセイスやアオイも、驚きの表情で二人を見ていた。
沈黙を破ったのはチアーだった。
「なんで……さっき、間違ってないって……」
ネシュカはにこりと微笑んだまま答える。
「ええ。間違ってないとは思うわ」
チアーが口を開こうとしたが、ネシュカが先に言葉を継いだ。
「でもね――私は好きじゃない。だから叩いた。それだけよ」
その言葉に、チアーは声を失った。
ネシュカはチアーから視線を外し、首だけを後ろへ向けて短く呼ぶ。
「セイス」
名を呼ばれたセイスは、短く息を吸うと表情を引き締め、迷いなくチアーの前へ歩み出た。肩に手を添え、そのまま乱暴に体を後ろへ向かせる。次いで腕を掴み、逃げ道を与えない力で押さえ込む。
チアーは黙って耐えた。叩かれた左頬は赤く染まり、それでも彼は表情ひとつ動かさない。抵抗も、弁解もない。ただ受け入れるように静かに目を伏せている。
ネシュカはそんなチアーを一度だけ冷静に見下ろし、次にゆっくりと体を後ろへ向けた。
その視線の先――アオイが立っていた。
アオイは微動だにしない。わずかに握られた拳だけが、わずかに震えている。
だが、それ以外の動きはない。表情も呼吸も、冷たい水面のように静かだった。
まるで、次の指令を待つ兵士のように。
「……アオイ」
名前を呼ばれた瞬間、アオイの肩が小さく跳ねる。
「……はい」
声は静かで、驚くほど乱れていない。
ネシュカは一拍置き、短く言った。
「時間をあげる」
「……え?」
ほんの僅かな困惑がアオイの表情に浮かぶ。
ネシュカは言葉を区切ることなく続けた。
「最後に二人で話しなさい。私たちは待ってるわ」
静かだが決して逆らえない声音だった。
そう告げるとネシュカは歩き出し、背後に控えていたセイスに顎で合図を送る。
セイスは無言でチアーの腕を掴み、ネシュカの後をゆっくりと歩き去っていく。
足音がやがて遠ざかる。
残されたのは、立ったまま動かないアオイと、尻餅をついたまま呆然とするサレックだけ。
◇◇◇
二人きりになってから、短いようで終わりの見えない二分が過ぎた。
サレックは尻餅をついたまま膝を立て、その上に腕を置き、顔を伏せて動かない。呼吸だけがゆっくり上下していた。
アオイは彼を見つめていた。表情は変わらない。
(子攫いに関わっていたのはチアーだけ。……サレックは知らなかった。ただ仕事を与えるつもりで、子どもたちを動かしていただけ)
だがその善意は、結果的に違法な仲介屋へ子どもを流す手助けとなった。
その事実だけは、どんな言い訳でも消せない。
(……サレックにも、罰はある)
そう思った瞬間、脳裏に浮かんだのはカンラたちの顔だった。
(でも……サレックまでいなくなったら。あの四人はどうなる?)
正しさと現実がぶつかり合うように、胸の奥で鈍い音がする。
その思考に沈むアオイを、サレックの掠れた声が割った。
「……俺、これからどうなんだ?」
アオイは視線を逸らさず、少しだけ間を置いて答えた。
「分からない」
本当に分からなかった。
ネシュカがどう判断するのか――アオイにも読めない。
「……そうかよ」
サレックは小さく笑った。けれどその笑いは、どこにも行き場のない気持ちの逃げ場所のようだった。
「もう……あいつらにも会えねぇんだろうな……」
その言葉は、誰に向けたものでもなくただ落ちた。
アオイは黙ったまま聞いていた。
サレックは続ける。
「アオイもさ……言ってたこと全部嘘だったし。 仲間だからって、心配なんてして……俺、バカだったわ」
投げ捨てた言葉。
それを遮ることなく、アオイは静かに口を開いた。
「全部が嘘じゃない」
サレックの肩が、小さく動いた。
「俺に親がいないのは本当だ。 捨てられたらしい。生きてるかどうかも分からない。 生きてても……顔すら分からない」
淡々とした声なのに、言葉は重かった。
「だから、親がいなくても前向きで、笑って過ごしてるサレックたちを見て……すごいと思った。 尊敬した」
サレックがゆっくり顔を上げ、アオイを見た。
「それに……三日や四日しか一緒にいなかったのに、普通に接してくれて。心配してくれて。……嬉しかった」
短く息を吸い、アオイは深く頭を下げた。
「男と男の約束、守れなくて……悪い」
一拍。
そしてサレックは、顔をそむけながら小さく呟いた。
「……っだよ、それ」
◇◇◇
昼刻の終わり頃。
アオイとサレックが合流したのは、それから十分後だった。強い日差しの中、二人は言葉を交わすこともなく戻ってきた。視線は互いを避けるように少しだけ横へ逸れている。
ネシュカとセイスは何も言わず、ネシュカが先頭に立って歩き出した。
その後ろにセイス、チアー、そしてサレックとアオイが続く。列は静かに、トラーナ街へ向かう砂道を進んだ。
三十分ほど歩くと、舗装された石畳は途切れ、割れたまま補修されていない道へ変わった。もうすぐトラーナ街だ。
その時、進行方向の先で琥珀色の髪が揺れるのが見えた。誰かが道脇を行ったり来たりし、落ち着かない様子で辺りを伺っている。
こちらに気づいた瞬間、その人影は小走りで向かってきた。
――レイサだった。
リグラム中央学院の制服をきちんと着こなしたまま、小走りでも姿勢は崩さない。琥珀色の髪だけが陽を受けて揺れていた。
「……なんでおんねん」
先に反応したのはセイスだった。低く荒い声で吐き捨てるように呟く。
アオイも心の中で小さく驚いた。
(なんでこんな時間に……)
合流予定は縁刻の間。それより早い。
ネシュカは表情を変えず、ただレイサを見据えた。
レイサは、息一つ乱さぬまま立ち止まり、背筋を伸ばして告げる。
「先輩方はトラーナ街の中にいると思い、探しました」
はきはきとした声。しかしネシュカの返答は静かで、わずかに低い。
「……一人で来たの?」
それは叱責ではなく確認。だが、そこに含まれる意味は明らかだった。
勝手な行動は状況を悪化させる。それを理解しているのか。
レイサは怯むことなく軽く頭を下げ、淡々と報告を続けた。
「……学院にてリイト・アダムスを捕縛しました。 仲間と思われる者たちとも遭遇しましたが、一名は逃走。 一名の少女は重傷で、学院近くの診療所で治療を受けています」
一拍置き、続く言葉はさらに冷静だった。
「アイカとハナネも負傷しています。このまま何者かに襲われれば、俺たちだけでは対応しきれません……。 だから、先輩方と合流するべきだと判断し、俺が向かいました」
その言い方に、虚勢も焦りもなかった。状況を理解し、行動し、報告する声音だった。
ネシュカはじっと彼の瞳を見つめ、そして小さく息を吐いた。
「……分かったわ。 すぐ向かう」
レイサはようやく表情を柔らかくし、小さく微笑んだ。
「ありがとうございます」
その礼の仕方を見て、ネシュカは心の中で小さく呟いた。
(この子が隊員の息子なのよね……)
そして六人は進路を変え、学院へ向かって歩き出した。
神血の英雄伝 第七ニ話
読んでいただきありがとうございました。
次回も読んでくださると嬉しいです૮ ˶ᵔ ᵕ ᵔ˶ ྀིა
次回からアイカたち合流です!




