川辺での三日目
セイスと別れたあと、アオイは川辺に戻る道を歩きながら、夜空を見上げていた。
(今は、幽刻を過ぎたころか……)
空は澄みきっていて、月は真上に昇り、星々が淡く瞬いていた。
(今日も……疲れたな。教えるって、案外むずかしいもんだ)
ふと、昼間のことを思い出す。
サレックに文字を教えていた時間だ。
その中で、うまく伝えられなかった箇所がいくつかあった。
アオイはもともと、人と話すのが得意な方ではない。
というより、人と関わること自体が少し苦手だった。
そのせいか、セイスにはよく「愛想がない」と言われている。
いや、それを言うならお前もだろう、とアオイは内心で思いつつもセイスは、嫌なことはすぐ口にするほうで、いつも表情が分かりにくい自分とは、少し違うのかもしれないと思っている。
そんなことを考えながら、アオイは川辺に戻る。
天幕の中では、カスルとカスタたちが並んで眠っていた。
しかし、ふとした違和感を覚えた。
(サレックが……いない?)
他の四人の姿はしっかりとあるのに、サレックの姿だけが見当たらない。
(どこに行ったんだ……?)
胸の奥が、わずかにざわめいた。
辺りを見回した、そのとき——背後から、小石を踏むような足音が近づいてきた。
アオイはそっと振り返る。
月明かりの下、ひとりの影がこちらへ歩いてくる。
「あー、やっと見つけた。お前、どこ行ってたんだよ」
「……サレック」
息を切らした少年は、安堵と怒りを混ぜたような声を出した。
「俺を探してたのか?」
問いかけると、サレックは少し息を整えて言う。
「一回目ぇ覚めたら、アオイっぽい背中が見えたんだ。便所かと思って追ってたのに、見失ってさ……どこ行ったんだよ、本気で」
苛立ちというより、心底ほっとしたような口ぶりだった。
アオイは一瞬、息を止めた。
(まさか……セイスと会ってたの、見られたか?)
自分の後を追ってきたということは、先ほどのセイスと会っていたところを見られたかもしれない。
そう思った瞬間、アオイの胸の奥に小さな焦りが生まれる。
この二日間で、ほんの少しではあるが子どもたちと打ち解けてきた——そんな気がしていた。
だからこそ、今ここで信頼を崩すようなことがあれば、追い出されてしまうかもしれない。
けれど、サレックの顔にはそんな気配はなかった。
(……でも、すぐに見失ったって言ってたし)
(どっちだ)
胸の奥が、落ち着かないまま揺れていた。
「本気で迷子になったか、攫われたかと思ったんだからな」
サレックはアオイの目の前まで歩み寄り、ぐっと顔を近づけた。
その距離に、アオイは考えを止め、わずかにのけぞりながら言葉をこぼす。
「……勝手に出て、悪かった」
数秒、視線が絡んだまま沈黙が落ちた。
サレックはふっと息を吐くと、わずかに目線を逸らして言った。
「まぁ、無事ならいいや。次からは誰か起こしてから行けよ。攫われるぞ」
「……攫われる?」
アオイの瞳がかすかに揺れる。
サレックは、その反応をじっと見つめた。
(……アオイ、何そんな顔してんだ。うわっまさか知らねぇのか?)
サレックは心の中でそう呟いた。
しかし、アオイの動揺は別の理由だった。
(サレック……もしかして、子攫いのことを何か知ってる?)
わずかな期待と警戒が胸の奥でせめぎ合う。
「そりゃあ、この辺の連中は金に困ってる奴が多いからな。 ガキが一人で歩いてりゃ、攫われるに決まってんだろ」
サレックは呆れたように言いながら、すたすたと天幕の方へ向かう。
その背中を見つめながら、アオイは言葉もなく立ち尽くした。
「アオイはもう俺たちの仲間なんだから、勝手にいなくなられると困んだよ」
ぶっきらぼうな口調。けれどその声の奥には、確かな温度があった。
(……会って、二日しか経ってないのにな)
アオイは、その背中を見つめながら申し訳なさと、胸の奥がほんの少しだけ温かくなるのを感じていた。
サレックは天幕に戻ると、先ほどまで寝ていた場所に腰を下ろした。
まだ入口に立ったままのアオイへ、じっと視線を向ける。
「……なにつったってんだよ」
その声にアオイは小さく瞬きをする。
なぜそう言われたのか分からず、きょとんとしたまま動けなかった。
サレックは眉をひそめて、少し呆れたように言う。
「早く来いって。寝ねぇのか」
促されるまま、アオイはそっと足を進める。
サレックのそばに立ち、見下ろすようにして小さく問う。
「……俺も、ここで寝るのか?」
その言葉に、サレックはごろんと寝転がり、背中を向けたまま答える。
「一人で寝たら寂しいだろ」
短い返事に、アオイは少しだけ固まった。
けれどすぐに、静かに隣へ横になる。
(……別に、一人で寝たことしかないから、寂しくはないんだが)
心の中でそう思いながら、息をゆっくりと吐く。
(……なんか、変な感じだな)
そう呟くように思い、アオイは静かに目を閉じた。
夜の空気が、穏やかに二人を包み込んでいた。
◇◆◇
「サレックは、仲介屋と繋がっとる可能性がある。注意せぇ」
その言葉は、昨日と同じようにサレックたちと過ごした後に、セイスと合流して報告していたときに告げられたものだった。
(……サレックが?)
アオイは眉をわずかに動かす。
「昨日ネシュカ先輩から聞いたわ。
サレックが他のガキに仕事持ちかけとったらしい。そんで、その裏で仲介屋と繋がっとるんちゃうかってネシュカ先輩はそう睨んどる」
セイスは荒い口ぶりでそう告げる。だが、その声には冷静さも混じっている。
アオイは一度視線を落とし、静かに顔を上げた。
「……その、仕事の話を持ちかける子どもは本当にサレックなのか?」
短い沈黙のあと、セイスはぎろりとアオイを見下ろして答える。
「他のガキどもからサレックっちゅう名前が上がったんやと」
セイスがそう言うと、アオイもすぐに言葉を返した。
「サレックは、ほとんどずっとカスルとカスタの世話をしてる。まだ稼ぎに出たこともない。誰かに仕事を持ちかけるのは難しいと思う」
アオイは真っ直ぐにセイスを見つめ淡々と言った。
「せやけど、サレックいう名前が出とるのは事実や。昼刻の半ば過ぎに、サレックを最初に着替えた場所に一人で呼び出せ」
「サレックだと断定する確実な証拠はあるのか?」
「んなもん、ないわ」
アオイが負けじに言い返そうとするが、セイスが低く被せるように言った。
「もし違ったら大変なことになるぞ」
「違ったらそいつの口を封じれば終わりや」
言葉が鋭く交差する。二人は互いに相手を見据え合った。昨日の言い合いの延長のようにも感じられる。
「俺は、下手に動くより決定的な証拠が見つかるまでは待つべきだと思う」
「待てん」
「下手に動いたらこっちが失敗することもある。だからーー」
「ちっ、お前さっきから何やねん」
アオイが言いかけると、セイスは苛立ちを抑えきれずに舌を鳴らした。
セイスの声が鋭くなる。
「これはもう決定事項や。先輩が決めたことに口出しすんな。
お前があいつらと過ごしたのは、たった二日やろ?
……そんなんで、あいつが“ええ奴”やなんて判断すんな。
そんな言いよるなら——あいつがほんまに関係ないって、言えるか? 証拠があるなら見せてみろ」
アオイは黙したまま、セイスを見つめた。
そんなアオイをセイスが畳みかけるように続ける。
「第一、俺らに呑気に構えとける時間なんてないんやぞ」
その言葉は重く感じた。作戦の期限は残り二日。もしそれで仲介屋に辿り着けなければ、荒い手段に出るしかない。
アイカたちと合流する計画も含めれば、残された時間はわずかだった。
何より、二人は先輩。
経験も知識も、自分よりも、ずっと多くを知っている。その上で、こう判断したのだろう。
それでも、アオイは頷かない。
「……お前、この二日であいつらに情でもうつったんか」
「そんなんじゃない」
アオイは小さく返した。
別にこれは同情なんかじゃない。
(この二日間、サレックを見て仲介屋との関わりがあるとは思えない。それに、何の証拠もないまま捕らえるのは、……なんとなく、守攻機関らしくない気がする)
アオイはただ、そう思っただけだった。
俯いたアオイを見て、セイスの棘のある声が飛ぶ。
「話は終いや。分かったな」
「……あぁ。わかった」
アオイは短くそう返すと、くるりと背を向けた。
その背を見送りながら、セイスが尖った声で呼び止める。
「気に食わなそうな態度やな」
「……いや、任務のことを考えれば、二人の判断が一番だと思う。さっきは悪かった」
アオイはそれだけ言うと、静かに歩き出す。
その背中を目で追いながら、セイスは不機嫌そうに片腕を頭の後ろへやって、髪をぐしゃりと乱した。
◇
川辺に戻ると、アオイは音を立てぬよう足音を忍ばせ、天幕の影に身を寄せた。
中を覗くと、サレックが大の字になって眠っている。口元にはうっすらと涎。まるで、どこかの平和な村の子のようだった。
こんな顔をして眠る奴が、本当に悪事に関わっているのか。
そう思いながら、アオイはここ二日のことを思い返した。
サレックはただの任務の為に近づいた一人に過ぎない。
けれど、彼はよく笑い、よく喋り、不器用ながら自分を気遣ってくれた。
どう見ても、人を利用するような目ではなかった。
……けれど
セイスの言葉も、間違ってはいない。
短い付き合いで「関係ない」と断じることは難しい。
しかし、もしも何か事情があるのだとしたら。
脅されて、仕方なく従っているのだとしたら。
そのとき、サレックをどうするべきか。答えは出ない。
(……それでも、見逃すことはできない)
関わった以上、どんな形であれ罪は償わなければならない。
守攻機関の一員としても、それが正しい。
ネシュカもセイスも、その点では絶対に譲らない。
アオイは小さく息を吐き、天幕を離れる。
少し歩いた先の木陰に腰を下ろすと、夜風が頬を撫でた。
神血の英雄伝 第七十話
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