ネシュカの見たもの
室内に垂布から差し込む朝の光が広がり、じわりと増す温度にネシュカは目を覚ました。
「もう朝……早いわね」
寝ぼけまなこのまま身体を起こし、軽く背を伸ばす。室内を見渡した瞬間、眉がわずかに寄る。
(セイス、もう行ったの……)
夜中、報告書を書き終えて眠りにつくまでは、確かにそこにセイスの姿があった。
けれど、今はもうどこにもいない。
ネシュカは静かに立ち上がると、窓代わりの穴へ歩み寄り、垂布をそっとめくって外を覗いた。
北東の空に、低く昇り始めた太陽がある。
(明刻の半ばってところね)
太陽の位置でおおよその時刻を測り、ため息をつく。
(私が寝たのは幽刻の半ば前ぐらい……ってことは、セイス、三時間も寝てないじゃない)
しかも、ネシュカが目を覚ますより前にもういないのだ。
つまり、まともに休んでいない。
「真面目なのか……それとも、私が一緒だと落ち着かないのか」
苦笑まじりに俯いたあと、ネシュカは顔を上げる。
「セイスは今度、説教ね」
そう呟くと、鞄から櫛を取り出して髪を軽く整え、外へ出た。
そしてセイスから聞いたチアーたちの稼ぎ先を確かめるため、トラーナ街近くの店が並ぶ通りへと足を向けた。
◇
しばらく歩くうちに、石畳は少しずつ整い、人の数も増えて賑やかさが増してきた。
建物もまだ古びてはいるものの、しっかりした造りのものが多く、壁や地面の近くには手書きの看板がいくつも並んでいる。
周囲にはラゴンが数台停まり、その周りでは古びた服を着た人々が樽や木箱を抱えて忙しなく動いていた。掃除をしている者の姿も多く、年齢も十歳前後の子どもから六十代ほどの年配までさまざまだ。
一方で、二十代から四十代前半ほどの身なりの整った者たちは、厚めの紙束を手に指示を出したり談笑したりしている。
その光景だけで、ここに根づく差が見て取れた。
ネシュカはあたりを見渡しながら歩く。
(チアーっていう子は、黒髪の男の子だったはず)
そのとき、斜め前方から声が響いた。
「チアー、次はこれだ!」
ネシュカは声の方へ目を向ける。
そこには黒髪で細身の十代前半ほどの少年がいた。背丈は百六十センチほど。
古びた服を着ているところを見ると、トラーナ街育ちで労働者側の子だろう。
(あの子が……チアー?)
少年は少し体格に合わない木箱をラゴンから降ろし、仕分け場へと運んでいる。
三箇所ある山の前まで来ると、木箱の上を覗き込んで何か確かめ、一番奥の山に置いた。
その後も次々と箱を運び、やがて前掛けをした三十代後半の男のもとへ走っていく。
男から紙と筆記具を受け取ると、少年は笑顔で頷き、紙に何かを書き始めた。
(署名……ね。読み書きができるって聞いていたけど、任されてる立場なのね)
普通なら、トラーナ街の出身者に書類仕事を任せる者などいない。
だが、あの少年は確かに信頼を得ていた。
書き終えると、男に紙と筆記具を返して頭を下げ、また作業場へ戻っていく。
仲間たちと声を交わしながら、明るく立ち働くその姿に笑みがこぼれている者も多い。
(普通ね……)
その少年はネシュカから見れば、身なりを除けばどこにでもいる、明るく普通の少年だった。
ネシュカはそう思うと、視線をそらして向きを変えた。
今度はカンラとエリアの稼ぎ先を探すため、歩き出した。
◇
先ほどの場所から少し歩いた先に、一軒の仕立て屋が見えた。
トラーナ街から距離があるのは、服を買うのが男性よりも女性の方が多いからだろう。女性は、より細かい区別を気にする傾向にある。
まだ朝刻の始め。店は開いていなかった。
(表には出ないって聞いてるから、見つかるといいんだけど)
ネシュカは静かに近づき、窓をそっと覗き込んだ。
中では、何着かの服が壁にかけられ、他は服掛けの道具にまとめて吊るされている。受付台と、試着用に布で仕切られた空間もあった。
明かりはついていないが、朝の陽光だけで十分に室内が照らされている。
その中に、二人の少女の姿があった。
一人は肩下までの赤みがかった茶髪で、眉上で切りそろえられた前髪。黒い瞳を輝かせながら勢いよく床を磨いている。見るからに元気な子だ。
もう一人は栗色の髪を胸下まで三つ編みにし、前髪が目にかかって表情がよく見えない。少し離れた場所で箒を持ち、静かに掃除をしている。
二人とも古びた服を着ており、雑用として雇われているのが一目で分かった。
けれど、この二人がカンラとエリアなのかまではわからない。
時折、短髪の少女が三つ編みの少女に話しかける。
内容までは聞こえないが、三つ編みの子がほんの少し笑っているのが見えた。
(何を話してるのかしら)
そう思いながら見つめていると、窓ガラスに人影が映る。
すぐに、やや枯れた高い声が飛んできた。
「ちょっとあんた、何してんの」
振り向くと、四十代前半ほどの女が立っていた。髪を後ろでひとつに束ね、腕を腰に当てて眉を吊り上げている。
「あんた、盗みに入る気だったろ。見なりが汚いと思ったら、根性まで汚いね」
怒気の混じった声に、ネシュカは自分の服を見下ろした。
(ああ……この格好じゃ、そう見えるわね)
トラーナ街で目立たぬよう古びた服を着ていたのだ。確かに、これでは盗人に見えても仕方ない。
「ごめんなさい。盗むつもりで見ていたわけじゃないんです」
ネシュカは素直に頭を下げた。
だが女は鼻を鳴らして言い放つ。
「はぁ? 嘘までつくのかい。まったく、トラーナ街の奴はこれだからね……やだやだ」
嫌悪を隠そうともしない口調。
続けざまに怒鳴りつける。
「もうすぐ店を開けるんだ、とっとと行きな!」
女はネシュカの腕を乱暴に掴み、窓から引き離すと、虫でも払うように手を叩いて扉を開け放った。
「カンラ、エリア! まだ掃除してんのかい、早く終わらせな!」
怒鳴り声を上げながら、女は店の中へ入っていった。
扉が閉まると、ネシュカは再び窓越しに中を覗く。
女は二人の少女を叱りつけている。短髪の子は笑顔で聞き流しているが、三つ編みの子は怯えたように肩をすくめた。
(普段からこうなのかしら)
ほんの小さな身分の差で、ここまで扱いが違う。
「嫌な光景……」
ネシュカは小さく呟き、静かにその場を離れ森の方へと足を向ける。
◇
森へ向かうには、アオイのいる川辺の近くを通らなければならなかった。
しかし、アオイと顔を合わせて何か反応してしまえば、周りの子どもたちに「知り合いなのか」と勘繰られる。面倒を避けるためにも、ネシュカはなるべくアオイと接触しないよう道を選んだ。
森に着くと、セイスの報告どおり、森の中は不気味で、鼻を突くような悪臭が漂っていた。
風が吹くたびにその臭気が流れ込み、喉の奥が焼けるように痛む。胃もキリキリと軋んだ。
ところどころにはまだ新しい死体が転がり、虫が群がっている。
うじが湧き、身体にはいくつも穴が空いていた。見るだけで吐き気を催す光景だ。
服を着ていない死体も多い。服が貴重で、剥ぎ取られたのだろう。
「……無法地帯ね」
ネシュカは周囲を見渡しながら低く呟く。
まだ原形を留めている死体のうち、子どものものを中心に一体ずつ確認していく。
「……やっぱり」
小さくそう呟くと、ネシュカは手を合わせて目を閉じた。
数秒、静かに祈りを捧げ、顔を上げて森を後にしようとしたとき──
近くの木に、見慣れたものが目に入った。
木の幹には、縄が一巻きだけ巻かれている。
きつく結ばれており、余った縄は地面に束ねられていた。見る限り、かなりの長さがある。
縄はまだ新しい。だが、周囲には古びて切れた縄がいくつも捨てられていた。
「……この縄」
ネシュカは、その縄をじっと見つめた。
どこかで見たことがあるような気がする。
しばらくして顔を上げると、森を静かに後にした。
神血の英雄伝 第六九話
読んでいただきありがとうございました。
次回も読んでくださると嬉しいです૮ ˶ᵔ ᵕ ᵔ˶ ྀིა
明刻の半ば→五時
幽刻の半ば前→二時




