小さな報酬
囮作戦を開始してから、一日が経った朝刻の半ば。
陽はすでに昇り、あたりはすっかり明るくなっている。風はほとんど吹かず、空気が少し重たい。
ネシュカは、ボロボロの服をまといながらトラーナ街を歩いていた。
通りのあちこちでは、紐に洗濯物を干す女たちの姿や、酒瓶を抱えたまま道端に転がる男の姿が見える。
ネシュカはそんな光景に目をやりながら、ゆっくりと辺りを見渡した。
(このあたりに子どもはいないのかしら……)
昨日、情報屋から得た話をもとに、子どもたちからも何か情報を引き出せないかと考えていた。
狙いは、六歳から十五歳ほどの子どもたちだ。
けれど、歩き始めてすでに三十分。お目当ての子どもたちには、まだ一人も出会えていない。
(まったくいないわけじゃないけど……)
そう思いながら、ネシュカは視線を巡らせる。
見かけるのは、せいぜい三歳前後の幼児や、大人に抱かれた赤子ばかり。
それでは情報を得るどころではない。
ネシュカは目を閉じ、わずかに肩をすくめて小さく息を吐き、再び前を向く。
(……井戸のあたりなら、いるかしら)
トラーナ街の北側には、大きな井戸が二つあることを、ネシュカは事前の調査で把握していた。
けれど、以前に何度か足を運んだときには、子どもの姿は一人もなかった。
(あの時はいなかったけど……たまたまかもしれないわね)
じっとしていても、答えは出ない。
ネシュカは軽く息を吐き、薄く砂埃の立つ道を踏みしめて歩き出した。
◇
井戸のある場所は、ネシュカがいた場所から歩いて十五分ほど。
距離にすればたいしたことはないが、朝の陽射しが強く、じんわりと汗が背を伝っていく。
やがて辿り着いた井戸のまわりでは、すでに何人かの大人たちが水を汲んでいた。
汲み終えた者は布を水にひたし、肌着姿で体を拭いている。どの顔も、疲れと埃にまみれていた。
だが、その中に子どもの姿は――ない。
(やっぱり、ここにもいないのね……)
わずかに息を吐き、ネシュカは視線を巡らせた。
すると、井戸から少し離れた方に、小さな背中が目に入る。
背丈からして十歳前後。大きなバケツを抱えて、よろよろと脇道へ入っていく。
(……見つけた)
ネシュカの瞳がかすかに光を帯びる。
その背中を見失わぬように、足音を殺して静かにあとを追った。
ネシュカは、脇道の手前で足を止めた。
ざらついた壁に背を沿わせ、ひと呼吸おく。
それから、ゆっくりと壁際から身体を離し静かな足取りで、脇道へと姿を現した。
ネシュカが脇道に目を向けた瞬間、空気がひんやりと変わった。
日陰になっている一角には、廃材や古い布を寄せ集めて作られた、小さな小屋のようなものがある。
その影の中に、三人の子どもたちがいた。
子どもたちは、急に現れたネシュカに気づくと、びくりと肩を震わせ、一斉に視線を向けた。
ネシュカは、静かにその子どもたちを見つめた。
ひとりは、先ほどバケツを抱えていた子。
乱雑に切られた黒髪の短髪で、痩せすぎてはいないが栄養は足りていない。くるぶし丈の古びた短靴。手のひらは、普段から水仕事をしているのか荒れていた。
残りの二人は、五歳か六歳ほどだろうか。
いや、栄養不足のせいか、それよりも幼く見える。
腰まで伸びた黒髪の少女と、金髪の少年。二人とも、バケツの子と同じように薄汚れた服を身にまとっていた。
子どもたちはわずかに震え、少女は隣の少年の裾をぎゅっと握りしめる。
(……怖がってる)
ネシュカは、心の中でそっとつぶやいた。
見知らぬ大人がいきなり現れ、じっと見てくるのだ。怖がるのも当然だろう。
ネシュカは小さく息をつき、ゆっくりとその場に腰を下ろすと、やわらかな笑みを浮かべた。
「ごめんなさい。急に出てきて驚かせたわね。あなたたちに何かするつもりはないの」
できるだけ優しい声で、ネシュカは話し始める。
「実はね、茶色い髪の子を探しているの。知らないかしら?」
その穏やかな口調に、三人は顔を見合わせた。
そして、バケツを抱えていた少年が、恐る恐る口を開く。
「……茶色い髪の毛の子?」
ネシュカは頷き、少年に視線を向けた。
「ええ。あなたたちの友達で、そんな子はいない?」
少年は少し考えたあと、静かに首を横に振った。
「そう……。じゃあ、仕事を紹介してる子は? このあたりで“紹介してくれる子”がいるって聞いたのだけど」
ネシュカの問いに、少年はうつむきながら小さく答える。
「……わかんない」
「そう」
ネシュカは小さく呟き、視線を落とした。
「あ……」
ネシュカは顔を上げ、少女の方へ視線を向けた。
少女は何かを言いかけたが、声を飲み込む。
その小さな沈黙を受け止めるように、ネシュカは優しく微笑む。
「なんでもいいのよ。思い出したことがあったら、教えてくれる?」
少女は二度ほどちらちらとネシュカを見やり、小さく口を開いた。
「おねえちゃんの探してる人、サレックだと思う……」
声にはわずかに震えが混じり、金髪の少年の裾を握る手に力が少し強く入ったのを、ネシュカは見逃さなかった。
「サレック……?」
「う、ん。リンちゃんが、サレックに、すみ、こみ?のお屋敷の仕事をもらったって言ってた」
ネシュカは小さく呟き、考え込むように顎に手を添える。
(確か、セイスの報告ではアオイがいる川辺の方の子どもたちの中に、サレックって名前の子がいたはず……茶色い髪も一致してる)
思考を巡らせていると、ふと少女の方へ視線を向けた。
少女は俯き、金髪の少年の裾を握る反対の手も、自分の服をぎゅっと握っている。
「そのサレックっていう子は男の子?」
柔らかな口調で尋ねると、少女は軽く頷いた。
「サレックという子と、あなたはお友達なのかしら?」
首をやや傾げ、優しい声でさらに尋ねる。
少女は瞳を閉じ、ゆっくり首を横に振った。
「た、たまに……お話しするだけ」
「そうなのね」
少女の声や握る拳には、わずかに震えが混じる。
知らない大人に自分の知ることを話すのは、きっと怖いのだろう。
ネシュカは数秒間を置き、静かに口を開いた。
「お話ししてくれて、ありがとう。とても助かるわ」
立ち上がると、ネシュカは自分の髪を結っていた髪紐をそっと解き、少女の方へ差し出した。
髪紐は滑らかで、少し高級感のある素材。端には桃色の糸で頭文字の刺繍が施されており、汚れひとつなく大事にされていることがわかる。
「お話ししてくれたお礼よ」
少女たちは髪紐の美しさに目を見開く。
しかしネシュカの言葉を聞くと、少女は不安げに顔を上げ、受け取っていいものか迷うような瞳で見つめた。
ネシュカは微笑みながら、少女の手をそっと取り、髪紐を渡す。
「これは、あなたがお話ししてくれた分の報酬よ。だから受け取って」
少女は少し躊躇しながらも、やがてそっと髪紐を握りしめた。
◇
(……これで私も、文無しね)
ネシュカは脇道を離れ、仮拠点へ戻りながら思った。
持っていたお金は、情報屋から買い取った情報で全て使い果たしてしまった。
さらに手元の売れるものは、すでに少女への報酬として渡してしまった。
(あの髪紐だけは……持っていても、邪魔になるだけだったから、渡せてよかったわ)
少しだけ顔を歪めながら、ネシュカは思う。
(サレックって子が本当に子攫いに関与しているなら、話は早い。
その子を通して仲介屋に接触できるはず……できなかったとしても、何か手がかりは掴めるはず。今夜、セイスと相談しましょう)
そう考えながら、ネシュカは足早に仮拠点へ向かって歩き出した。
神血の英雄伝 第六七話
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