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神血の英雄伝  作者: 小豆みるな
二章 リグラム、メグルロア
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小さな報酬

 囮作戦を開始してから、一日が経った朝刻(ちょうこく)の半ば。

 陽はすでに昇り、あたりはすっかり明るくなっている。風はほとんど吹かず、空気が少し重たい。


 ネシュカは、ボロボロの服をまといながらトラーナ街を歩いていた。

 通りのあちこちでは、紐に洗濯物を干す女たちの姿や、酒瓶を抱えたまま道端に転がる男の姿が見える。

 ネシュカはそんな光景に目をやりながら、ゆっくりと辺りを見渡した。


(このあたりに子どもはいないのかしら……)


 昨日、情報屋から得た話をもとに、子どもたちからも何か情報を引き出せないかと考えていた。

 狙いは、六歳から十五歳ほどの子どもたちだ。

 けれど、歩き始めてすでに三十分。お目当ての子どもたちには、まだ一人も出会えていない。


(まったくいないわけじゃないけど……)


 そう思いながら、ネシュカは視線を巡らせる。

 見かけるのは、せいぜい三歳前後の幼児や、大人に抱かれた赤子ばかり。

 それでは情報を得るどころではない。


 ネシュカは目を閉じ、わずかに肩をすくめて小さく息を吐き、再び前を向く。


(……井戸のあたりなら、いるかしら)


 トラーナ街の北側には、大きな井戸が二つあることを、ネシュカは事前の調査で把握していた。

 けれど、以前に何度か足を運んだときには、子どもの姿は一人もなかった。


(あの時はいなかったけど……たまたまかもしれないわね)


 じっとしていても、答えは出ない。

 ネシュカは軽く息を吐き、薄く砂埃の立つ道を踏みしめて歩き出した。





 井戸のある場所は、ネシュカがいた場所から歩いて十五分ほど。

 距離にすればたいしたことはないが、朝の陽射しが強く、じんわりと汗が背を伝っていく。


 やがて辿り着いた井戸のまわりでは、すでに何人かの大人たちが水を汲んでいた。

 汲み終えた者は布を水にひたし、肌着姿で体を拭いている。どの顔も、疲れと埃にまみれていた。


 だが、その中に子どもの姿は――ない。


(やっぱり、ここにもいないのね……)


 わずかに息を吐き、ネシュカは視線を巡らせた。

 すると、井戸から少し離れた方に、小さな背中が目に入る。

 背丈からして十歳前後。大きなバケツを抱えて、よろよろと脇道へ入っていく。


(……見つけた)


 ネシュカの瞳がかすかに光を帯びる。

 その背中を見失わぬように、足音を殺して静かにあとを追った。


 ネシュカは、脇道の手前で足を止めた。


 ざらついた壁に背を沿わせ、ひと呼吸おく。

 それから、ゆっくりと壁際から身体を離し静かな足取りで、脇道へと姿を現した。


 ネシュカが脇道に目を向けた瞬間、空気がひんやりと変わった。

 日陰になっている一角には、廃材や古い布を寄せ集めて作られた、小さな小屋のようなものがある。


 その影の中に、三人の子どもたちがいた。

 子どもたちは、急に現れたネシュカに気づくと、びくりと肩を震わせ、一斉に視線を向けた。


 ネシュカは、静かにその子どもたちを見つめた。


 ひとりは、先ほどバケツを抱えていた子。


 乱雑に切られた黒髪の短髪で、痩せすぎてはいないが栄養は足りていない。くるぶし丈の古びた短靴。手のひらは、普段から水仕事をしているのか荒れていた。


 残りの二人は、五歳か六歳ほどだろうか。

 いや、栄養不足のせいか、それよりも幼く見える。

 腰まで伸びた黒髪の少女と、金髪の少年。二人とも、バケツの子と同じように薄汚れた服を身にまとっていた。


 子どもたちはわずかに震え、少女は隣の少年の裾をぎゅっと握りしめる。


(……怖がってる)


 ネシュカは、心の中でそっとつぶやいた。

 見知らぬ大人がいきなり現れ、じっと見てくるのだ。怖がるのも当然だろう。


 ネシュカは小さく息をつき、ゆっくりとその場に腰を下ろすと、やわらかな笑みを浮かべた。


「ごめんなさい。急に出てきて驚かせたわね。あなたたちに何かするつもりはないの」


 できるだけ優しい声で、ネシュカは話し始める。


「実はね、茶色い髪の子を探しているの。知らないかしら?」


 その穏やかな口調に、三人は顔を見合わせた。

 そして、バケツを抱えていた少年が、恐る恐る口を開く。


「……茶色い髪の毛の子?」


 ネシュカは頷き、少年に視線を向けた。


「ええ。あなたたちの友達で、そんな子はいない?」


 少年は少し考えたあと、静かに首を横に振った。


「そう……。じゃあ、仕事を紹介してる子は? このあたりで“紹介してくれる子”がいるって聞いたのだけど」


 ネシュカの問いに、少年はうつむきながら小さく答える。


「……わかんない」

「そう」


 ネシュカは小さく呟き、視線を落とした。


「あ……」


 ネシュカは顔を上げ、少女の方へ視線を向けた。

 少女は何かを言いかけたが、声を飲み込む。


 その小さな沈黙を受け止めるように、ネシュカは優しく微笑む。


「なんでもいいのよ。思い出したことがあったら、教えてくれる?」


 少女は二度ほどちらちらとネシュカを見やり、小さく口を開いた。


「おねえちゃんの探してる人、サレックだと思う……」


 声にはわずかに震えが混じり、金髪の少年の裾を握る手に力が少し強く入ったのを、ネシュカは見逃さなかった。


「サレック……?」

「う、ん。リンちゃんが、サレックに、すみ、こみ?のお屋敷の仕事をもらったって言ってた」


 ネシュカは小さく呟き、考え込むように顎に手を添える。


(確か、セイスの報告ではアオイがいる川辺の方の子どもたちの中に、サレックって名前の子がいたはず……茶色い髪も一致してる)


 思考を巡らせていると、ふと少女の方へ視線を向けた。

 少女は俯き、金髪の少年の裾を握る反対の手も、自分の服をぎゅっと握っている。


「そのサレックっていう子は男の子?」


 柔らかな口調で尋ねると、少女は軽く頷いた。


「サレックという子と、あなたはお友達なのかしら?」


 首をやや傾げ、優しい声でさらに尋ねる。

 少女は瞳を閉じ、ゆっくり首を横に振った。


「た、たまに……お話しするだけ」

「そうなのね」


 少女の声や握る拳には、わずかに震えが混じる。

 知らない大人に自分の知ることを話すのは、きっと怖いのだろう。


 ネシュカは数秒間を置き、静かに口を開いた。


「お話ししてくれて、ありがとう。とても助かるわ」


 立ち上がると、ネシュカは自分の髪を結っていた髪紐をそっと解き、少女の方へ差し出した。


 髪紐は滑らかで、少し高級感のある素材。端には桃色の糸で頭文字の刺繍が施されており、汚れひとつなく大事にされていることがわかる。


「お話ししてくれたお礼よ」


 少女たちは髪紐の美しさに目を見開く。

 しかしネシュカの言葉を聞くと、少女は不安げに顔を上げ、受け取っていいものか迷うような瞳で見つめた。


 ネシュカは微笑みながら、少女の手をそっと取り、髪紐を渡す。


「これは、あなたがお話ししてくれた分の報酬よ。だから受け取って」


 少女は少し躊躇しながらも、やがてそっと髪紐を握りしめた。





(……これで私も、文無しね)


 ネシュカは脇道を離れ、仮拠点へ戻りながら思った。

 持っていたお金は、情報屋から買い取った情報で全て使い果たしてしまった。

 さらに手元の売れるものは、すでに少女への報酬として渡してしまった。


(あの髪紐だけは……持っていても、邪魔になるだけだったから、渡せてよかったわ)


 少しだけ顔を歪めながら、ネシュカは思う。


(サレックって子が本当に子攫いに関与しているなら、話は早い。

その子を通して仲介屋に接触できるはず……できなかったとしても、何か手がかりは掴めるはず。今夜、セイスと相談しましょう)


 そう考えながら、ネシュカは足早に仮拠点へ向かって歩き出した。

神血(イコル)の英雄伝 第六七話

読んでいただきありがとうございました。

次回も読んでくださると嬉しいです૮ ˶ᵔ ᵕ ᵔ˶ ྀིა

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