川辺の二日目 ニ
天幕のすぐそばの地面に腰を下ろし、アオイたちは古びた書物を広げた。
「まず、どこまで読めるのか知りたい」
アオイの声に、サレックは本を抱え込み、眉をひそめながら文字を追った。
「ある、山の中に一匹の狼がいました」
最初の一行は淀みなく口をついて出る。
「狼はいつもひとりぼっちで……く、ら……していました」
二行目に入ると舌の動きが重くなり、読み方を確かめるように一文字ごとを区切ってしまう。
「ご飯を食べるときも……」
三行目では、紙面の上で指先が止まった。目だけが文字を追っているが、音にはならない。
「ここは“眠る”って読む」
アオイが指で示しながら静かに教えると、サレックは片手を頭にやり「眠る、か……」とつぶやいた。
「じゃあ、ここは?」
今度は四行目を指差して尋ねる。
「“動物”だな」
「んじゃあ、こっちは?」
「“怖がる”だ」
答えを聞くたび、サレックは文字を睨みつけるようにじっと見て頭に刻み込もうとした。だがそのやり取りの途中、カスタが堪えきれずアオイとサレックの間に割り込んできた。
「これ、なに!」
指差した文字を見て、アオイは即座に答える。
「“兎”だ」
カスタはぱっと笑顔を咲かせる。それを見ていたカスルも負けじと飛び込んできた。
「じゃあこれは!」
「“友達”」
「つぎはこっち!」
「やだ、ぼくが先!」
二人はきゃあきゃあと声を重ねながら好き勝手に指を突きつけ、アオイを質問攻めにする。
「おい、今は俺が習ってるだろ!」
サレックは不満げに眉を吊り上げたが、二人は耳だけ傾け、全身はすでに楽しさでいっぱいだった。
「……お前らな」
サレックはわなわなと肩を震わせ、やがて大声を張り上げる。
「もう怒ったぞ!」
両手を広げて飛びかかる真似をすると、二人は悲鳴混じりに笑いながら駆け出した。
「サレックがおこったー!」
「こわーい!」
楽しそうな声をあげて逃げる二人を、サレックも負けじと追いかける。最初は本気で苛立っていた顔も、次第に笑みに変わっていった。
(……楽しそうだな)
生ぬるい朝風が頬を撫で、追いかけっこの足音と笑い声が混じり合う光景をアオイは書物を手に静かに眺めていた。
「まだくるー」
「アオイおにいちゃんたすけてー」
サレックに追いかけている二人は、アオイの方へ行き隠れるように助けを求めた。
「アオイに助けを求めるなよ」
サレックは、アオイを挟み二人にいった。
サレックはどうにか二人を捕まえようとするが、二人はアオイを縦にしてサレックが動く反対の方へそっと身体を向ける。
逃げるカスルとカスタと追いかけるサレックに挟まれアオイはやや困り顔をした。
それを数回繰り返すと
「にげろー」
「にげろー」
カスルとカスタは、そういうと、アオイの服を掴みアオイも引っ張りまた逃げ始めた。
「俺も逃げるのか」
アオイは二人に引っ張られ立ち二人に引っ張られながら呟いた。
「あ、ずるいぞ」
サレックは、アオイを連れながら走るカスルとカスタを見て言うと再び追いかけ始めた。
おいかけっこは三十分ほど続きサレックがアオイを連れたカスルとカスタに追いついところで終了した。いっぱい走り回り小腹が空いた四人は早めの昼膳を取ることになった。
結局、サレックが文字を覚えるのは、昼膳を食べ終わりカスルとカスタがお昼寝をした後二人でカスルとカスタが起きるまでゆっくりと行われた。
サレックは、言葉がカタコトになっても必死になり、アオイもそれに答えるように真剣に教えた。
◇
夕刻の半ば。
西の空が赤く染まり、天幕の中にも橙の光が差し込みはじめた頃だった。
「みんな、ただいま」
稼ぎを終えたチアーが、カンラとエリアを連れて天幕へ戻ってきた。
少し疲れのにじむ顔に、それでもやわらかな笑みを浮かべて声をかける。
「おかえり!」
真っ先に応えたのはカスタだった。ぱっと弾む声に、チアーは目を細めて「ただいま」と優しく返す。
「四人とも、ただいま」
チアーの隣にいたカンラも、少し照れくさそうに言葉を重ねた。
「……ただいま」
エリアも小さく、けれど確かな声音で続く。
「おかえり!」
今度はカスルが胸を張るように返した。
その言葉を聞き終えたサレックは、ふんっと鼻を鳴らして立ち上がった。両腕を腰に当て、にやりと笑みを浮かべる。
「待ちくたびれたぞ」
張りのある声に、チアーが目を瞬き、明るく問い返した。
「待ちくたびれたって、なにかあったの、サレック?」
期待を含む視線を向けられ、サレックはさらに得意げな顔になる。
「ああ。三人に言いたいことがあるんだよ」
わざともったいぶるように間を置くと、チアーもカンラもエリアもそろって首を傾げる。
自然と五人の視線がサレックひとりに集まった。
その視線を存分に浴びながら、サレックは胸を反らして大きく口を開いた。
「俺は今日、この前チアーからもらった本の内容を読めるようになったんだ! 全部だぞ!」
サレックは自慢げに目を細め、どや顔を浮かべた。
きっと、次の瞬間には「すごい!」とか「やるじゃん!」とか、盛大な拍手が飛んでくる――そんな未来を疑っていなかった。
ところが、待てど暮らせど反応はない。
……おかしい。なんで誰も喋らないんだ?
サレックはそっと瞼を開け、ちらりと周囲を見た。
「……」
「……」
「……」
五人全員が、何も言わずにサレックの方を見ている。
「おい、なんで誰も喋らないんだよ!?」
思わず声を上げたサレックに、静けさがもう一度返る。
アオイとカスル、カスタはもう知っているからいいとしても――帰ってきたばかりのチアーたちの反応があまりにも薄い。
サレックが不満げに顔を向けると、チアーが真っ直ぐサレックを見つめて言った。
「サレック、嘘はよくないよ」
穏やかだけど、芯のある声だった。
「は!? 嘘なんかつかねぇよ!」
サレックはむっとして言い返す。
「だって、ほとんど教えてないのに読めるわけがないよ」
チアーの視線はまっすぐサレックに向けられている。
この中で文字を読めるのはチアーだけ。忙しくて、サレックに教える時間なんてほとんどなかった。
そんな中で急に「全部読めた」なんて――信じられるわけがない。
「そうだよ。サレック、嘘はダメ!」
カンラもチアーの言葉に頷く。
エリアも同じように、小さくうなずいた。
「だ、か、ら! 嘘じゃねぇって言ってんだろ!」
サレックは声を荒げたが、三人の表情は変わらない。
その視線がさらにサレックを苛立たせた。
「なら証明してやるよ!」
サレックは勢いよく机の下から書物を引っ張り出すと、勢いのまま頁を開いた。
アオイたちも息をのんで見守る。
そして――サレックは、真剣な顔で口を開いた。
「ある山の中に一匹の狼がいました。狼はいつもひとりぼっちでいました。ご飯を食べる時も眠る時も、いつもひとりぼっちです。狼は、いつも悲しい気持ちで過ごしていました。他の動物たちは、そんな狼を見ても――」
淡々と、淀みなく読み進める声。
アオイに教わる前までは、二行目で詰まっていたというのに――。
今はまるで嘘みたいに、すらすらと読めている。
チアーたちは思わず目を見開いた。
疑っていた気持ちが、静かに裏返る。
「そんなある日、狼のところに一匹のうさぎがやってきました――」
サレックの声が静かに響く。
カンラは、その姿を見つめながら小さく呟いた。
「サレックが……本当に読めるようになってる……」
「嘘だと思ってた……」
「うん……」
チアーとエリアも、驚きと感動を滲ませながら続けた。
「それから二匹は、仲良く暮らしました」
物語を読み終えたサレックは、満足げに書物を閉じた。
どうだ! と言わんばかりの表情でチアーたちを見る。
「びっくりした……まさか本当に読めるようになってるなんて」
チアーは唖然としながら呟いた。
「だから読めるって言っただろ!!」
サレックは胸を張って言い放つ。
「でも、チアーも全然教えてないのに……なんで?」
カンラが首をかしげる。
すると、サレックはにやりと笑ってアオイの方を指差した。
「アオイに教えてもらったんだ!!」
その瞬間、チアーたちの視線が一斉にアオイへ向く。
「え、アオイに?」
チアーが不思議そうに眉を寄せた。
カンラとエリアも同じように、興味と驚きの混じった目で彼を見つめる。
「アオイさ、文字すげぇ読めるんだぜ!!」
サレックは嬉しそうに笑い、まるで自分のことのように胸を張った。
「おにいちゃんすごいの!」
「アオイおにいちゃん、かっこいいの!」
カスルとカスタが声を弾ませる。
無邪気な笑顔がはじけた。
「えー、アオイって文字が読めるんだ」
カンラが感嘆の声を上げ、エリアも瞳を大きくする。
全員の視線が集まる中、アオイは一瞬だけ肩をすくめた。
「すごいね……どこで教えてもらったの?」
エリアが上目づかいに尋ねる。
アオイは少しだけ間を置き、エリアの視線から逃げるように答えた。
「……親に、教えてもらった」
その声は小さく、どこか自信がなかった。
三人は顔を見合わせ、「へぇ」と呟く。
そして、チアーがふと思ったように首をかしげた。
「アオイって……もしかして、育ちいい方?」
その言葉に、アオイはきょとんとした顔でチアーを見る。
ほんの短い沈黙のあと、静かに口を開いた。
「……俺が、か?」
淡々と返した声の奥に、かすかな戸惑いが混じっていた。
自分が育ちがいいだなんて、言われたのは初めてだった。
だからアオイは、ほんの少し眉を上げチアーを見つめる。
「うん。だって文字も読めるし、森にも今日初めて入ったんでしょ? トラーナ街じゃ、相当育ちのいい方だと思うけど」
チアーは静かに言い、視線をアオイに向けた。
「確かに……珍しいね」
エリアも小さく頷き、同意するように呟く。
その言葉を聞いたアオイは、ほんの少しだけ目を伏せた。
(……ああ、そういうことか。確かに、トラーナ街の子どもたちから見れば、そう思うのか)
胸の奥でそう思いながら、アオイは二人の言葉を静かに受け止めた。
すると今度は、サレックがにやりと笑いながら口を開いた。
「確かにアオイって、顔も身体つきもいいしな。なんか“それっぽい”んだよ」
その言葉に、アオイはわずかに視線を落とした。
(たいして、他と変わらないと思うが……)
顔立ちのことを言われるのは初めてではない。
けれど、特別だなんて思ったことはない。
そんなアオイの様子を見て、エリアが手を打った。
「ほら、アオイ困ってるし。話はおしまい。夜ご飯の準備するよ、明日も早いんだから」
カンラがぱんぱんと手を叩くと
「おなかすいたー!」「ぺこぺこー!」
カスルとカスタが両腕を伸ばしながら元気に声をあげた。
「それもそうだね」
チアーも笑って立ち上がる。それに続いて、エリア、サレック、カスル、カスタが次々と腰を上げる。
アオイも静かに立ち上がり、同じように手を動かし始めた。
魚を獲り、火を起こして、皆で囲む。
水浴びを終えた頃には宵刻の半ばを過ぎていた。
そして昨日と同じように、六人はそれぞれ静かに眠りについた。
◇
深刻の少し前。
風もなく、湿り気を帯びた夜の空気の中で、五人がぐっすりと眠っているのを確かめると、アオイは セイスへの報告に向かうため、そっと身体の向きを変え、川辺を離れた。
アオイが天幕のある川辺から離れると、暗い天幕の中で、ひとつ、そっと瞼が開いた。
その瞳は、遠ざかっていくアオイの背中を、静かに追っている。
神血の英雄伝 第六六話
読んでいただきありがとうございました。
次回も読んでくださると嬉しいです૮ ˶ᵔ ᵕ ᵔ˶ ྀིა




