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神血の英雄伝  作者: 小豆みるな
二章 リグラム、メグルロア
71/83

川辺の二日目 一

 太い木の根元に寄りかかっていたアオイの身体は、夜のあいだほとんど休まらなかった。 


(眠れない……)


 背にあたる根はごつごつと固く、休むどころか痛みさえ覚える。それでも体力を取り戻そうと目を閉じていると、じゃりじゃりと小石を踏む音が川辺から近づいてきた。

 足音は次第に大きくなり、アオイの目の前でぴたりと止まる。気配に促されるように、閉じていた瞼をそっと持ち上げた。


「あ、起きてたのかよ」


 まだ幼さの残る声が耳に届く。

 薄闇の中、月明かりに浮かんだのは痩せた体つきの少年だった。ぼろぼろの服に茶色の髪。

 そばには、黒い紐を二本つけた背負い籠が置かれていた。

 アオイの肩へ伸ばしかけた手をとどめ、こちらを覗きこんでいる。


「サレック。何かあったのか」


 アオイは疲れを見せぬ顔で淡々と尋ねた。

 サレックは軽く息を吐き、伸ばした腕を戻して背を伸ばす。


「今から森に行って色々集めに行くんだ。一緒に来いよ」


 他の子どもたちを起こさぬよう、声を落としている。


「色々……?」


(こんな時間にか……)


 アオイはちらと空を仰いだ。月は高く、幽刻も半ばを過ぎているが、森に入るにはあまりに早い時刻だ。


「枝とか木の実とか……とにかく色々だよ! いいから来いって!」


 最後には小声ながらも勢いを込め、サレックは言い切った。


「分かった」


 アオイは静かに答え、腰を押さえながら立ち上がる。長く根に凭れていたせいで鈍い痛みが走った。


「よし、行くぞ!」


 サレックは意気込みを隠さず森へ歩み出す。

 アオイはその背を追い、冷静な足取りで後に続いた。





 アオイは、夜明け前だというのに元気な足取りで進むサレックの背を追いながら、森の中を見渡した。


 一見すれば、ナサ村の森と大きくは変わらない。

 だが三つ、決定的な違いがあった。ひとつは、森に潜む獣たちの目つきがどこか凶暴で、こちらを伺う視線に敵意が混じっていること。

 二つめは、森が整えられておらず、あちこちに塵が捨てられ、木々が不自然な形で切られていること。

 三つめは――鼻を突く、異様な匂いだった。


(なんだ、この匂い……)


 トラーナ街に漂う塵や汚れの匂いとも違う。もっと生々しく、肉が腐ったような、嗅いだことのない臭気にアオイは思わず瞳を細める。


 そのとき、前を歩くサレックが片腕を顔に寄せ、鼻を押さえながらつぶやいた。


「うわっ……今日はいつもより匂うな」


 やや鼻声のその言葉に、アオイは口を開く。


「これは……何の匂いだ?」


 サレックは横目でこちらを見て、当然だろうと言わんばかりに答えた。


「なんだよ、森に入ったことねえのか。死体が腐った匂いだよ」

「……死体?」

「そうだ。トラーナ街じゃ死んだ奴をまともに火葬なんてできねえからな。そこらの森に埋めたり、捨てたりするんだ」


 顔をしかめながら、サレックは続ける。


「放っとかれた死体はそのまま腐り続けるか、獣に食われる。だから森の獣は食わない方がいい。前に食って病気になった奴がいたからな」


 サレックがそう言うと、アオイは静かに返事をした。


「分かった」


 ふと何かを思い出したように、サレックが言葉を継ぐ。


「そういやさ、アオイ。親の死体はどうしたんだよ」


 唐突な問いに、アオイはわずかに視線を落とす。


 両親は病で亡くなった――そういうことにした。

 けれど、死体をどうしたのかまでは考えていなかった。いや、そんなことを尋ねられるなんて思いもしなかった。


「近くの大人が……どこかに運んでくれた」


 二、三秒の沈黙ののち、そう答える。サレックは「へぇ」と短く返し、また前を向いた。


「親切な奴もいたもんだな」


 その言葉を最後に、しばらくは地面を踏む音だけが続いた。やがてサレックは立ち止まり、あたりを見回して言う。


「この辺で探すか……。これ以上奥は匂いがきつくなるし」


 そう言うと、落ちていた小枝を拾い始める。

 アオイも見よう見まねで手を伸ばしながら尋ねた。


「枝なら……どれでもいいのか?」

「ああ。燃えそうなやつならな」


 気軽な口調とは裏腹に、アオイの目には違いが分からない。


(……どれが燃えそうなんだ)


 枝をじっと見比べてみても答えは出ない。視線をサレックに向けると、彼はやや長めで太い枝を選んでいた。アオイも真似して似た枝を手に取る。


 そんなふうに二人で枝を集め続け、二十分ほどの時間が過ぎたころ、サレックが声をかけた。


「アオイー、もう枝はいいぞー」


 サレックはそう言うと、手にした枝を籠の中へ放り込んだ。

 呼びかけにアオイも静かに頷き、集めた枝を抱えて籠のもとへ向かい、そっと入れる。


 サレックは腰に手を当て、胸を張って言った。


「よし、次は食べるものだ!」


 言うが早いか、木々の上を見上げて「おっ」と声をあげる。


「あれなんか、ちょうどいいだろ!」


 サレックが指さした方へアオイが顔を向けると、丸く黒ずんだ木の実がいくつもぶら下がっていた。


「食べられるのか……あれ」


 アオイは眉をひそめ、声を潜めるように呟いた。


「多分食えるだろ」


 軽い調子で言い切るサレックに、アオイは息を呑む。


(多分……)


 確証のない言葉に、胸の奥がざわめいた。


 サレックは木に駆け寄ると、軽々と登り、枝を渡って黒い実へ手を伸ばす。そして枝に片手をかけたまま、下にいるアオイを見下ろした。


「俺がこれ落とすから、アオイは受け取る役な」

「ああ」


 短く応じ、アオイは実を受け止められそうな場所へ移動する。

 次の瞬間、枝から外れた果実が弧を描いて落ちてくる。反射的に両腕で受け止めたそれは、意外にも軽く、そして固い。感触は、「食べ物」というよりは「石」に近い気さえした。


 二人はその後も黒ずんだ木の実を五つほど採り、三つずつ手に持つと、森を後にして天幕へと戻っていった。





 川辺へ戻ると、チアー、カンラ、エリアがすでに起きていた。

 チアーとカンラは網を使って魚を追い、エリアは小さな身体で水を汲んでいる。


(もう起きてるのか……)


 自分より幼いはずなのに、夜明け前から働く姿に、アオイは思わず目を細めた。


「サレック、アオイ。おかえり、おはよう!」


 チアーが気づき、明るく手を振る。


「アオイがいないと思ったら、サレックについていったんだね。びっくりしたよ」


 カンラも笑みを向けたが、その声音にはわずかな安堵が混じっていた。


「起こすのは良くないと思った。……悪い」


 アオイが申し訳なさそうに言うと、カンラは首を振って笑顔を見せた。


「いいよいいよ。枝と食べ物、集めてきてくれたんでしょ?ありがとう」


 そのやりとりに、サレックが指を差して口を挟む。


「なあ、アオイってさ。森に入ったの、今日が初めてなんだぜ」


 その言葉に、チアーとカンラは目を丸くした。


「え、そうなんだ!? 珍しいね」


 その会話に混ざるように、エリアが歩み寄ってきた。

 両手で水を満たしたバケツを抱えているが、あまりに重いのか、小さな肩は震え、足取りは不安定だった。


「怖くなかった?」


 アオイはエリアを見下ろし、わずかに口を動かした。


「……怖くはなかった」


 その答えにエリアは「そっか」とだけ言い、再び歩き出そうとする。だが、その小さな背が水の重みに押し潰されそうに見えた。


(変わった方がいいな)


 アオイは一歩踏み出し、余った取っ手の隙間に手を差し入れた。


「俺が持つ」

「あ……」


驚いた声をもらすエリアの手から、自然と重みが移った。アオイは何事もなかったようにバケツを持ち上げ、天幕の中へと運んでいく。


 台の近くに空いた場所を見つけると、音を立てぬように静かに置いた。

 ――だが、そのわずかな音に反応したのか、眠っていたカスタが身じろぎをする。


「んー……」


 まだ夢の続きにいるようなとろんとした目でアオイを見つめ、口を開いた。


「アオイ……おにいひゃん?」


 思わぬ呼びかけに、アオイは一瞬固まる。


「……悪い、起こしたか」


 謝罪の言葉を向けると、カスタはしばし瞬きを繰り返したあと、ぱっと笑顔になってアオイに抱きついた。


「アオイおにいちゃんだ! おはよう!」


 力いっぱい腰にしがみつくカスタ。その声に釣られるように、隣で眠っていたカスルも起き上がった。


「もう、あさなの……?」


 眠たげに瞼をこすりながら呟く。その二人のもとへ、カンラが歩み寄った。


「ちょっと早いけど、もう起きちゃおっか」

「はーい」

「はーい!」


 元気よく返事をすると、二人は台の上から飛び起きた。

 そしてアオイの前に一列に並び、さきほどアオイが運んできた水の入ったバケツで顔をぱしゃぱしゃと洗う。

 そばに置かれた布で、楽しげに水を拭ったと。


 やがて六人は協力して朝の支度を始める。アオイも昨日エリアに教わった火起こしを難なくこなし、焚き火の炎が魚を焼き上げていった。


 炎を見つめる間、アオイの頭の中には昨夜、セイスとの会話が蘇る。


 チアー、カンラ、エリアの稼ぎ方。

 天幕の奥にある、何かを埋めた跡。


(聞くなら今だよな)


 静かに息を整え、アオイはチアーたちに向き直った。


「ひとつ、気になってたことがある。今、聞いてもいいか?」


 真剣な声音に、三人は揃って顔を上げた。


「うん。いいよ」


 チアーが頷き、アオイは言葉を続けた。


「三人はどうやって稼いでいるんだ?」


 アオイが問いかけると、最初に答えたのはチアーだった。

 チアーは少し胸を張り、明るい声を響かせる。


「そういえば、まだ言ってなかったね。僕は荷物運びをしてるんだ。トラーナ街を少し出た先にある酒場とか食堂で、樽や食べ物を運んでるよ。たまにだけど、トランセル港からラゴンに乗って魚をここまで運んだりもするんだ」


 幼さの残る顔立ちに似合わぬ、どこか誇らしげな響きがあった。

 アオイはその答えを聞き、ふと胸の内で考える。


(荷物運びなら、外と関わることも多いはずだ。……もしかすると、仲介屋について何か知っているかもしれないな)


 そう考えた途端、アオイの胸の奥にかすかな緊張が走る。だが今すぐ踏み込んで尋ねるのは早計かもしれない、と言葉を飲み込んだ。


 しばし黙考していると、今度はカンラが口を開いた。


「私とエリアは、同じ仕立て屋で働いてるの。といっても、任されるのは雑用ばかり。掃除や道具の準備、あとは釦つけとか、トヴェラで服の(しわ)を伸ばすくらいかな。……いつになったら、もっとちゃんとした仕事をさせてもらえるんだろうね」


 口調は明るいものの、その表情には苦笑いが混じっていた。


「トヴェラ……?」


 聞き慣れぬ単語に、アオイが小さくつぶやく。


「トヴェラはねーー」


 それまで黙っていたエリアが、控えめな声で説明する。少し緊張したように言葉を紡いだ。


「土を焼いて作った道具で、中は空洞になってるの。そこに熱湯を注ぐと外がじんわり温まって、その熱で服の皺を押し伸ばすの」


 それを聞いたアオイは小さく頷き、ナサ村で目にした道具を思い出す。


 焼き固めた土ではなく、鉄でできた片手鍋のような道具。その器に炭火を入れ、布を滑らせて皺を伸ばす――そんな仕掛けだった。


(確か、ナサ村では火熨斗(ひのし)って呼んでいたな。……リグラムでは少し違うを使ってるんだな)


 アオイは火熨斗のことを思い返した後、気になったことを尋ねた。


「人前に出ることはないのか?」


 問いに、カンラはすぐさま首を横に振った。


「あるわけないよ。私たち、身なりもこんなだし、お客さんの前に出せる格好じゃない。……それに、店の人の中にも、私たちが顔を出すのを嫌がる人がいるから」


 明るい声音。しかし、その奥に滲むものをアオイは見逃さなかった。

 笑顔のまま答える彼女の目に、ほんの一瞬、影が差す。


「……よく嫌にならないな」


 気づけば口にしていた言葉に、カンラは目を丸くし、それから再び笑みを浮かべる。けれど、その笑みはどこか儚く、アオイには悲しげにさえ見えた。


 その空気を和らげるように、チアーが軽やかに口を挟む。


「確かに、トラーナ街の子ってだけで嫌な目をされることはあるよ。でもね、それでもちゃんとお金をもらえるんだ。少なくても、そのお金でみんなが暮らしていけるなら、それでいいと思ってる」


 あまりに真っ直ぐな言葉に、アオイは返す声を失った。

 嫌な目を向けられながらも、それでも前を向き、生活のために働く――。彼らの姿に、強さを感じると同時に、なぜか心の奥が締めつけられるように痛んだ。


 隣のサレックも、気まずそうに視線を伏せている。

 カスルとカスタは、幼いながらもその雰囲気を察したのか、黙ってチアーの横顔を見つめていた。


「……他に、聞きたいことはない?」


 チアーが問いかけ、アオイははっと我に返る。

 逡巡ののち、視線を天幕の奥へ向けて指を伸ばした。


「あそこに何が埋まってるのか知りたい」


 五人の視線が一斉に膨らんだ地面へ向く。


「ああ、あそこ? お金を埋めてあるんだ」


 あまりにあっさりとした口調に、アオイは思わず聞き返した。


「なんでそんなところに?」

「この辺りじゃ盗みが多いからね。小袋に入れて隠すより、地面に埋めてあったほうが、誰も気づかないだろ?」


 チアーは片目を細め、にこりと笑う。

 その妙に達観した笑みに、アオイも思わず「確かにそうだな」と頷いた。


 すると、チアーが焚き火の方へ目をやり、声を上げる。


「ほら、魚。もう食べられそうじゃない?」


 視線を向けた四人が、同時に香ばしい匂いを追って火に近づく。


「うん、もういいね。食べよっか」


 カンラが頷き、続いて元気な声が響いた。


「たべよう!」

「だべよー!」


 カスルとカスタが無邪気に叫び、場の空気にようやく笑いが戻る。


それから六人は、他愛もない雑談を交えながら魚を食べ進めた。

 やがて腹を満たしたチアー、カンラ、エリアの三人が立ち上がり、それぞれの仕事へ向かっていく。

 残されたアオイ、サレック、カスル、カスタは、その背中をしばし見たあと、静かに後片付けを始めた。





 アオイは俎と包丁を布で拭きながら、チアーたちの仕事内容を思い返していた。


(三人とも怪しい仕事じゃなかったな……。まさか地面に埋めてるのが金だとは思わなかったが。夜にセイスへ伝えるか)


 そう考えるうちに、もうひとつの不安が頭をもたげる。


(このまま俺が囮で、本当に仲介屋は釣れるのか……)


 囮役を引き受けて二日。そう簡単に相手が現れるとは思えない。それでも作戦は五日と区切られている。焦りが胸の奥をかすかに灼いた。


「何を悩んでんだ?」


 不意に声が飛ぶ。顔を上げると、隣でサレックがじっとこちらを見ていた。


「浮かない顔してるぞ」


 首を傾げてこちらを見るサレックの眼差しは、考え込むアオイを気にかけてのことだと分かる。

 アオイは考えすぎていたと悟り、短く答えた。


「……悪い、なんでもない」


 淡々と告げると、サレックは「あっそ」と肩をすくめ、拭き終えた俎を手に持って歩き出す。アオイも包丁を片づけながら続いた。


「チアーたち、すげぇよな」


 サレックが歩きながらぽつりと漏らす。


「俺と一つしか変わらねぇのに、もう金を稼いでるんだ。エリアなんて、まだ八歳だぞ」


 その声音には尊敬と羨望が入り混じっていた。

 アオイは少し間をおいて問い返す。


「……サレックも稼ぎに行きたいのか?」


 サレックは天幕に目を向け、静かに答えた。


「俺まで稼ぎに出たら、あの二人を誰が見んだよ」


 確かに、サレックまで稼ぎに出てしまえば、幼いカスルとカスタがまた川辺で二人きりになってしまう。サレックはそれを不安に思っているのだ――アオイはそう思い、サレックの言葉に納得した。


「でもさ、アオイが来たから俺も稼ぎに行けるな」


 サレックの声はどこか弾んでいた。


 これまで幼い二人を思って自分を抑えてきた。だが仲間が増えたことで、自分も稼ぎに出て役に立てる。その喜びが言葉ににじんでいるのかもしれない。


 やがてサレックはアオイを振り向き、真顔で言った。


「あいつら、怪我しないようにちゃんと見てやってくれよ」

「あぁ」


 アオイは俯き気味に返す。胸の奥に小さな曇りが広がり、なぜか申し訳なさを覚えた。


 天幕へ戻り俎と包丁を片隅に置くと、カスルとカスタがぱたぱたと駆け寄ってきた。


「あそぼうー!」

「かけっこしよ!」


 期待で瞳を輝かせる二人に、アオイとサレックは思わず顔を見合わせる。だが――。


「悪いな。今日、俺は文字の練習があるんだ」


 サレックが目線を落として言うと、二人の顔がふくれた。


「えー、つまんない!」

「よにんであそぶー!」


 二人は頬をぷくりと膨らませ、じっとサレックをにらみつける。けれど瞳はつややかに揺れ、腕を組む仕草も小さくて、怒っているというより拗ねているだけなのが一目でわかる。

 アオイには、まるで血の繋がった本当の兄弟のようで、思わず胸の奥が温かくなる。


そのやりとりにアオイは小さく呟いた。


「……文字の練習?」


 するとサレックは勢いよく台の下に手を伸ばし、何かを掴んでアオイの前に差し出した。


「そうさ! これ、この前チアーがくれたんだぜ!」


 にかっと笑ったサレックの手には、古びた書物と紙束があった。紐でまとめられた紙の端はほつれ、書物の表紙も擦り切れている。

 けれどサレックは、それを壊してしまわないようにそっと支えていた。

 まるで宝物を抱えるような仕草に、それが彼にとって何より大切なものだとアオイにも伝わってきた。


 サレックは紙束を抱えたまま、古びた書物をぱらりと開いた。


「暇ん時にチアーに教えてもらってんだ。……トラーナ街の奴は、ふつうのとこより給金安いだろ? けど、字が読めたら、もっとマシなとこで働けるんだよ。だから今、覚えてるとこなんだ」


 声が跳ねるように明るかった。サレックは嬉しそうに、ぱらぱらと書物のページをめくりながら語る。


「最初の部分なら、もうできるんだぜ!」


 誇らしげに胸を張りながら、最初のページに視線を落とし、アオイへ自慢げに言う。

 アオイもそっとその紙面を覗き込み、文字を追った。


「……子ども向けの、読み書き用のやつか」


 アオイがその名を何気なく口にした瞬間、サレックの瞳が驚愕に大きく見開かれた。

 それは、予想もしなかった真実を突きつけられたような反応だった。


「はっ……アオイ、文字読めるのか!?」


 サレックの問いに、アオイは淡々と顔を向け、頷く。


「読める」


 それだけの答えだったが、カスルとカスタはぱっと表情を輝かせた。


「ごほんよめるの!?」

「すごい! アオイおにいちゃん、なんでもできる!」


 小さな体を揺らしながら、きらきらとした瞳でアオイを見上げてくる。

 その無垢な視線を受け、アオイは心の中で苦く思った。


(……失敗した。読めないふりをした方がよかったな)


 反応から察するに、この街の子どもたちの多くは文字が読めない。自分だけが当然のように読めるのは、かえって不自然だったと気づいたのだ。


 そんなアオイの思案をよそに、サレックはじっとアオイを見据えていた。

 悔しさの色を帯びた顔――昨日の遊びでも負け、今度は文字でも追いつけない。

 けれどその悔しさは、次第に別の熱に変わっていく。


「アオイ」


 名前を呼ばれ、アオイは視線を上げた。

 視線を上げると、サレックは迷いのない真剣な表情をしている。


「……俺に、読み書きを教えてくれ」


 真っ直ぐな眼差しが、アオイを射抜いた。


 「チアーも教えてくれてるけど、時間があんまないし、俺も早く覚えたいんだよ」


 サレックの瞳は荒っぽい口調とは裏腹に、真っ直ぐで、仲間のために役立ちたいと願う光を宿していた。アオイはその眼差しを数秒見つめ、わずかに息を吐く。頼み方は不器用でも、何かに必死で挑もうとする姿が悪くはないと感じた。


「……俺でいいなら」


 アオイもまた、真っ直ぐに視線を返す。


(任務のために、仲は深めておいた方がいい)


 任務のため自分にできることなら、やれるだけやっておく。

 そう腹の内で決めて、アオイは淡々と返事をした。


「よっしゃあー!」


 サレックは右手を高々と突き上げ、拳をぎゅっと握った。嬉しさが隠しきれず声に弾む。その姿を見たカスルとカスタが、待ちきれないようにアオイの服を小さな手でぐいぐいと引っ張った。


「ぼくもやる!」

「ぼくもー!」


 二人とも、楽しそうな輪に自分たちだけ置いていかれるのが耐えられないらしい。


「…二人にも教える」


 アオイが視線を落として告げると、二人の瞳が一気に輝いた。


「やった!」

「やったー!」


 弾む声と笑顔に、アオイの心のどこかがふっとほどけたように感じた。

 こうして、サレックの文字の読み書きの勉強が始まった。

神血(イコル)の英雄伝 第六五話

読んでいただきありがとうございました。

次回も読んでくださると嬉しいです૮ ˶ᵔ ᵕ ᵔ˶ ྀིა

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