小さな救命士
サクヤたちの気配が森の奥へと消える。残されたのは血の匂いと、少女のかすかな吐息だけだった。
アイカの胸元で、弱々しく布を掴む力と掠れた声が零れ落ちる。
「おね……ちゃ、わた……」
その声に、アイカははっと顔を向けた。
少女の顔は青ざめ、今にも気を失いそうなほど危うい。
「手当……しないと」
そう口にし、アイカは少女に手当を施そうとしたが――。
「いっ……!」
自分の身体も限界に近く、思うように動けない。それでも、ここで動かなければ少女は死んでしまうかもしれない。必死に身体をわずかに動かすが、手当てには移れなかった。
その時、サクヤとクオネたちが去った方とは別の方向から、複数の足音が近づいてくる。
アイカは音のする方へ顔を向け、片腕で少女を抱きかかえながら、もう一方の手を斬槍へ伸ばした。
もし敵ならば、もはや後がない。それでも少女だけは守らなければ――そう覚悟し、残り少ない力を振り絞って警戒する。
やがて森の影から三つの人影が現れ、その一人が声を上げた。
「あ、やっとアイカ見つけた」
聞き慣れた声に、アイカは小さく名を呼ぶ。
「……レイサ」
森から現れたのは、両腕を縛られたリイトを後ろから押さえつけているレイサと、その後ろを静かに歩くハナネだった。
二人の姿を目にした瞬間、アイカの肩から力が抜け、安堵の息がこぼれる。
だがハナネは、アイカと、その腕に抱かれた少女を見るなり表情を変え、駆け寄った。
アイカも満身創痍だが、それ以上に少女は危険だ。
ハナネは少女の容体急いで確かめる。
(出血がひどいわね)
ハナネはすぐに制服の上衣を脱ぎ去った。
「は!? おい、何してんだ!」
「ちょ、ハナネ!?」
アイカとレイサが思わず声を上げる。しかし彼女は冷静に言い返した。
「今、私にできることをするのよ」
肌着姿になったハナネは、脱いだ上衣の袖を傷口に当たらないよう軽く圧迫するように腹部に巻きつける。さらに太ももに忍ばせていた短剣を抜き、下衣を切り裂いた。
「ーーとりあえず、矢が動かさないよう固定するわ。終わったら、すぐにここを離れる」
そう言い切ると、周囲を見渡して臂ほどの枝を二本拾う。戻ってきたハナネは、少女の背に突き刺さった矢を枝で挟み込み、裂いた布でしっかりと巻きつけて固定した。
手際の良さはまるで慣れているようで、アイカは息を呑み、その動きをじっと見つめていた。
その時、リイトを連れたレイサが近づいてくる。
「アイカもすげえ怪我だな。歩けるか?」
心配そうな声に、アイカは疲れを隠すように笑顔を作ってみせる。
「こんぐらい平気」
そう言いつつ少女へ視線を向け、小さな声でハナネに尋ねた。
「この子……助かる?」
容体から見て望みは薄い。アイカの声には不安が滲んでいた。
だがハナネは視線を逸らさず、処置を続けながら答える。
「絶対に死なせたりなんかしないから」
その言葉は力強く、アイカの胸にわずかな安堵を落とした。
やがて処置を終えたハナネは小さく息をつき、きっぱりと告げる。
「私がこの子を背負う。アイカは後ろから支えて」
冷えた声に決意が滲む。背を向けて少女を慎重に背負い上げると、アイカも「分かった」と少し遅れて返事をし、その身体を支えた。
やがてハナネが歩き出し、レイサもリイトを引き連れて続く。
リイトは俯いたまま何も言わず、その顔に悔しさを滲ませていた。
こうして五人は学院へと向かって歩き出した。
◇
森を抜ける頃には陽がすっかり落ち、月明かりが道を照らしていた。
リュスカ堂の通りを避けながら学院の門へ向かうと、柵に寄りかかって不機嫌そうに待つトライの姿があった。
土にまみれたアイカとレイサ。
上半身は肌着姿、制服の下衣も裂かれ、ボロボロになったハナネ。そして背に負われた血の気を失った少女、さらに両腕を縛られたリイトを一瞥し、トライは眉をひそめる。
「先ほど、リイトのご両親が『まだ息子が帰ってこない』と学院に尋ねてきた。君たちの部屋を見に行けば三人ともいない。もしやと思って待っていたら……なんだこの有様は」
厳しい視線に、アイカは言葉を探すが口が詰まる。
「君たちには問題を起こしてほしくないのだが――」
「そんなことより今は治療が先です」
トライの言葉を遮り、ハナネが冷たく言い放つ。
不機嫌そうに眉を寄せたトライと、冷たい瞳で睨み返すハナネ。
数秒の静寂ののち、トライは短く吐き出した。
「……まあいい。この近くに診療所がある。案内しよう」
そう言って歩き出すトライの背を、五人は一瞬戸惑いながらも追った。
(誰もいない……)
トライの背を追いながら、アイカは落ち着かぬ心で周囲を見渡した。
墓刻も終わりに近い時刻だろうか。本来ならまだ人影があってもおかしくはない。
だが、夜の街は異様なほど静まり返り、灯された街灯だけが冷たい光で道を照らしていた。
「今日はリュスカ堂も十八の刻には閉館した。だから人通りもない。……よかったな」
やがて、白く小ぶりな三階建ての建物が姿を現した。
柵に囲まれた庭には整えられた草木が並び、窓からは淡い明かりが漏れている。
前面の壁には規則正しく窓が並び、一階の中央には小さな屋根と二本の柱に支えられた玄関が突き出ていた。
その奥に、大きな扉が口を閉ざすように佇んでいる。
柵の外には、《中央診療所》と記された立て看板。
夜の静けさの中、その文字だけが妙にくっきりと浮かび上がって見えた。
アイカとハナネは《中央診療所》の看板を目にすると歩を速め、柵を抜けて玄関の扉を押し開けた。
室内には薬品と病人特有の匂いが漂い、鼻をくすぐる。
壁は外壁と同じ白で、床は灰褐色の厚みある木材。中央には長椅子が三列ずつ並び、待合室らしい簡素な造りだった。
幸いにも患者の姿はなく、受付には二人の看師、さらに奥にも三人ほどの女性看師が動いていた。
扉の音に振り返った看師たちは、土まみれの一行を見るなり驚きの声をあげる。
「あなたたち、どうしたの、その姿……!」
ハナネは背負った少女を支え直し、淡々と告げた。
「重症の怪我人です。部屋と手術道具を貸してください」
看師たちは一度、アイカたちが携えていた剣や武器に視線を走らせたが、ハナネの背に負われた少女を目にすると、血相を変えた。
「これは……酷い! 早く手術室へ。誰か先生を呼んで!」
「でも、この状態じゃ……もう手遅れじゃ……」
髪を横に二つに分け、結んでいる看師が声を張り上げた。だが、少女の容体を目にした短髪の看師は、絶望に顔を歪め、その場に立ち尽くしてしまう。
二つ結びの看師は舌打ちし、さらに強く声を張り上げた。
「いいから、急いで!」
その叱咤に、ためらっていた短髪の看師がようやく駆け出す。残った二人は、ハナネに背負われた少女を支えながら、急ぎ別室へと案内していった。
後方に取り残された茶髪の看師と黒髪の看師が、今度はアイカとレイサへと視線を向け、血と泥にまみれた姿を見て小走りに近づいてくる。
「あなたたちも怪我をしているわね。座って待って。手当するから」
二人は言われるままに長椅子へ。レイサはここまで強く掴んでいたリイトの腕を、ようやく放した。逃げる素振りも見せず、リイトはその場に立ち尽くす。悔しさを滲ませた横顔が、街灯のように冷たく見えた。
やがて看師たちが治療具を取りに走り去り、出入口近くの空気に一瞬の静寂が落ちる。
トライは壁際に立ち、面倒そうな眼差しでただ彼らを見ていた。
ほどなくして右端の扉が開き、医師と思われる男が呼ばれて駆け込んでくる。看師とともにハナネの後を追い、少女が運ばれた部屋へ消えていった。
アイカは、拭い去れぬ不安と心配を胸に抱きながら、ハナネと少女が消えていった扉をじっと見つめていた。
◇
ハナネは少女を背負ったまま案内された部屋に足を踏み入れた。
中央には手術台が一つ。壁の棚には消毒液の瓶や最低限の器具が並んでいるが、設備は驚くほど貧しい。
(いくら小さな診療所だからといって……すぐ近くには学院も、リュスカ堂もあるのよ。それなのに、これほどしか設備が整っていないなんて)
ハナネは心中で冷ややかに呟きながら、少女を台に横たえる。
少女をうつ伏せに寝かせると、ハナネはすぐに身体の向きを変え、やや急いだ足取りで棚の方へと向かった。
その瞳は冷たく鋭く、視線を棚の中に走らせている。
(必要なのは……消毒液、清潔な布、針と糸。それから――)
思考を巡らせながら、ハナネは一つひとつを選び取り、細い腕で運んでは手術台の隣にある物置き台の上へ並べていく。
その一連の行動に、看師たちは思わず目を見張った。
「ちょっと……あなた、何をしているの!?」
二つ結びをした看師の驚きと戸惑いの声が、狭い部屋に鋭く響く。
しかしハナネは耳を貸すことなく、次々と器具を集めていった。瓶に入った消毒液と水。淡い桃色を帯びた薬液。清潔な布。空の器。剪刀、鉗子、鑷子、清刀。
やがて必要なものを一通り揃えると、再び視線を部屋の中に走らせる。狙いを定めると、ためらいなく足を運んだ。
白く薄い医療用の手袋が並んでいる。ハナネはそれを一組取り、躊躇なく両手にはめ込む。
「この子の手術は、私がします」
冷ややかな声音。視線は自らの両手に落とされたまま。
ハナネの言葉に、看師たちは息をのんで互いに顔を見合わせ、すぐに彼女へと視線を戻した。
「手術って……子供にできるわけないでしょう!」
二つ結びをした看師が怒りを含んだ声で叫ぶ。続いて白髪の看師が、恐る恐る口を開いた。
「そうよ。友達が心配なのは分かるけど……もうすぐ先生が来るの。だから任せなさい」
少女を案じるあまり暴走しているのだろう――そう誤解した看師の声音には、宥めるような響きがあった。
だがハナネは微動だにせず、すでに手術台の前に立っていた。
「聞いているの!? 素人がやったら余計に悪くなるのよ!」
苛立ちを隠さず、二つ結びをした看師がハナネの肩を強く掴んだ。
その瞬間、ハナネの身体はぐらりと揺れる。
だが次の瞬間、彼女は振り返り、肩を掴んだ看師を冷たく射抜くように睨み返した。
張り詰めた視線に、看師は思わず息を呑み、一瞬たじろぐ。
だが掴んだ手を放そうとはしない。
張り詰めた空気を切り裂くように、手術室の扉が勢いよく開いた。
同時に甲高い声が響く。
「先生を連れてきました!」
駆け込んできたのは、先ほど医師を呼びに走った短髪の看師。そして、その後ろにもう一人――柔らかな紺色の上下に、学院の教員たちが身に着けるものと似た白衣を羽織った男性が姿を現した。
おそらく、この人物こそ「先生」と呼ばれる医師なのだろう。
(背中に矢が……。身体も冷たい。怪我を負ってから、いったいどれほどの時間が経っている……?)
少女の容体を確かめた医師は、思わず顔を青ざめさせた。重症の患者が運ばれてきたと聞いてはいたが、まさかここまでとは。
(今すぐに治療をしなければ。必要なのは……いや、まずは看師に止血を指示しないとーー)
思考がまとまらない。
喉がからからに渇き、唾を飲み込む音がやけに大きく響いた。
そんな医師の様子を、ハナネはじっと見つめていた。そして、物置台の上に手を伸ばすと、冷ややかな声を落とす。
「私がやります」
はっと顔を上げた医師は、思わず声を洩らした。
「……は?」
隣でハナネの肩を押さえていた二つ結びの看師が、すかさず口を開いた。
「先生、この子……さっきから自分が手術をすると言っているんです!」
呆れとも怒りともつかない声色。医師は看師の言葉を受けつつ、信じられないものを見るように少女を――いや、ハナネを見た。
「なにを言っている。子どもにできるはずがないだろう。下がりなさい!」
強い口調で言い放つ。だが、ハナネは怯まなかった。むしろ医師を射抜くように睨み返し、冷たく告げる。
「……あなたにできるようには思えません」
指先で布や器具に触れながら吐き捨てるように言う。
医師は一瞬、言葉を失った。
「だ、だからといって……! 経験もない子どもに任せられるわけがないだろう!」
必死に自分を奮い立たせるように、声を張り上げる。
経験が浅いのは事実だ。けれど、だからといって――子どもに任せるなんて、あり得ない。
だが、その必死の言葉にもハナネは微動だにせず、ただまっすぐに視線を返す。
「私は、できます」
小さくとも揺るぎのない一言だった。
その声に、医師も看師も思わず固まる。
確信に満ちた瞳。まるで長年この場数を踏んできた者のように、曇りなく澄んだ光を宿していた。
医師が言葉を失ったのと同時に、ハナネはもう視線を手元へ戻していた。台の上から淡い桃色の薬瓶を取り上げ、素早く蓋をひねる。途端、鼻腔を刺すような鋭い香りが室内に微かに漂った。小さな布に薬液を染み込ませると、ハナネは少女の顔の傍らへ歩み寄り、その鼻先へ布を近づける。
「……んぐぅ……」
少女は弱った身体をわずかに震わせ、苦しげな声を洩らした。瞼の下にうっすら涙が浮かぶ。ハナネはその様子を見つめ、低く、しかしどこか柔らかさを帯びた声で囁いた。
「ごめんなさい。辛いわよね。でも、これなら痛みが和らぐわ。すぐに終わらせるから」
囁き終えると、再び手術台の脇へ戻り、清刀と鑷子を手に取った。迷いのない手つきで矢の根元に沿って切れ込みを入れる。鋭い刃が肉を割き、鈍い音とともに血がじわりと滲み出した。ハナネは鑷子を差し入れ、傷口を押し分ける。やがて、肉の奥から矢尻の返しが顔を覗かせた。
その瞬間、ハナネの眉がわずかに動いた。だがすぐに、冷静さを宿した顔へと戻っていた。
「今から矢を抜きます。布を準備して、すぐに抑えて止血してください」
ハナネは淡々と指示を出す。しかし医師も看師も、呆然と立ち尽くしたまま反応がない。
「……え?」
情けない声が洩れた瞬間、ハナネの鋭い声が室内に響いた。
「早く!」
その一喝に、四人は慌てて我に返る。戸惑いながらも布を手に取り、患者の背に押し当てる準備を整えた。ハナネはその動きを横目で確認すると、清刀を置き直し、矢軸をしっかりと掴む。呼吸をひとつ整え――そして、一気に引き抜いた。
矢が少女の身体から離れた刹那、鮮血が迸る。布が深く押し当てられ、赤を吸いながら必死に溢れ出る命を堰き止めた。
看師たちの手が思わず揺らぐが、ハナネは冷静に声を飛ばした。
「押さえて、もっと強く!」
鋭い言葉に背を押され、看師は力を込める。数息のあいだに出血は勢いを失い、やがて滲む程度に落ち着いた。
しばしの圧迫で出血がいくらか落ち着いたのを確かめると、糸と針を取り、迷いなく縫い合わせにかかる。
細い手つきで肉を寄せ、針が通るたびに血が滲むが、彼女の動きは乱れなかった。
縫合を終えると、焼灼用の小さな鉄具を手に取り、火にかざして熱を帯びさせる。じり、と熱の匂いが広がる。
少女の肌にそれを軽く押し当てると、焼ける音と共に血の匂いが室内を満たした。少女の身体が小さく震える。
「大丈夫……もう少しだから」
優しい声をかけつつも、ハナネの眼差しは一切逸らさず、淡々と焼灼を終える。続けて薬瓶を取り出し、清めの液を布に含ませて傷口を拭い消毒した。
薬草をすり潰した膏薬を薄く塗り、その上から巻布で少女の身体をで丁寧に包み込む。
「――終わった」
すべての処置を終えたとき、ハナネはようやく小さく息を吐いた。
手のひらにはまだ微かに血の感触が残り、室内には消毒薬と血の匂いが濃く漂っている。
医師は目を大きく見開き、言葉を失ったまま立ち尽くした。
(まさか……こんな手際を……。まだ十五かそこらの子どもだろう……)
自分の目が信じられない。息を詰めるように見つめるだけで、声は出なかった。
看師たちもまた、思わず互いに顔を見合わせる。
「ねぇ……あの子、本当に……手術を成功させちゃったの?」
「ええ……大人の手助けもほとんどなしで……」
誰もが息を呑み、信じられない現実に目を疑った。
少女の痛みに耐える表情、ハナネの冷静すぎる動き、指先の迷いのなさ……すべてが、普通の子どもではありえない。
しばしの沈黙の後、医師は小さく唾を飲み込んだ。看師も固まったまま、まだその場から動けない。
ハナネは呼吸を整えると、そっと少女の肩に手を置き、胸の上下を確かめた。
顔色はまだ悪く、身体も冷えていたが――それでも、一命は取り留めたはずだ。
胸の奥で安堵が広がる。
彼女は身体を温めようと布を探しに棚へ向かいかけ、振り返りざま医師と看師へ声をかけた。
「この子をすぐ温かい場所に……お願いし――」
その言葉の途中で、全身を鋭い痛みが貫いた。
少女を救うことだけに夢中で、痛みを忘れていたのだ。気の張り詰めた糸が切れた途端、容赦なく痛覚が蘇る。ずきずきと響く頭痛。右足は裂けた布からむき出しになり、腫れあがった皮膚に赤黒い内出血が広がっていた。森での落下の傷だ。
よろめいたハナネを、医師も看師もようやく注視した。皆、少女にばかり気を取られ、彼女の怪我に気づいていなかったのだ。
それでもハナネは必死に歩みを進めようとした。だが、すぐに一人の看師が駆け寄り、彼女の肩を支えた。
「もう大丈夫。あとは私たちでやるから、あなたは向こうで休んで」
それは手術前、優しくハナネを思いやっていた白髪の看師の声だった。
ハナネは短い沈黙ののち、静かに言葉を落とす。
「……よろしくお願いします」
その声音は、もう尖りを帯びてはいなかった。ただ冷静で、穏やかだった。
支えられるままハナネは、アイカとレイサが待っている待合室へと足を進めた。
◇
ハナネと少女が手術室に運ばれてから、すでに一時間が過ぎようとしていた。
待合室では、アイカとレイサが二人の看師に手当を受けながら、閉ざされた扉を気にしていた。
「いたたたた……!」
アイカは茶髪の看師に両足首付近を巻かれている。青痣が大きく広がり、腫れと内出血が痛々しい。布を軽く締められるだけで飛び上がるように痛みが走り、短い声がこぼれた。
「両足とも打撲ね。しばらく動かさない方がいいわ」
看師が呟く横で、黒髪の看師はレイサの腕に消毒液を塗っている。
「こっちの子は切り傷が多いけど、骨や関節は大丈夫そう」
(……沁みるな)
レイサは消毒の熱さに眉を寄せながらも声は上げなかった。その対照的に、痛みを訴えるアイカの声が待合室に響く。
アイカの胸の奥には、別の痛みもあった。――ハナネのことだ。
森を出るとき、彼女がわずかに足を引きずっていたのを、アイカは見逃していなかった。
(ハナネ……大丈夫かな)
そのとき、閉ざされた扉が音を立てて開いた。
現れたのは、白髪の看師に支えられ、疲れ切った表情で歩みを進めるハナネだった。
「この子も手当をお願い」
白髪の看師が告げると、茶髪の看師がすぐに駆け寄り、代わってハナネの体を支える。
黒髪の看師は道具箱を脇に置き、柔らかな布を取り出すと、そっと彼女の肩にかけてやった。
「寒かったでしょう」
「平気です」
短く返す声はいつもの冷ややかさを帯びている。だがその右足は腫れ上がっていた。
「この子の足、骨折してるんじゃない?」
茶髪の看師が腫れた右足に目を留める。その言葉に、黒髪の看師も視線を落とし、小さくうなずいた。
「冷やすものと固定具を持ってくる」
短く告げると、黒髪の看師は駆け足で待合室から離れた。
「それじゃあ、お願いね」
白髪の看師は一言残し、手術室へと戻っていった。
残されたハナネは、ちらとアイカとレイサに視線を送った。二人とも怪我はあるものの、大事には至っていないと見てとり、かすかに肩をすくめる。
「ハナネ、足……平気?」
心配そうに問いかけるアイカの声は、普段の明るさを失ってか細かった。
一拍置いて、ハナネは答える。
「これぐらい、なんてことないわ。……あの女の子も助かったから」
冷えた調子の声。それを聞いたアイカは、むしろ安心したように微笑んだ。
「そっか……ありがとう! ハナネ!」
弾む声が戻ったのを聞き、ハナネは小さく顔を背ける。レイサはその様子に、思わず口元を緩めた。
やがて黒髪の看師が、手に氷水の袋と大きな上衣、足を固定するための細長い板を二枚、そして紐を抱えてて戻ってきた。
まずハナネに上衣をそっと着せてやり、腫れあがった足には氷水の袋を当てる。十分に冷やしたのち、巻布を施し、左右から板で挟み込む。最後に紐で丁寧に固定していった。
ハナネの手当が進むあいだ、少女は布でくるまれ、担架に乗せられて別の部屋へと運ばれていった。
運ばれていく一瞬、アイカの目に少女の顔が映る。森で見たときより、ほんのわずかにではあるが、その顔色は良くなっていた。アイカは小さく息をついた。
治療が終わると、沈黙を保っていたトライが口を開いた。
「――それで」
低い声に、三人は一斉に顔を向ける。
「君たちが傷だらけなのと、リイトが縛られている理由。説明してもらおうか」
その眼差しは鋭い。アイカたちは互いに視線を交わし、言葉を探した。
沈黙が落ちた中、トライは捕縛されたリイトへ視線を移す。
「リイト、君から話す気はあるか」
レイサに捕らえられてから、リイトは一言も発しようとしなかった。
問いかけに応じることもなく、視線を逸らし、固い沈黙を守っている。どうやら、自分から話すつもりはないらしい。
リイトの反応に、トライは困ったようにため息をついた。その隣で、ハナネが口を開く。
「私たちでは、どこまで説明していいのか分かりません。明日、十四の刻にネシュカさんと合流するので、その時に説明してもらうのでは駄目ですか?」
「その足で?」
冷たい口調で返され、トライの視線がハナネの右足へ落ちる。手当てはされているが、歩くには無理があることは一目で分かった。ハナネもまた、自分の足元へと視線を落とす。
確かに、この足ではトラーナ街の入口まで行くのは難しいだろう。
アイカも同じように自分の足首に目を向けた。頑張れば歩けないことはない。だが、それなりの痛みが伴うのは間違いなかった。
自然と、二人の視線が横にいるレイサへ向かう。
レイサは、急に視線を集められて肩をびくりと震わせた。二、三秒ほど固まったのち、片手を後頭部へ回し、やれやれと笑みを浮かべる。
「まぁ、俺だよな……」
軽口を叩いたレイサへ、トライの鋭い視線が向けられる。だが、すぐに三人へと向き直り、問いかけた。
「リイトはどうする」
詰め寄るような声音だった。そこで答えたのは、レイサだ。
「リイト・アダムスは、それまでの間、捕縛を解くことはできません。彼は俺たちにとって重要人物です」
視線を逸らさず告げる。もし今ここで解放すれば、彼は間違いなく逃げるだろう。――だから、引くことはできない。
しばしの沈黙ののち、トライは考え込むように息を吐いた。
「……いいだろう。親御さんには、寮の友人の部屋に泊まっていたとでも言って誤魔化しておく。ただし――くだらない理由だった場合は、それ相応の責任を取ってもらう。覚悟しておくように」
「はい」
「はい」
「はい」
三人は揃って強く答える。
それからアイカたちは医師の診察を受け、帰っても問題ないと判断された。トライと捕縛されたままのリイトも同行し、五人は学院へ戻ることになった。
ハナネが手当をした少女は、経過を見守る必要があるとされ、そのまま診療所に残された。アイカは少女のことを気にかけながらも、足を引きずりつつ学院への道を辿る。
◇
学院に戻り、アイカたちが寝泊まりしている部屋までたどり着くと、トライが振り返り告げた。
「君たち四人は明日の授業に参加しなくていい。……ハーリム以外は、ここで大人しくしているように」
それだけ言い残すと、彼はすっと背を向ける。おそらくはリイトの親へ説明に向かうのだろう。
部屋に静寂が落ちた数秒後、レイサはハッとした。
(あ、ハーリムって俺のことか……。家名が変わってると、やっぱり違和感あるな)
心の中でぼそりと呟く。
トライが去っていくと、アイカは疲れ切ったように真ん中のベッドへどさりと倒れ込んだ。
「疲れた……」
心底からの吐息交じりの声だった。ハナネも右足をかばいながら、そっと窓際のベッドに腰を下ろす。言葉にはしなかったが、その顔にはやはり疲労の色が濃く滲んでいた。
そんな二人を横目に見てから、レイサはゆっくりとリイトへ身体を向け、視線を合わせるようにしゃがみ込む。
「リイト。ベッド使うか?」
思いもよらぬ問いかけに、リイトは呆気にとられ、すぐに語気を荒げた。
「は? 普通、敵にそんなこと聞く奴がいるのか」
すでに優等生らしい口ぶりは消え、荒々しい声音が滲む。傍らで聞いていたハナネも、どうして自分たちに危害を加えようとした相手にそんな言葉をかけるのか――そう問いたげな表情を浮かべ、レイサの意図を測りかねるように小さく首を傾げた。
アイカは変わらぬ調子で、じっと二人を見つめている。
レイサは天井を仰ぐようにしながら、軽く口を開いた。
「別に使いたいなら使ってもいい。どうせ、お前はここから逃げたりしないだろ。それに――俺はもう行くからさ」
その言葉に、アイカが跳ね起きるように声をあげる。
「えっ、レイサもう行くの!? 早すぎない!?」
驚きの声はもっともだった。ネシュカとの待ち合わせは縁刻の間。今から出発したとしても、まだ十二時間は余っている。
レイサは笑顔を浮かべ、アイカの方へと顔を向けた。
「まぁな。でも縁刻に合わせてここを出たら、かえって目立つだろ。だったら早めに動いて、先にネシュカ先輩たちを探して合流した方がいい」
笑顔でそう告げると、アイカは一瞬だけ考え込み、すぐにぱっと笑った。
「それもそっか!」
明るい声が部屋に弾んだ。
「じゃあ、俺、行くから」
レイサはそう言ってゆっくりと立ち上がり、アイカとハナネの方へ視線を向けた。
「二人とも、けっこう怪我してるんだから無理するなよ」
その声は、どこか明るさを装いながらも優しさがにじんでいた。
「わかってるー!」
アイカは力なくも元気そうに返す。
ハナネは言葉を返さず、ただ静かに視線を向けるだけだった。
二人の反応を受けて、レイサは「よし」と小さく気持ちを切り替えるようにうなずくと、扉の方へ歩いていき、そのまま部屋を後にした。
扉が閉まると、部屋には静けさが落ちた。
それぞれの思いを胸に抱えたまま、三人はただ静かに、夜明けを待った。
神血の英雄伝 第六四話
読んでいただきありがとうございました。
次回も読んでくださると嬉しいです૮ ˶ᵔ ᵕ ᵔ˶ ྀིა
清刀→メスのイメージ




