七年ぶりの声
三人は部屋へ戻ると、自然と明日のことを話しはじめた。
「いつ聞くんだ?」
レイサが顎に手を添えながら、二人を見渡した。
「授業が全部終わったあとがいいわ」
窓際のベッドに腰を下ろしたハナネが、迷いのない声音で答える。
「小休憩や昼休みに声をかけても、あとに授業が控えているでしょう。落ち着いて話すのは難しいし、相手に考える余地を与えてしまう」
「そうなるよなぁ。でも聞くって言っても……教室や食堂だと目立つか」
レイサは廊下側のベッドにバフッと腰を落とし、仰向けに腕を組んだ。苦々しい笑みを浮かべながら天井を見上げる。
「どっか人のいない場所……」
アイカも腕を組んで考えるが、すぐには思いつかない。後課の校舎と央棟しか立ち入れず、どちらも人で賑わっている。外も同じく、生徒たちの帰りで混雑してしまうだろう。
レイサとアイカが頭を抱えている間に、ハナネは静かに思考を巡らせていた。学院に来た日の案内板を思い出す。学院裏の森――あそこなら、人目を避けられるかもしれない。
(わざわざ学院裏に森があるのは、授業や観察のため。なら、生徒の出入りも自然なはず)
学院裏の森は、生徒に本物の自然を見せるための場所。そう思い至ったハナネは、二人の方へ顔を向けた。
「学院の外にある森――あそこなら、人目もあまり気にしなくていいと思うわ」
ハナネの提案に、アイカとレイサの視線が同時に彼女へ向いた。
「ありだな」
レイサは頷き、ベッドに身を預けた。
「いいじゃん! さすがハナネ!」
アイカは満面の笑みを咲かせ、勢いよくハナネを見つめる。
だが、向けられた笑顔を受け止めるよりも早く、ハナネはぷいと顔を背けた。
それでもアイカは諦めない。きらきらとした笑みを崩さず、横顔の向こうに視線を注ぎ続ける。
その様子を見ながら、レイサは小さく笑った。
(ほんと、正反対だよな、この二人は)
◇◆◇
翌朝。
三人は荷を整えると、心を落ち着けて早めに部屋を出た。リイトを森へ誘うには、人の少ない時間が好都合だ。昨日もリイトは誰より早く教室にいた。ならば今日も、そうだろう。
生物学の教室の扉を開けると、予想どおりリイトの姿があった。まだ誰もいない教室で、一人静かに教本を開いている。今しかない。
三人は自分の席に荷物を置くこともせず、まっすぐリイトの方へ歩み寄る。足音に気づいたリイトが顔を上げ、椅子ごと体を捻ってこちらを振り向いた。
そして三人の姿を認めると、柔らかく目元を細めた。
「三人ともおはよう。今日も早いんだね」
その穏やかな声に、レイサが一歩進み出て口を開く。
「今日はリイトに頼みがあって早く来たんだ」
「僕に頼み?」
リイトが首を傾げる。疑問を浮かべるその仕草に、ハナネが静かに言葉を重ねた。
「ええ。今日の放課後――学院の外にある森を、案内してくれないかしら」
リイトは教本から視線を外し、しばし考え込むように机の端へ目を落とした。指先で本の角をなぞりながら、小さくその言葉を反芻する。
「……森、か」
その声音が何を意味するのか、三人には読み取れない。単純に迷っているのか、それとも自分たちの意図を疑っているのか――妙な沈黙が落ち、レイサとハナネの胸に緊張が走った。
まだ承諾を得るには足りない。案内してほしいと願うだけでは、リイトを動かすには弱い。
(何か、もっと確かな言葉を……。けど、下手に出たら逆に怪しまれるかもしれない)
レイサは唇を噛み、じっとリイトを見つめる。ハナネもまた息を殺し、その表情を探るように目を向けていた。
――だが、その張り詰めた空気の中で、ただ一人、囚われない者がいた。
「私、まだ来たばかりで知らないことばかりだから……もっと知りたいんだ!」
アイカは弾む声で言い、眩しい笑顔を向ける。
「だから案内してほしい!」
アイカは、いつもと変わらない無邪気な笑顔で言葉を放った。
飾り気のないその声は、張り詰めていた空気をふっと和らげる。
リイトはしばし黙したまま、アイカの笑顔を見つめていた。
迷いを抱えた瞳が、少しずつ柔らかさを取り戻していく。やがて肩の力を抜き、口元に穏やかな笑みを浮かべた。
「……うん。いいよ」
「ありがとう!」
アイカがぱっと声を弾ませる。
横で見ていたレイサとハナネは、思わず息を呑んだ。
自分たちがどれほど言葉を尽くしても、彼を迷わせるだけだったかもしれない。だが、アイカの自然体の一言は、重ねた理屈を飛び越えて、まっすぐ胸に届く。
二人は同時に悟った――この場面で一番強いのは、自分たちではなく、アイカの無邪気さなのだと。
「案内するのは構わないけど……少し寄りたい場所があるんだ」
リイトは言葉を切り、三人の顔を順に見回した。
「十六の刻に森の入り口で待ち合わせ、でどうかな?」
一瞬の沈黙ののち、三人は互いに目を合わせた。
レイサが軽く息をつき、代表して頷く。
「ああ。俺たちも授業が終わってすぐだから、むしろありがたいよ」
「なら、よかった」
リイトは肩の力を抜き、微笑みを深めた。
そのとき、教室の扉がガチャリと開き、廊下から数名の生徒が入ってきた。
「あれ、四人とも今日も早いな」
男子生徒の一人が笑いながら近づいてくる。
「学院に慣れるまでは、早めに来ようと思ったのよ」
ハナネがにこやかに返すと、男子生徒は納得したようにうなずき、自分の席へと向かった。
静けさを破って次々と生徒が集まり、教室が徐々に賑わっていく。アイカたちも席へ戻ろうと背を向け、歩き出した。
その背中を――リイトはしばし、じっと見つめていた。
やがて、誰にも気づかれぬように口元を歪める。
それは優等生らしい微笑の形をとりながら、どこか底知れない色を帯びていた。
それからアイカたちは、ひたすら放課後を待った。
授業中、黒板に文字を走らせるトライの声が響く。アイカたちは一応教本を開き、視線を板書と先生の姿に交互に向けてはいたが、頭の中にはほとんど入ってこない。
胸の奥で、刻限までの時間だけが重たく流れていく。
昼休みになっても落ち着きはしなかった。他の生徒に誘われて食堂へ向かい、明るく相槌を打ちながら食事をとる。
だが心ここにあらずで、口に運んだパンの味もよくわからない。
ふと視線を探しても、リイトの姿はなかった。今日は郷学の友人と中庭で弁当を食べるのだと、言って教室から出て行ってしまったのだ。
三限目も上の空のまま終わり、ようやく全ての授業が終わった。三人は半ば早歩きで部屋へ戻る。
部屋に着くなり、すぐに動けるよう鞄を机に置きっぱなしにした。
ハナネは腰に結ぶ紐を短く調整し、太ももの付け根に沿わせるように取り付ける。その外側に短剣を忍ばせ、さらに銃を制服の胸元あたりに隠し入れた。
一方で、アイカの斬槍とレイサの剣は、ハナネのように簡単に隠せるものではない。二人は互いに顔を見合わせ、どうしたものかと眉をひそめた。
そんな二人に、ハナネが顔を向けて言った。
「今なら、生徒の多くは帰宅するか寮に戻ってるはず。人目に気をつけて運べば問題ないわ。それにリイト・アダムスには――ナサ村で作られた道具を見せるつもりだった、とでも言っておけばいいのよ。ああいう子は、不思議に思っても口には出さないから」
冷ややかな声でそう告げる。
「へぇ〜、そうなんだ! やっぱりハナネは何でも知ってるね!」
無邪気に笑顔を見せるアイカ。
一方、レイサは渋い顔を崩さずに言った。
「……そんな言い訳で通るのか?」
「なら、置いていくつもり? いざという時、自分を守る手段がなくなるわよ」
ハナネの一言に、レイサは唇を噛み、やがて小さく頷いた。
三人はそれぞれ武器を携え、人気のない道を選んで森へ向かった。幸い、ハナネの言葉どおり周囲には人影はなく、移動は順調だった。学院の門を抜けると、リュスカ堂のある大通りを避け、反対側の裏手から学院裏の森へと足を進める。
◇
森に着いたとき、まだリイトの姿はなかった。代わりに、真ん中に長い棒が一本、目印のように立っている。
三人はその下で立ち止まり、緊張を隠せないまま待った。木々を揺らす風の音にさえ、胸の鼓動が跳ね上がる。
(絶対、失敗したくない……)
アイカは唇を結び、祈るように思った。
やがて――トコトコと靴音が近づいてくる。三人が一斉に顔を向けると、そこにいたのはリイトだった。優等生らしい微笑みを浮かべ、ゆったりと歩み寄ってくる。
「えっと……二人とも、随分怖そうな武器を持ってるね。狩りにでも行くみたい」
困ったように笑うリイトに、アイカが胸を張って答える。
「これ、ナサ村で作った守り道具なんだ!」
続けてレイサが補足した。
「“守り道具”ってのは、ナサ村の子どもたちが使う言葉だよ。リイト、お前、村のことに興味持ってただろ? だから、見せたくてさ」
その言葉に、リイトの表情がぱっと明るくなった。
「持ってきてくれたんだ! ありがとう。嬉しいよ!」
しゃがみこみ、子どものような眼差しで二人の武器を覗き込む。
「アイカの道具は変わった形だね、初めて見るよ。レイサのは剣、でいいのかな? 鞘もすごく丁寧に作られてる……やっぱり他の地域とは少し違うのかな」
無邪気に興味を示す様子は、村を出たばかりの頃のアイカとレイサを彷彿とさせた。だが、ふと我に返ったように顔を上げる。
「あ、ごめん。森を案内するんだったね。行こう」
リイトの背を追い、三人は森の中を進んだ。道は人が歩ける程度に整えられている。夕暮れの光が差し込む森は美しくも不気味で、鳥の声と虫の羽音だけが響いていた。――獣の気配は、まるで最初から存在しないかのように消えていた。
「これから、この森で一番の絶景スポットに案内するよ。この時間なら夕焼けが、すごく綺麗なんだ」
リイトは振り返ることなく、淡々と告げる。その先、道はなだらかな坂へと続いていた。彼は迷いなく、真っ直ぐに登っていく。
(誰かにつけられてはいないはず……)
レイサは耳を澄まし、四方に気を配った。枝を踏む音、落ち葉をかき分ける気配――だが、聞こえるのは自分たちの足音だけだ。
ハナネは一言も発せず、ただリイトの背中を凝視していた。微かな動きも見逃すまいと、目を細めて。
四人の間に、重苦しい沈黙が広がる。緊張の糸に縛られて、誰も話題を持ち出せなかった。
ただひたすら、足音だけがざくざくと森に響き渡っていく――。
十分、二十分と歩き、やがて視界が開ける。夕陽に照らされた森の頂。まさしく絶景と呼ぶにふさわしい場所だった。
リイトはふいに立ち止まり、くるりと振り返ると指先を下に向けた。
「アイカ、足元に虫がいるよ。気をつけて」
「虫?」
アイカは反射的に視線を落とした。レイサとハナネも、つられるように同じ場所をのぞき込む。
――その一瞬、気が緩んだ。
「どこに……」
アイカの声が途切れるのと同時に、凄烈な風が吹き荒れた。
突如として襲いかかったその風は、森全体ではなく、彼ら三人だけを狙い撃つかのように集中している。枝も葉もほとんど揺れていないのに、足元から腰をえぐり取るような突風が押し寄せた。
アイカは思わず瞳を細め、腕で顔を庇った。風はなおも勢いを増し、三人を引き裂くように襲う。レイサとハナネを後方へと強烈に押し流し、アイカを二人から遠ざけるかのように、壁のような空気の流れが立ちふさがった。
レイサとハナネの足元がぐらつき、土を蹴るようにして地面から浮きかけた。
(二人が……!)
アイカは必死に踏ん張り、腕を伸ばした。だが――それも束の間。背を押されるような感覚に、身体がよろめく。
反射的に振り返った先には、小柄な影がいた。羽織りをまとい、帽子を深くかぶったその人物が、確かにアイカを押していた。顔は影に隠れ、表情までは見えない。
「アイカ!」
レイサの叫びが届くよりも早く、風はさらに荒れ狂った。レイサとハナネを狙い撃つかのように吹き上げ、二人の身体は宙に浮かぶ。叫びも届かず、暴風にさらわれていった。
(この風……!)
レイサは歯を食いしばり、かろうじて瞳を開けた。皮膚を裂くような突風――まるで意思を持ち、狙いすましたかのように自分たちを攫おうとしている。
(強すぎる……! どこへ飛ばされるのか……分からない!)
恐怖と混乱が胸を締めつける。
隣ではハナネも、制服を翻しながら必死に耐えていた。地に爪を立てるような執念で風に抗い、それでも身体は軋むように浮かされていく。
「レイサ! ハナネ!」
飛ばされていく二人へ叫んだ瞬間、アイカの襟元を誰かが掴んだ。ぐいと力強く引かれ、そのまま坂の崖際へ――。
抗う暇もなく、アイカはその人物と共に宙へ投げ出される。
吹き抜ける風。視界がぐるりと反転し、心臓が喉までせり上がった。
次の瞬間、掴んでいた人物はアイカを放し、わずかに距離を取って落下していく。
(下は……高い! このままじゃ……!)
迫り来る地面。アイカは必死に体勢を整え、全身に力を込めた。
――ドン、と衝撃。
受け身は取れた。骨は折れていない。だが痺れる痛みが四肢を走り、呼吸は乱れる。
荒い息の合間に呟く。
「いったい……何……」
頭の中は渦を巻いていた。風の正体は? レイサとハナネはどこへ? 自分を押したあの影は誰だ? リイトは……?
カツ、カツ、と土を踏む音。
誰かが、真っ直ぐにこちらへ近づいてくる。
顔を向けたアイカの視線に映ったのは、小柄な影。背丈は百四十センチほど、手には剣を握っている。羽織の帽子を深くかぶり、表情は見えない。
その人物は、アイカの目の前でふと立ち止まった。
(誰……? 敵……?)
ゆっくりと、帽子のつばに手がかかる。
ごくり、と唾を飲む音が自分のものだと気づいた時には、もう遅かった。
覆いを外す仕草は静かで、しかし抗いがたい緊張を伴っていた。
顔が、月明かりに照らされていく。頬の線、瞳の色、口元――。
完全に露わになった瞬間、アイカの瞳が大きく見開かれる。
声を失い、口が半ば開いたまま動かない。
その人物は帽子を手にし、静かに言葉を紡いだ。
「……久しぶり。七年ぶりだね、お姉ちゃん」
神血の英雄伝 第六一話
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次回も読んでくださると嬉しいです૮ ˶ᵔ ᵕ ᵔ˶ ྀིა




